第4話
黒髪の少女は変質した。ミイランに侵入され、その怪物と融合した。
言語を解するようになり、番犬Eとロクは会話も可能だ。問い質すことも、指示することも出来る。
それまでのロクとは別物だった。そう、黒髪の少女は変質したのだ。
*
番犬Eは事此処に至り、事態が完全に自らの手に余っていることを認めていた。
現状の把握と理解が出来ていないということ以上に、能力的にもこれは埒外だったのだ。番犬Bが死するような罠だらけの茨道。自分が生かされているのも不可解であれば、思索の行き場も無く弄ばれているような感覚。あるいは袋小路という言葉の方がより心境に則している。
手掛かりばかりが積み重なっていく。弄された戯言の数々に、得体は知れないが明らかに目的のある相手の行動。それに、ミイランという会話可能な敵方の生き証人にも取り憑かれた。絡み合う符号がどんな全体図を描いているのか、王女や番犬Aなら分かるかもしれない。逆転、彼らにしか分からないのだ。番犬Eの能力で及ぶ域に無い。
だから番犬Eは主の元へと帰った。
――そうして、そんな彼を出迎えたのは暴虐探偵の声で。
残った気力を全て粉砕され、番犬Eは頽れた。
*
「首を落としたから死んだと思うなど、どうにも人間的な思考が過ぎると思いませんか。どうです、王女様?」
「そこについては同意見なのですよ。暴虐に賛成なのです。ですがだからこそ、良いんですよ、E君は。番犬の中でもとびきり優秀だと王女様は思うのです」
B君と違って。
そう交わされる言葉の意味が把握出来ない。番犬Eの眼前に映る光景は一体何なのであろうか。
暴虐探偵は首を切り落とされ、生首となっている。その生首のまま、柔やかに笑みを浮かべてピノ・ルーマ・アシュテインと語らっていた。話題は番犬Eについてだ。引き合いに出されているEは現状を把握出来ない。
「ほほう。流石、斯様に酔狂な王国を運営している長の言うことは違いますね。これが人間愛」
「作ったのはお父様なのです。王女様は押し付けられただけなので、その評価は心外ですね。むぅーっ、です。それにE君は番犬だからこそかわいいのです。人間だなんて思ってないんですよ。巫山戯たことばかり言っていると、」
引き千切りますよ、暴虐。
生首に向けてそう続ける王女の姿はやはり、幼気な少女にしか見えない。現に番犬Eの背後からひょっこりと顔を出したロクがキラキラした視線で王女ピノを見つめていて――、正体不明の悪寒が番犬Eの背筋を走った。
その原因に思いを巡らす暇も無く、ロクが前に出て、ピノを抱きかかえた。
「わーっ、何この子。かわいいっ!」
「キャ! や、やめるのです! 王女様は愛でられるのは嫌いなのです! 愛でるのは好きですけれど!」
ロクとピノが姉妹のようなじゃれ合いを展開し、いよいよ番犬Eに稲妻のような頭痛が走る。仕える主に対する不敬からだろうか、正体を自覚できない拒絶感が痛みとなって番犬を襲った。
そこに追い打ちを掛けるように、不快な声が頭の芯まで良く通る雑音を届けてくる。
「おや。見目麗しい。それにしてもどうにも、どうやら成功しているようで。舌が回るし怯懦も無い。上手くやったのですね、蟲の姫」
生首は番犬Eを視界に入れさえもしない。その暴虐を殺した気になっていた無様なEは、まるで意識を向ける価値さえ無いとでもいうかのように。
だが番犬Eには憤る余裕が無かった。意識がそんなことに向くより前に、がつんと、殴打されるような衝撃が走ったからだ。それは不可視の、思考を揺らす飛礫。
――怯懦も無い。
暴虐に対して凄んでいたピノを、かわいいかわいいお人形さんを前にした瞳で見つめて、あまつさえじゃれつく。違う。間違っている。怯えるべきなのだ。
「勘違いしてるかもしれないけど、私、あんたのことなんて嫌いだからね? 話し掛けないでくれる?」
ロクの腹から声がする。ミイランだ。そのことにももはやロクは驚いた様子を見せなかった。ただ眉を下げ、ピノを下ろして不満げな視線を暴虐に飛ばす。
「何を。……何を、平常の態度で居る」
胸臆で渦巻く、荒ぶる激情はしかし、却って声を絞らせた。千切れんばかりに捻り搾り取られた言葉は小さく小さく、圧縮された熱量で震えている。
――ロクでさえも。
王女ピノ・ルーマ・アシュテイン。見た目からして幼い彼女は、実際に魔物として生まれてからの歳月もひどく短い。一週道しか経っていないのだ。だというのに彼女が王女という立場に立てているのには理由がある。単純な話だ。
魔物としての格が違う。
ピノ・ルーマ・アシュテインは上位の個体だ。そしてそれはそのままありとあらゆる能力において彼女が番犬Eを、否、番犬Bやミイランさえもを遙かに上回っていることを表している。迫力もまた、例外では無い。形がどうあれ、ピノは怪物だ。神とさえ言って良い、そういうものである。そしてその濃密なる気配に気付けぬ程の鈍感さは、番犬Bとミイランの戦いを見て、あまつさえミイランという魔物に取り憑かれた現在、ロクには許されていない。気付いているはずだ。
気付いていて尚、その振る舞い。
「おや、なんとつれない。もう少し心を開いて頂きたいところですよ、蟲の姫」
「死ね」
「はっはっは」
生首が笑い声を上げる奇っ怪な絵面よりも、その風景に溶け込んでいるロクがよほど番犬Eの視界には浮いて見えた。腹に取り憑いたものが生首と会話し、傍らの煌びやかな童女がこの中で最も強い魔物で、番犬Eはその武器、その爪、その牙であって。
そこに立つ黒髪の少女は何者なのだ。
ユエラの街での邂逅では、それは弱者で無垢で無知な、庇護下にあって当たり前の弱々しい畜生であった。暴虐の駒とは言え、それは、そう。番犬Eよりも弱かった。魔物めいては居なかった。この世界に、魔物しか居ない世界に馴染めようはずが、そのままであったならば有り得ようもなかったのだ。この風景の一部に溶け込んでいるなどと、そんな溶解可能な同質性を持ち合わせてはいなかったのに。
ロクは不機嫌そうだった。ただそれだけだ。この状況にあって不快感のみで済んでいる。それはもはや魔物の在り方である。不可解なのはロクから漂う魔物の臭いはミイランのもので、決してロク自身のものではないということで、そうして同じ言葉に帰結する。
事態は番犬Eの手に余る。
「本当にE君はかわいいかわいいのですね。撫でるしか能の無い爪も。甘えることにしか使えない牙も。そこに鋭さを願っていることも。だから王女様はE君が大好きなのです」
いつの間にか背後まで来ていた王女が、そっと柔らかく番犬Eを抱き締める。綿で作られた人形のようにふわりとした心地に現実味は無く、己の顔の横に頬を寄せ、目を閉じて寄り添う優しげな王女様は、その表情は、王女としてのもの。
「……我が主様」
「何ですか、E君」
「その顔は、」
"自らを人間と誤解する愚かな
「否、己は、」
それが自らに向けられている意味を、理解できない番犬Eでは無い。愚鈍愚昧で矮小な、王国の最も柔らかい牙でもそれがどういうことなのか程度には気付かないことが出来なかった。いっそ憐れなことに、全ては判然としていた。番犬Eは愛玩されている。王国民と同様に武器としてでは無く、あるいは魔物としてさえ扱われていないのかもしれない。
頭を垂れているのは王女の武器を志すものとしての矜持からだろうか。
童女に撫でられることを甘んじて受け入れているのはそういう魔物としての生き方を選択したからであったはずだ。それはだから強制されたものでは無い。いつ放り投げてもいいはずだった。現在のそれを捨てて、新たな在り方を選ぶのは自由である。特に魔物であるならば、業の深い人間道ならば、そうして何かを選べたのなら、それがそのまま魔として覚醒するのだから。
「牙では、爪では、武器では、」
「私はそのままで良いと言っているのですよ。E君」
――かわいいかわいいE君。
斯く有れかしと願ったのは、武器としての番犬であった。それは、――それは否定されていた。
自己像の瓦解は、魔物である番犬Eにとっては致命的だ。文字通りそれは致命傷であって、硝子細工のように粉々に砕け散る精神に合わせて肉体までもがぐずぐずの屑肉に溶け始める。
王女に抱かれて、あやされ、その小柄な体躯の内に溶け込むように身体は原型を失い、火葬場でさえ己を保つ骨までもがピノの懐に沈んでいく。
甘い甘い水飴のように蕩ける声。綿毛のような抱擁の感触に包み込まれる。それは確実に番犬Eを眠りへと誘っていた。永遠の眠りだ。生きることへの諦めを魔物としての性質が体現しようとしていた。
人間道の魔物が欲望を体現するのであれば、そうして虚無を希う番犬Eは、虚無へと溶けて――、
「……起きてよ」
自壊を続ける番犬Eを止めたのは、そんな声だった。
ロクが揺るぎなく仁王立ちしている。腕を組み、凜として、ただ目付きだけが悲しげだ。引き結ぶ口元をむずりと歪ませ、尚も停滞している番犬Eにもう一度、今度は叫ぶように。
「起きろっつってんだろがッ!!」
――命令に、従う。
瞬間、番犬Eはすくと立ち上がった。
沈黙。
そこで一拍、奇妙な間が空いて、ロクが息を吸う。
「顔上げて。胸張って」
鳴りを潜めた乱暴さの代わりに、懇願するような響きが混じっていた。だから二つ、番犬Eは理解する。
「――頼らせてよ」
一つ、ロクが強くなってしまったこと。
察するにミイランに取り憑かれたことが原因だろう、番犬Eなどと比較するのも失礼なほどにロクは強い。それで王女にも生首にも怯まなかったのだ。
もう一つ、それでもロクは番犬Eを自らの保護者としていたいということ。
己の強さと番犬Eの弱さを、いまやロクは悟っているだろう。それでも弱者であるEに起きろと叫び、縋るような言葉を絞り出したのであれば、それはきっと少女が誰かの庇護下に居たいということ、まだ子供だからとそう読み取って然るべきだ。番犬Eによって世話をされたあの時間がロクに刷り込まれている。
あやふやだった意識が徐々に鮮明になりつつあった。輪郭を失って泥のようにべちゃべちゃになってしまいそうな身体も自己の形を取り戻す。
ふんわりと番犬Eを抱き締めて溶かし尽くさんとしていた王女が、そのままの姿勢で番犬Eを見上げていた。立ち上がったEの言葉を、その決断を待っている。とても嬉しそうに微笑みながら、頬を上気させ、わくわくした表情で番犬Eを促している。
――それが望まれているというのであれば、
「己は、このロクを守ります。身命を賭して。己が王国の爪で無いというのであれば、愛玩されるだけの存在でしか無いのならば、」
――見渡す。
切り出す啖呵が音になる直前、その場に居る全てが番犬Eに注目していた。その表情を余すところ無く、網膜に焼き付ける。そこに番犬Eの覚悟があった。
「そんなものは願い下げだ。己はロクの望む番犬となろう。"そのままで良い"という我が主様、王女ピノ・ルーマ・アシュテインの望む姿は受け入れられない」
己は、このアシュテイン王国を離れさせて頂く。
決別の言葉を口にして、一歩、一歩。黒髪の少女、ロクの隣へと歩み寄る。
その背中に、先程まであった脆弱性は残ってはいなかった。
――人間道の魔物。
それは唯一、在り方を規定されていない類の魔物である。どう望むか。その道に生まれる化生は欲望を体現する。
在りたいように在る、それは正道では無いのだ。厭魅としては弱く、しかし疑いようも無く魔に属する生命。
願望が変われば全てが変わる。
王国の手先としての番犬Eは爪だった。牙だった。武器で、切り裂くもので、そう望んでいた。
だがつい先程の瞬間、反転している。
ロクの前、欲されている姿を番犬Eなりに咀嚼して、Eはやはり番犬になることを選んだ。
武器としての、爪と牙としての、そういう在り方では無く。
家を守り、帰るべき場所を守護する、ロクを支えるための番犬に。
立ち姿に変化は無い。だが愛玩される以前までの自分を許さないという決意は強く、見た目では分からずとも、そのままではないことだけは明らかだった。
「やれやれ、飼い犬に手を噛まれてしまったのです。えへへへへ」
王女ピノ・ルーマ・アシュテインの頬がだらしなく崩れ、八重歯が覗いている。悦びが、感動が、――戦意が。魔物としての悦楽に、ピノが嗤っていた。
立ち上がった番犬Eの隣に、寄り添う少女が啖呵を切る。
「――で、何が何だか分かんないんだけど、私が元に戻る、家に帰る方法を教えてよ」
だってそれはそう。ピノは待ち焦がれていたから。その言葉を。戦いの始まりを。
【番犬Eのマシュマロな牙 1/3 地獄の番犬と雑種の飼い主 了】
番犬Eのマシュマロな牙 針野六四六 @zakozasf
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