第3話
「さて。これは戯れでしかありませんが、今日が"天の祝祭"であること、伝言役に貴方を選んだこと、その全てには意味があります」
肩の痛みに呻くミイランを前に、そいつは未だ語り続けていた。
「そも、私は暴虐探偵と呼ばれる者。謎解きを誰かに任せるのは名折れというものです。いえ別に、私が名乗ったわけではないのですが。でも、これでも意外と気に入っているのですよ、探偵という響き。人間らしさがあって」
「暴虐探偵……?」
「ええ、暴虐探偵。"暴くべきで無い秘密を暴く者"。それが私です、秘密を抱えた可憐な花よ」
そっと優しげな笑顔を咲かせて、暴虐探偵はそう言う。そのことにミイランは不吉を覚えた。不吉の気配があった。起こってはいけないことが起ころうとしている。
「マドモアゼル。貴方が抱えている秘密も、私は暴きましょう。暴虐探偵なれば、私はそうするしかないのです。天の花、秘密の蟲の姫。今日このときに貴方を選んだ理由についての話をさせて頂きます」
「な、何を」
「天の祝祭。天巡、天回、天週、天廻、天の趣、天の刻。六つの天が連なるこの刻を祝う祭。貴方が貴方で貴方だからこそ縁がある言葉ではありませんか。天道の魔物『ヒャッカリョウラン』。昔のことを思い出さなくてはなりません。七番区から失踪した親戚の子を探すため貴方は街の外に出てしまい、巡り会ったのでしょう。その蟲と。ヒャッカリョウランという天道の魔物と。そうして快楽を司る天道に飲み込まれ、腹の中にそれを受け入れたはずです。忘れているだけだ。腹の中に蟲を飼う貴方は人間であったというのに快楽に支配されてしまい天道に堕ちた。先程刻んだ印はそのため。貴方の蟲を押さえ込み、然るべきときに解放するための」
――番犬へのプレゼントにするためのものなのですから。
*
「ごめんね。ごめんね、ごめんねごめんね、ごめんねごめんねごめんね、ごめんね、ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん」
ミイラン・ミル・イルミイルアが壊れていく。
そこに在るのは人間道では無い。恍惚とした表情。拭うことさえせずに流れるままの唾液。腹部からぞくぞくと這い出してくるミイランに似た何か。
総勢、百。
「キモチイイよ、キモチヨクテもうだめなんだ。皆も腐ろウ? キモチイイヨ? アハハハハハハハアハハハハハハハハハアアハアハハハハアアハハハハハハハははあハッハはハハハはハッハハッハハハ」
「クソッ、天道かッ! しかも腐りかけっ!!」
番犬Eの行動は迅速だった。ロクを突き飛ばしてその化け物共の手の届く範囲の外へ弾き出すと、自らは突撃する。ふわりと軽く、されど遠くへと飛んでいくロクを置き去りに。
天道の魔物にもある種の特徴がある。餓鬼道の魔物が永劫の飢餓感に苦しみながら目に付いた物を喰らい尽くして際限なく強くなっていくように、修羅道の魔物が闘争の内のみでしか生きていけず、その身の傷を決して癒やせぬように。
天道の魔物はあらゆる全てに快楽を見出し、寿命以外では死なない。
そして、死に至るその際には周囲一帯を死に至らしめる毒を吐き出す。
それが天道の魔物の特徴だった。
ミイラン・ミル・イルミイルアの腹から湧き出した魔物は、もう死にかけだ。ミイランを含めて百と一つの顔それぞれがもう腐り始めていた。
口元を伝う唾液に汗と脂が混じっている。触れた物を尽く溶かす腐毒だ。それを避けることが出来るかは分からない。だがそれでも番犬は飛び込むしか無かった。
「キテヨおッちゃん。全力デ」
両手を広げて待ち受けるミイランへ掌を突き出す。敵を破壊するためでは無く、弾き飛ばすために。
ここは六番区の食事処。王国の血肉、ユエラの街の一角だ。こんなところで天道を死なせるわけにはいかない。毒を撒き散らすわけにはいかない。場所を変える、そのことだけが番犬の目的だった。なればこその掌で叩き出すような張り手打ち。爪や牙は使えない。使う意味が無かった。
吹き飛ばす。とにかく王国から離れるように。
木製の壁を易々と突き破り、ミイランだった物、ヒャッカリョウランは一纏まりに中空へと弾き出されていった。
――まだ足りない。混乱した住民達の悲鳴を背に、地を蹴って番犬はその尻尾に追いすがる。
もう一度、同じことを。その次も、その次も。何度だって弾き飛ばして、毒の爆弾が誰にも届かないようにと。その一心で番犬は再び両掌を腰撓めにして――、
「良いよ。気持ちいい。おっちゃん、流石だね」
――その余りにも理性的な声に全身の毛を逆立たせた。
「クッ」
不味い。拙い。ここは、死地だ。死地だった。油断した。後悔に溺れる暇さえ無く、精一杯身体を捻る。
だが、遅すぎた。脇腹から血肉が千切れ飛ぶ。
「こうかな。それともこうかな。こんなこと初めてで、わかんないね」
野花のように凜とした笑みに戻ったミイランが、その四肢を振るう。どろどろに溶けそうで、しかも女性らしく柔らかな手足だというのに、番犬の本能は有らん限りの力で警鐘を鳴らしていた。
二度、三度。
回避には全力を費やした。番犬Eは魔物としてはさほど強くない。格上だ。直感がそう囁いていた。ミイランと、ヒャッカリョウランは、確実に番犬Eよりも上の次元の存在だった。それこそ番犬Bクラス。まともにぶつかれば番犬Eはぐずぐずの屑肉になって土を肥やす羽目になるだろう。
その上、この臭い。
天だけじゃない、人間道の魔物の気配が、混じっていた。ヒャッカリョウランだけではない。ミイラン・ミル・イルミイルアが、魔物化し始めていた。唾棄すべき共演だ。こんなもの、見たことが無い。
ひときわ大きく振り落とされた踵落としを避けて、距離を空けた。
「……冗談じゃ無い」
ミイラン・ミル・イルミイルアは、今やその秘密の全てをさらけ出していた。暴いたのは暴虐探偵なのだろう。しかし番犬はその過程も謎解きの場面も全く見ては居なかった。結論だけをこうしてぶつけてくる。やはりあれは魔物なのだ、我欲のためのみに生きる何から何まで、その精神性に至るまでが化け物。厄介極まりなかった。
はーっ、はーっ、と、激しく荒く息を吐く。身体の芯が熱い。暴力渦巻く高熱が体内に溜まっている。口を開けて舌を出し、素早く呼吸を繰り返した。汗の代わりに蒸発する唾液が熱を奪っていく。
パンティング。
「はは、あはははは」
くるりくるりと愉しげに、ミイランは踊っていた。蕾が一斉に花開くように可憐で、だがその周りを彩る醜悪な蟲共が全てを台無しにしている。どんな綺麗な花弁でも、蟲に集られたならば景色たり得ない。
蟲は二本足で立ち、花の身体が溶け始める。
死に行く天と、罪深き人間が、混合。双葉のように並び立ち、液体のように混ざり合い、同一として融解する。そこには境界線が無かった。超えてはならない一線が、あるべきパーソナルスペースが、消失しているのだ。ならばそれらは同じものなのだろう。
「勝ち目は無い」
それは認識では無い。事実だ。勝つ手段が存在していない。ユエラの街は滅ぶ。そういう規模の相手だった。
「だが――、」
番犬Eは番犬。王国の爪であり、牙である。王国を守るために。その一念のためだけに存在すると自ら決めた魔物。
「己は魔物。王国の犬。番犬が末席、であるならばだ」
――番犬Eは吠えた。
街中に轟く遠吠えが、わんわんと反響する番犬Eの決死が、衆人環視を惹き付ける。そして叫ぶ。威嚇するように居丈高なそれは、しかし懇願である。
「逃げろ人間共ォォォォ! 離れろ! 遠く! 毒を撒き散らす魔物だ、とにかく走れ!!」
そこは、此処は広場であった。
番犬Eとミイランが対峙する舞台。奇しくもその場所は『バジトーフー』の災禍によって抉り取られた、囓られて出来たクレーター。その咀嚼の跡地で、街の人間に厄災を思い出させるには十分な地だったのだ。
だから、人々は瞬間的にパニックに陥る。狂乱に足取りはもつれ、人波は水面に一石投じられたように、波紋の如く外へ外へと広がっていく。
声が割れ、番犬Eとミイランを中心に爆発でも起こったかのように全てが外へと弾かれる。
そうして取り残されたのは、番犬一匹と、二道一体の魔物と、――もう一人。
もう一人が、爆心地に近付こうとして、息を切らしている。
「……何をしている」
「ロシ」
彼女にはそれしか言えなかった。
「ロシ。ロシ。ロシ!」
だってそうだ。彼女はそれしか知らない。たった一つ、縋り付けるのはそれだけだ。そのたった一つが浮かべている表情を、身を切るような咆哮を、彼女はどんな目で見て、どんな耳で聞いたのだろうか。
番犬Eはここが死期だと悟っていた。
原点に立ち返って考えてみれば良い。暴虐探偵は格上だ。無論、戦闘向きでは無い彼と一対一の無地のキャンパスの上で相対したなら番犬Eが勝つ。だが本来の差を考えたならば番犬Eは彼の爪先一つ拝むことが出来ずに駒を倒すように葬られていただろう。だから番犬Eは仲間と共に暴虐探偵を追い掛けていたのだから。
その暴虐探偵が自らの命を賭した上で弄した策謀。その駒の一つ。
ミイラン・ミル・イルミイルア。
それを引き出したのが番犬Eの成果で、その対価として番犬Eは死ぬのだ。死ぬ。殺される。
――そんな彼を見ている彼女を遺して。
「おっちゃんも罪深いよねー。ひっどーい。悪辣だよ」
ケタケタケタケタ。笑うミイランを横目に、彼女を見る。
便宜的にロクと呼ぶことにした黒髪の少女。そう、そういえばだ。これもまた、暴虐探偵が番犬Eと引き合わせた存在である。
二つの暴虐探偵の駒が番犬Eを挟んでいた。
番犬Eに襲いかかるミイランと、番犬Eに縋り付こうとするロク。
その余りにも対照的な二人が同じ暴虐探偵から送り込まれたものであるというならば、この状況には如何なる意図があるのだろう。
考えるべきだ。本能がそう叫んでいる。意味がある。それが暴虐探偵の為すことならば、悪趣味な意図が。
だがそんな時間は与えられない。
「女たらしめ」
ミイランが口角をつり上げ、自らのスカートを引きちぎる。
それは変化だ。より動きやすくするために、だなんて、魔物にとっては意味の無いこと。ならばその繊維を切り裂く行為は何なのか。
ミイランが、――変身する。
繊維が解れ、螺旋を描くようにミイランを包み込む。仲間外れにされたような細い幾つかの糸がそのミイランを包む繭から飛び出し、百の蟲達へと繋がっていく。千切り取られた衣服は妖怪変化の触媒であったらしい。ミイランの姿を完全に隠してしまうようにくるくるくるくる。巻き取られて見えなくなったその中でミイランに何が起こっているのかを秘密にして、そうして、まるで血管のように一つ脈動した。
そして孵るのだ。
おぞましいはずの光景が、どうしてか優しい。
半年前、ピノ・ルーマ・アシュテインが覚醒した日も、こうして明確な気配があった。生まれる。産み落とされる。ミイランはその実、先程までは卵でさえ無かったのだ。これが誕生、その瞬間。
花開くように、ぱぁっと。
ミイランはようやく、本当の意味で生まれた。魔物として。寿命の近い天道と融合して、余命幾ばくも無い魔物がされど産声を上げる。
「んぅ。気持ちいー」
さほど姿は変わっていない。ミイランはその面影を残したまま、奇妙に甘い香りを漂わせて、この世のものとは思えない優しい微笑みを湛えていた。違いと言えば蟲共と蔦を通して結ばれたことだろうか。
「貴様……」
だが番犬Eは戦慄する。肌を粟立たせるのは、ロクにも、戦いを知らぬ少女にまで届く程の驚異の風格。
「貴様、暴虐探偵よりも格上だな?」
駒であるとした自らの判断を誤りだと悟る。彼の化け物は知略謀略の怪物であったがこれはそんな領域を超越しているのだ。如何に策を弄したところでその知謀の全てを無策の直進によって破砕する。生まれたての修羅道にさえ対抗しうるだろう、番犬Eの想像の及ばない魔の権化。
魔物として生まれていなかった先程でさえ、番犬B並の力だと思えたのだ。よもやあれで途上だとは思いも寄らなかった。
番犬Eは爪が、牙が、彼の最も頼りにするものが飛び出すのを抑えられない。己が白髪が逆立つ。そんなもの無駄だと分かっていても、本能が勝手に動いている。今際の際に立たされ、自らの本来の姿を隠したまま終わりを迎えたくないと、肉体が嘘を付くのをやめていた。
「やだなーおっちゃん。こんな平凡な女の子を捕まえてそんなこと」
「戯れも大概にしろ。貴様は強い」
「羨ましそうに言うね、おっちゃん」
――羨望。
――図星だった。
鋭く尖った牙が番犬E自身の唇を突き破る。
吐き出すべきで無い感情――魔物らしからぬそれを、その動作一つで断ち切った番犬は嗤う。酷薄に。牙によって生まれた裂傷が、そこから流れる血が、その笑みに紅蓮の亀裂を走らせた。
死に様を定める。
愚昧な番犬Eは、王国の爪の末端、小指の爪にも等しい矮小で憐れな魔物は、此処に自らの死を決めた。
「死ね」
足袋を突き破って飛び出した鋭爪を地面に引っかけ、その推進力で一直線にミイランを狙う――、寸前、
「早まるんじゃあ、ねえぜ。Eちゃんよー」
その肩が掴まれる。
*
彼を止めたのは番犬Bであった。斯く有れかしと願う、Eの理想像の一つ。強く悪辣な魔物であり、Eよりも鋭い王国の爪である。
一見すると人間のようだ。短めの頭髪が重力に逆らい天を刺さんとしている。やや目付きは鋭い。更に途中で引きちぎられたような鎖の付いた首輪。特徴的ではあれど、それは奇抜な人間の範疇を超えない程度のものでしか無かった。
己が道を示すかの如く、常に人間の形を保った存在。番犬達の中でもBとEは特別人間としての外見を保持している。が、両者の間には明確な差異があった。それが仮初めのものかどうか、という違いが。
「ここで死ぬのはお前じゃねえんだ。まだ早え。な、わかれよEちゃん」
親が子にするように、BがEの白髪を摘まむ。その手に上位者からの慈しみを感じ取って、Eは思わず振り返った。
「よお、久しぶりだな」
そこで初めて、EはBの表情を見た。
普段は全身に狂気を貼り付けた番犬の二番目。その序列はそのまま戦闘力を表している。価値観の違うAや王達とは違い、ただ魔物としての深みを増していったその先の怪物。それが番犬Bであって、ならばその表情は一体何だというのだろう。
――微笑んでいる。
微笑んで、いる。
「……な、ッ」
「驚いてる暇ぁ、ねえぜ。退がってな」
掴まれていた肩をぐいと引かれ、蹌踉めいた瞬間に背後から衝撃。臓腑と脳が揺らされ、考えるまでも無く当の原因が襲い来る。
「無粋だろうがよぉ、それは」
「どっちが……ッ!」
保たれ続けた余裕の失せたミイランの声。ギチギチと羽虫が蠢くような音はしかし彼女の歯軋りだ。不条理そのものの魔物が不条理に憤るように奥歯を鳴らしている。骸の如き生気無い表情でミイランが襲いかかってきた。
ロクどころか番犬Eにさえ視認不可能な速度の攻防に音は無い。
「邪魔。邪魔。邪魔をしないで。そのかわいい種のために土壌を敷かなきゃならないのに。おっちゃんは良い。予定通りの蔦は歓迎する。だけど、だけど! 死ね! 紛い物がッ!!」
追いすがるミイランを、微笑を湛えた番犬Bが尽くいなしている。躱し、撫で付け、宥め賺す。
癇癪を起こした子を相手にするかのように温かい仕草。それは本当に、見ている番犬Eが彼の普段の狂気を忘れさせる程にお似合いだった。お節介焼きの人間みたいだった。魔物全体の中でもギリギリ上位に食い込めるだろう番犬BはDが千居てもEが万居ても片手間で鏖殺する域の怪物なのにだ。内包される矛盾にくらくらする。ロクは地べたに座り込み、番犬Eの牙に亀裂が走った。
酩酊する視界で番犬Bとミイランが殺し合っている。
ミイランが鞭のように振るう蟲が開けた顎を番犬Bがそっと撫でて閉じる。勢いのまま受け流された蟲を彼方へ見送り、続くミイラン本体の蹴り上げに敢えて飛び込んだ。懐に入り込みそっと抱き締める形を取った番犬Bがミイランの蹴り上げる動きに寄り添って縦に一回転。その最中に天空へとミイランを放り投げた番犬Bは地に足を着けて、即座に横に転がった。蟲の頭部が合わせて三つ、半呼吸遅れて大地を抉る。
番犬Bは攻撃しない。だが殺気があった。殺し合いだった。番犬Bはあれで未だ魔物であったのだ。
ただその戦いは一方的過ぎた。
鮮血が三滴、ぽたぽたと墜落する。どこで傷が付いたのか、それは番犬B自身にも分からなかった。だが命が垂れ流される感覚はある。小さく確実にじわじわ蝕むように手傷は増える。死期が近付く。
「やめてくれ」
番犬Eにとって彼は理想だ。番犬Bは長命で、強さを後天的に得た、魔物としての成長を体現した、目標であった。Aや王になれる者とは違う。EはBに憧れていたのだ。
「己を殺せ。己を。己をだ。違う。Bは違う。どうして現れた。どうして現れて尚そんな姿を晒している。間違っている。間違っているだろう」
「ここで死ぬのはお前じゃねえんだ」
「ならば! ならばミイランを殺せば良いだろう! そうだろう! そうしてくれ!! なぜその姿のまま! ふざけるなッ!」
「それが王の命であれば、是非も無かったろうよ」
言葉を失う番犬Eに続ける。
「まぁ俺もこの姿のままってのは癪だからな。良いぜ、見せてやるよ。殺してやる。殺して見せてやる。それで満足しろよ後輩?」
奇妙に似合う微笑が掻き消え、その奥から獰猛な狂気が牙を剥いた。番犬Bの人間としての姿は仮初めなのだ。魔物としての姿は別にある。
そして――、空間は凝固した。
大気が、そよ風が、息吹きでさえも固結した。誰も動けない。吸って吐けるのはふわふわ漂う空気だけ。物質は飲み込んで吐き出すものだ。それはさながら岩の中に取り込まれてしまった感覚だった。自らが石像になってしまったかのようだった。呼気さえ許されぬ鋼鉄であった。
「まぁ、観賞に足るショーになるかは分かんねえけどよ」
その世界の中心で氷像が煙を吐く。視線も声音も凍て付いて、それこそが番犬Bの姿なのだと固まったままでEは感極まる。本来の姿になったBならば負けるはずが無い。
そんな番犬Eの期待に応えるように、状況はその一方的さを保ったままに逆転した。
ミイランの動きが鈍い。かろうじてといった風に行なう動作では回避もままならず、ましてや攻撃など試すことさえ無謀だ。枝を折るように四肢が割り砕かれ、蝶が子供に羽を毟られるようにミイランは甚振られる。
「……っ」
彼女からは声を出す余裕さえも失われていた。手足をもぎ取られ倒れ、地に伏せった姿勢で番犬Bを睨み上げる。透き通った氷像。氷で形作られた巨大な番犬。人の形をしていた頃の名残は首輪だけで、今の番犬Bは正しく犬だった。爪であり、牙であり、そして魔物だった。
結晶体の煌めきを放つ冷徹な瞳で、無様な蟲とその姫にトドメを刺そうと――、
「ふふふッ」
――手足無き体躯が跳ね上がる。
当然だ。今のミイランは生まれたての修羅道の相手にさえなるだろう傑物。それが番犬Bに対してこうも一方的に敗れるなど有り得ない。隠していた実力を悪趣味な蜜の香りと共に溢れさせた。毒液塗れの蔓の鞭が縦横無尽に襲いかかる。
「わかってんよ」
そして番犬Bに殴り潰された。
「てめえは強えからな」
そう言いながらもう一撃。
「俺の攻撃なんて効きゃしねえだろうよ」
一撃。
「下手くそな演技しやがって」
もう一撃。
腹部が破けて中から極彩色の花粉が撒き散らされる。見るからに毒々しい粉に、番犬Bは飛び退いて舌打ち一つ。のっそりと起き上がるミイランを見る眼は忌々しげで、しかし満身創痍なのはむしろミイランの方だった。
「……」
ミイランから言葉は無い。ただただ殺意があった。番犬Bに、演技では無い本物の気迫を向けている。殺す気だ。
「来いよ」
挑発する番犬Bにミイランは躍りかかる。汗の代わりに毒液を散らし、息の代わりに花粉を吐き出す。
――そうして僅か後。
「な、んでッ。どうしてッ!」
ミイランは尚も氷結していた。無様に。弱者としての姿を、敗北者の象徴を、その身を以て体現していた。
「うるせえな。犬じゃ無えんだから吠えんな」
番犬Bには傷一つ無い。白い息を気怠げに吐き、そうして敗者から視線を外す。ショーの終わりだと、そう観客へと手を広げて見せた。
「満足かよ?」
見ていただけの番犬Eは感動に打ち震えていた。圧倒的だ。気配だけ見れば感覚に頼れば、ミイラン・ミル・イルミイルアは番犬Bよりも格上だ。それを容易く下してみせた彼に憧憬の念は降り積もる。
ミイランの傍らに立ち、無言の番犬Eに首を傾げたBは、思い出したように拳を叩く。
「おおそうか。そういや一回殺して見せるんだったな。ほら」
ついでと言わんばかりに軽く、番犬Bがトドメを刺す。今度こそ確実に、首から下の全てを氷結させたミイランを肉一片に至るまで粉々に砕いてみせる。
「……流石だ」
番犬Eは泣いていた。その強さに。彼の理想に応えた魔物に。感涙した。落涙した。
「満足したか」
「ああ」
「そうかいそりゃ良かった」
番犬Bの問いに一も二も無く首肯して、Bもその答えを喜んだ。
拳を叩きながら頷いて、そう。まるでもう思い残すことの無いような後腐れの無い笑顔を浮かべて――、
「じゃあ、やれよ。天道」
「――――」
生き返ったミイランが彼を後ろから抱き締める。
「……あ?」
「吃驚してんじゃ無え。そりゃ俺は約束通り一回こいつを殺したさ。だがな、こいつは人間道でありながら天道でもあるんだぜ?」
番犬Eの眼前でBが腐毒に飲み込まれた。花粉の霧に隠れて姿が見えなくなり、声だけが響き続ける。
「天道は寿命以外じゃ死なねえ。混ざり物だからか一回は死んだし、死んだ風に見えたがよ。それで終わりじゃねえさ」
生き返り番犬Bを致死毒に取り込んだミイランに歓喜は無い。彼女の敗北は本物だった。屈辱の色に染まっている。唇を噛み、それでも番犬Bを取り殺すのだ。
番犬Eの思考は空白に満たされている。その瞬間からどれだけ時間が経ったのか。ほんの少ししか経っていないのに番犬Eの中では永遠にも感じられる。
「観賞に足るショーだったことを祈ってるぜ。じゃあな、Eちゃん。がんばれよ」
そして。そうして。
その言葉を境に、番犬Bの声は途絶えた。
番犬Bは死んだ。
*
目標を失って、番犬Eはどうすれば良いのか分からなくなっていた。
状況は王女の指令からもとうに逸脱している。何のために生きているのか。その理由は王国の爪たる番犬であることと、個人的に魔物として目標とする番犬Bに追いつくこと。その二つだった。番犬Eは魔物として弱いが故に、番犬として与えられた生き方以外に、魔物らしい魔物への羨望も持っていたのだ。魔物らしくも無く、番犬らしくも無く。
それは失われた。
「……どうとでもしろ」
ふわりと漂う蜜の香りに、番犬Eはそう吠えた。何も為せない。今更どうしようも無い。ミイランに対抗する術は無く、だからミイランに何でもやってしまえと告げたのだ。
「――うん。好きにするよ。おっちゃん」
ミイランの声にも力は無かった。それを聞き届けると、番犬Eは瞼を下ろす。もはや見るべきものは無い。
ここで死ぬのだろう。
その時を待つ。呼吸さえも億劫で、というより魔物になって以来、呼吸なんて不必要な行為だ。王国の民と関わりを持つことも多い番犬Eだからこそ人間らしい所作は心得ているが、やめてしまったとて何も問題は無い。だから呼吸は止めた。
時を数えようにも目安となる呼吸は無い。だが大方三呼吸程の時間は経っただろうか。耳に届いたのは悲鳴だった。極最近聞き慣れたばかりの甲高い声音だったような気がする。誰だったろうか。
致命的な事態が直ぐ近くで進行している。そんな気配があった。だが興味が無かった。一生目を閉じていれば良い。そう番犬Eは思っていた。
「ロシ」
だが、
「ねえ、ロシ。たすけて。たすけて。なにこれ」
目を開ける。
そこに居たのは無力な少女だった。ロクと呼ぶことにした、会話さえもままならなかったはずの少女。それが言った。助けを求めた。だから目を開けた。
「ということでよろしくね。おっちゃん」
ロクの腹から声がした。ミイランの声だ。恐るべき怪物の声。
「何か……、入ってきたんだけど。私の中に。変なのが。助けて。助けてよ」
ロクが言う。
「助けてよ――」
そう繰り返す。
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