呼吸している

陽澄すずめ

呼吸している

「ねぇ、今日何の日か知ってる?」

「えっ――?」

 ダイニングテーブルの差向いに座った彼に、私は問い掛けた。

 二人の目の前に置かれたクリームシチューからは、ほわほわと湯気が立っている。

 掛時計の秒針が、こつこつと足音を立てる。こういう時にやけに大きく聞こえるそれは、彼の頭の中で時限爆弾の起爆装置のように鳴り響いているに違いない。

「――なんだっけ?」

 予想通りの回答に、私は思わず笑みをこぼす。

 するとつられて彼も笑う。

「ホワイトデーだよ」

 表情とは裏腹に、私の声は重く冷たく響く。

 すると彼の笑顔も、氷点下の風にさらされたかのように凍りつく。

「……ごめん」

「ごめんで済むなら警察いらんわ」

「うん、ごめん」

「シチュー冷めるよ」

 しょんぼりした犬みたいに頭を垂れた彼は、手許のシチューに視線を落とす。そこでようやく気づくだろう、なぜニンジンがハート型にくりぬかれているのか。ちなみに一ヶ月前には、同じものがビーフシチューの中に入っていた。

「ごめん、マキ」

「いいよ、別に」

「……怒ってる」

「怒ってないよ。多分忘れてるだろうなと思ってたし」

「あぁぁぁ……」

 彼はこの世の終わりのような溜め息をつき、がくりとうなだれた。

 私は一人静かにシチューをすする。

 怒っていない、というのは本当だった。このところの彼が、イベント事をきちんと覚えていた試しなどないからだ。たちの悪いことに、本人に悪気は一切ないらしい。日々カレンダー上に点在する数々の記念日たちは、彼の頭の中に何もひっかかることなく、するりとすり抜けていってしまうようだった。その調子で結婚記念日を忘れていたときには、さすがに怒ったが。

 期待しない。

 それが傷を最小限に抑える防壁なのだ。

「おかしいなぁ、一昨日くらいまでは覚えてたんだけどなぁ」

 ほんとかよ。

「ごめんついでに、もひとつごめん。明日飲み会入った」

「ん。じゃあ私、実家でごはん食べてくるわ」

「ごめん」

 まったく、何回「ごめん」を言ったら気が済むのか。「ごめん」市場はインフレーションを起こしている。

「ホワイトデーに関しては、近いうちに必ず用意させていただきます」

「ん」

 この、少々物覚えの悪い夫とは、結婚してもうすぐ三年になろうとしている。

 結婚する前に四年付き合っていたから、かれこれ七年間も一緒にいることになる。

 付き合い始めたばかりの頃は、季節ごとにやってくるイベントをわくわくしながら待ったものだ。

 しかしそれも一周、二周と巡るうちに徐々に新鮮味がなくなり、彼はだんだん行事や記念日を疎かにするようになっていった。

 結婚して以降は更に、それに拍車がかかった。私もだんだん文句を言うのも面倒になり、諦観の念を身に着けた。そのうちに、彼の中の「記念日」という概念そのものが希薄になってしまったようだった。

 夫婦二人のうちはまだそれでも良いが……と思う。

 私たちはこの三年間、とりたてて緩急もないまま、恋人の延長線上のような、夫婦未満の関係を続けている。


「ね、まだ怒ってる?」

 黙々と食器を洗っていると、私の腰にするりと腕が回された。彼の問い掛けに対し、私は淡々と言い放つ。

「別に怒ってないよ。……ちょっと、洗い物の邪魔なんだけど」

「ごめんってば。マキ、最近俺に対して冷たくない? 言い方とかさ」

 背中にぴったりと寄り添う彼は、さしずめ主人の機嫌を取ろうとする犬のようだ。私は苛立った。

「ホワイトデー忘れといて、どの口がそれを言うか」

「あっ、ほら、やっぱり怒ってるじゃん」

 「やっぱり」怒っている、という彼の見解は誤りだ。何も私は、彼がホワイトデーを忘れていたことに対して怒っている訳ではない。

 彼は記念日をたやすく忘れるほどに、本当は私がどうして欲しいのかを自分から考えることもしない。率先して家事を手伝ってくれる訳でもない。それどころか、朝も一人で起きられないほど、生活のほとんどを私に頼り切っている。そのくせ、そうしたことに私が不満の意を表明しても、べたべた甘えれば万事解決すると思っているのだ。

 私は冷たいと、彼は言う。

 だったら私も言いたい。怠けるのも大概にしろ、と。

 しかし今日に限っては、この気分の悪さは何も彼ばかりのせいではなかった。

「ね、康介」

「なに?」

「生理、また来ちゃった」

 その言葉に、それまでさわさわと私の身体をまさぐっていた手が止まる。

 蛇口から落ちる水が洗剤の泡を押し流し、排水口に消えていく。

 一瞬の静寂の後、彼の両手がぽんと私の肩に置かれた。

「――そっか、身体あっためて早く寝なよ」

「うん……」

 また、できなかった。

 また、流れて落ちて行ってしまう。

 下腹部に、鉛を埋め込んだような鈍痛が響く。

 時々それは、空のまま出て行かざるを得ない卵子の、最後の抵抗ではないかと思える。

 私たちには、結婚してから三年間、子供がいなかった。

 意図したことではない。欲しくないと言ったら嘘になる。

 ところが残念なことに――康介の物覚えの悪さなんかよりもずっと確実な破壊力を持って――きっちりと二十五日の周期で来るそれは、毎回私を谷底へと突き落とすのだ。

 また、赤ちゃん、できなかった。

 傷つくのが厭だからと、期待しないでいられたら、どんなにいいだろうか。





 結婚してからも、私は仕事を続けていた。

 それなりの規模の会社だし、結婚しても働き続ける女性が多いから、続けられるうちは続けよう、という心づもりだった。

 そうこうしているうちに、実はいつまででも続けられてしまうのではないか、ということに気づいた。

 会社にいる間は、私は「岡村マキ」ではなく、旧姓の「池本マキ」だ。

 ここには、「岡村康介の妻であるところのマキ」はいない。「池本マキ」という純粋な個人が求められている。

 一日のうち三分の一を、ただのいち個人として過ごす。

 一日のうち三分の一は、自分のことだけで成立してしまう。

 そのことがより一層、「妻」としての感覚を鈍らせる。



 ホワイトデー事件の翌日、私は会社から実家に帰った。

 今の自宅であるマンションは、私の実家に程近い。普通電車の停まる駅で三駅分だ。私のわがままで、そうしてもらった。とは言っても、そんなに頻繁に実家に帰る訳でもない。私は家を出てしまった娘なのだ。

 玄関を開けるなり、伯母さんが私を出迎えた。

 五年前に血みどろの離婚協定の果てに旧姓に戻った母の姉は、割に気軽にうちに夕飯を食べに来る。私のいとこにあたる彼女の息子は、既に独り立ちしている。

「あら、マキちゃん久しぶり、おかえりなさい」

「ただいま」

「どうしたの、康介くんとケンカでもした?」

「ううん、今日は向こうが飲み会だから」

 一人分のごはんを作るのもめんどうだし、なんてことは、この伯母には口が裂けても言えない。

 正直、会いたくない相手だった。特に今夜は。

 台所の扉を開けると、母が夕飯の準備をしていた。肉じゃがのいい匂いがする。

「ただいま」

「おかえりなさい。もうすぐごはんにするからね」

 実家を出て三年が経つが、母が台所にいる風景は何一つ変わらない。今朝もこの家から出かけたでしょうと言われたら、まるきり信じてしまいそうなほどだ。一人で実家に帰る度、結婚して家を出たことを忘れそうになる。

 女三人食卓を囲めば、始まるのは男の悪口だ。

「ほんとお父さんってば、自分のことばっかりでちっともうちのことやらないんだから」

 母がまだ帰宅していない父をなじれば、

「結局男なんて、大きい子供と一緒よ」

 と伯母が別れた夫の文句を言う(いまだに言う、驚いたことに)。

「私なんて、ホワイトデーの存在自体を忘れられてたよ」

 私も負けじと、今一番ホットな話題を切り出す。

「若い人ってそういうのを欠かさず準備するもんだと思ってたわ」

「若さ関係ないよ、お母さん。そういうのは根本的にイベントが好きかどうかに拠るんだよ。もっとも、康介には『記念日』って概念すらあるかどうか怪しいと私は思ってるね」

 それを聞いて、伯母がからりと笑う。

「随分ボロクソだねぇ。その調子じゃ、子供できてからもっと苦労するんじゃないの?」

 ――あ。

「……まぁ、そうかもね。そうなったら今まで以上に、カレンダーにでかでかと書いておかなきゃ」

 うまく笑えているだろうか、私。

「とりあえず、お茶入れるね」

 あはは、と軽く笑って母が立ち上がる。その笑顔に、私は妙にいたたまれない気持ちになった。

 その後も、他愛もない世間話や愚痴や、テレビドラマの感想などが和やかに交わされた。

 誰も笑顔を絶やすことなく、私も笑顔のまま、午後九時には実家を後にした。


 あけっぴろげな伯母が、知らず知らずに地雷を踏むのはよくあることだ。皆慣れているし、さらりとかわすくらいにはそれぞれ大人だ。

 伯母には、悪気はない。それは充分わかる。多分、私たちが敢えて子供を作っていないのだと、思っているのだろう。

 でも、悪気がないからこそ、彼女の言うそれが「世間一般の基準」なのだと思い知らされてしまう。すなわち、ふつう結婚した夫婦にはいずれ子供が生まれる、ということが。

 ――だめだ。

 なんだか昨日から、悪意のない人々にやたらと翻弄されている気がする。





 マンションに戻ると、部屋の中がやけにひっそりとして見えた。

 私はコートだけ脱いで、そのままソファに沈み込んだ。下腹部が重い。昼過ぎに飲んだ鎮痛剤が切れてきたのがわかる。

 私は無理やり身を起こし、薬を水で流し込む。錠剤は喉の奥で引っかかりながら、ゆっくりと食道をおりていった。

 再びソファに身を横たえると、掛時計の秒針の音が部屋じゅうに反響するように感じた。今度は何をカウントダウンしているのだろう。私の、平らに続く人生だろうか。だとしたら、途方もない。

 おかしな感じだった。

 小さな頃は、結婚したらちゃんと「おくさん」になるのだと思っていた。そしていつかは「おかあさん」になるのだと、そう思っていた。

 ところが私は、あの頃からちっとも変わっていない。うんと小さな頃から続く「池本マキ」から、他の何にもならずにここまで来てしまった。自宅に帰っても、会社にいても、実家に戻っても。

 自分が康介の「妻」だという感覚は、未だによくわからない。「母親」にも、いつなれるかわからない。「男なんて、大きい子供と一緒よ」と、伯母さんは言う。今の私は、「康介の母親」みたいだ。そんなものに、私はなりたい訳じゃない。

「康介」

 なんとなく、彼の名前を呼んでみた。

 コツ、コツ、と、秒針が返事をした。


 空気のようだ、と思う。

 かつて激しく燃え上がって、夢や希望に満ち溢れていた彼への想いと比べたら。

 優しい夫、可愛い子供。カレンダーに大きく、家族の誰かの誕生日や旅行の予定なんかを書いて、それを楽しみに待つような家庭。大好きな人と築く、明るく楽しい夢の結婚生活。

 でも、それは「夢」だった。

 私を待っていたのは、夢ではなくて現実だった。

 記念日も平日も、ハレの日もケの日も、ただただ続いていくだけの現実の日々。

 それは空気と同じ質感で、緩慢に私を取り巻いた。

 徐々に、鎮痛剤が身体じゅうに浸みわたってくる。私の思考回路をじわじわと遮断し、茫洋と雲の上に浮いているような気分になる。

 私の人生は、まさしくそういうものなのかもしれない。


 一人でも歩ける、平坦な道。

 二人で歩く意味は何だろう。

 何のために結婚したんだろう。

 そう思って、自分でびっくりした。





 玄関の鍵が開けられる音で、私は目覚めた。

「ただいまー」

 どたどたと、彼の足音が聞こえる。

「ごめんマキ、遅くなって」

 またごめんって言った。私は寝転がったまま顔だけを上げる。午後十一時。いつの間にか眠っていたらしかった。

「大丈夫? 生理痛?」

「ん」

 彼が、逆さまに私の顔を覗き込む。途端にゆるゆると身体の力が抜ける感じがした。眠っていたのに、がちがちだったのだ。

「ケーキ買ってきたから、食べよう」

「ケーキ? なんで?」

「昨日ホワイトデー忘れてたからさ」

 私はむくりと身体を起こす。テーブルの上に、駅前のケーキ屋さんの箱が置かれていた。彼がいそいそと包装紙をはぎ取ると、中から現れたのは大きなデコレーションケーキだった。

「……何それ、ホールケーキじゃん」

「うん、俺が食べたかったから」

 彼は無邪気にそう言うと、食器棚の引き出しからフォークを二本取り出した。

「包丁、まな板立てのとこだよ。とりあえず四等分?」

「えー、このままでいいじゃん。俺、ケーキを丸のまま食べるの夢だったんだ」

 言うなり、彼はフォークを直接ケーキに刺した。そしてスポンジとクリームをたっぷり掬うと、大きな口でいっぱいにほおばる。

「その気持ちはわからなくもないけど」

 というか、ホワイトデーのつもりで買ってきたのに、あんたが真っ先に食べてどうするの。言おうと思ったが、あまりに嬉しそうな彼の顔を見たら、何も言えなくなってしまった。

 私は諦めて立ち上がり、コーヒーを淹れるために電気ポットの電源を入れる。湯が沸くまでの間、私は彼の正面の椅子に腰を下ろし、彼がおいしそうにケーキを食べる様子を眺めた。

「マキも食べなよ。うまいよー」

「……うん、じゃあお言葉に甘えて」

 私はケーキの上にきれいに整列したイチゴを指でつまみ、口の中に放り込んだ。ちょっと酸っぱい。頭が少しすっきりする。

「あー! 真っ先にイチゴ食うとか、邪道でしょ」

「おいしいものは一番空腹の状態で食べないと、真のおいしさがわからないってもんだよ」

「くそー」

 一瞬本気で悔しそうな顔をした彼は、次の瞬間にはひょいひょいと二、三粒のイチゴをフォークで口に運び、どうだと言わんばかりの顔で私を見た。その様子があまりにもおかしくて、私は思わず吹き出してしまった。

 湯が沸いたので、私は席を立つ。手早くインスタントコーヒーを作り、色違いのマグカップを二つ持って、席に着く。

 私はテーブルに頬杖をついて、無造作に切り崩されたケーキに目を落とした。その断面の、スポンジとスポンジの間に挟まれたイチゴが、苦しそうに潰れている。

 そのまましばらくぼんやりしていると、目の前に一口分のケーキののったフォークが伸びてきた。驚いて視線を上げると、私の顔をじっと見つめる康介と目が合う。

「新郎から新婦へのファーストバイトは、『一生食べるに困らせないぞ』という意味がアルンデスヨ」

 彼がいつぞやの披露宴の司会者の真似をして言う。

 私は今度は笑わなかった。彼も真顔だった。

 返事の代わりに口を開けて、私はその一口を受け入れる。甘い生クリームが、張り詰めた神経をやわやわとほぐしていく。

「マキ、俺さ」

「うん」

「俺、一人っ子だからさ」

「……うん」

 その後に続く言葉は何だ? たくさん子供が欲しい?

「……今、マキと二人で、嬉しいんだ」

 彼の瞳が、柔らかく微笑む。

 コーヒーの湯気が、ふわりと薫る。

 私はうまく返事ができなかった。

「俺、全然気も利かないし、いつもマキに迷惑かけてばっかだけどさ。でも、焦らずに、二人でゆっくり行こうよ」

 焦らずに、二人で、ゆっくりと。

 彼の言葉が、みぞおちのあたりに温かいものを作り出す。

 口の中でふにゃふにゃになったスポンジが、喉をするりとおりていく。

 心臓が脈を打ち、澱んだ血潮が再び滑らかに身体じゅうを巡りだす。

 ふいに目の奥が熱くなる。

「こんなふうに丸のケーキを直接食べるなんてのも、二人じゃないとできないしさ」

 そう言って彼は、少し照れくさそうに笑った。

 なんて莫迦なんだろう、私。

 私はもう一本のフォークを手に取り、ケーキを大きく掬った。そしてそれを彼の顔の前に突き出す。

「新婦から新郎へのファーストバイトは、愛情の分だけ掬うんですよ!」

 滲んだ涙を誤魔化すように、私はやけに大きな声で言った。

 本当はおいしいものなのに、なかなかそれに気づけない。それは今、私が空腹ではないからだ。

「さすがにでかいって、それは!」

 そう言いながらも、彼はケーキの塊を無理やり口に入れようとする。その様子がおかしくて、私は笑った。

 壁時計の秒針は、相変わらず同じ速度で時を刻んでいる。





 二口分が掬い取られたウェディングケーキ。

 無数にたかれるフラッシュ。

 あの、現実離れした一日から続く、現実の日々。

 平坦な日々。

 あぁ。

 空気のようだ、と思う。

 康介がいなくなったら私は、きっと息もできなくなる。

 明日のことは、誰にもわからない。

 この先、どんな人生を送るかも、わからない。

 ホワイトデーの翌日に、切り崩されたホールケーキ。その向こう側に、彼の笑顔。

 そうだ、ゆっくり行けばいい。

 緩やかに続く道は、きっと日の光に照らされている。



-了-

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