第2話

 ストックホルム症候群。

 あれから三廻道を数える折、ピノに飛ばした伝令からの返事待ちの間、番犬Eはユエラの街で調査をしながらのんびりと過ごしていた。

 ――だが。

「ロシー」

 ライネンを上回るような、蕩けるほどに甘えた声。それが左腕から聞こえてくる異常に、番犬Eは困り果てていた。

 番犬Eの左腕を胸に抱いて、体重を預けてきている女――ロク。好感度が振り切れている。親愛限界突破の現状に番犬Eは頭を抱えていた。

 どこからおかしくなってしまったのだろうか。

 何が原因だったかというと、ロクが何一つとして知らなかったことがそうだろう。食事の取り方も宿の借り方も首を傾げるばかりで、一つ一つ懇切丁寧に教えなくてはいけなかった。何しろ言葉が通じないのだ。ちょっとしたことを教えるのさえ手間が掛かって仕方ない。湯浴みにさえ単独では向かえず、二廻道の全てをロクのお世話に費やした。

 その一つ一つの作業に、ロクの感謝の念が募っていく。つまりはそういうことだったのだろう。身の回りの問題を何もかも解決してくれる丁稚のような存在だと、そう番犬Eは思われてしまったのだ。

 結果、新婚夫婦かと砂糖を吐くほどべったりとくっつかれていた。

 樹齢数百年の大樹に寄りかかるような安心感を、ロクは現状に覚えているに違いない。現実問題片時も番犬Eの傍を離れようとはしないのだから。

 ユエラの街、七番区。

 巡回する警邏の監視下で、比較的活気に溢れた人々が通りを歩いている。野菜を持ち寄った農家が露店を開いている光景もあれば、肩に建材を担いだ大工が現場と倉庫を往復している光景も見えていた。逆に身なりの汚れた者は肩身が狭そうに、猫背で警邏の視線に耐えている。

 餓鬼道の魔物『バジトーフー』の被害を受けたのは、ユエラの街のちょうど半分だった。

 一番区から三番区、飛んで八番区から十二番区。全十六番区で構成されたユエラの街の地獄の方から人間の方までを半円状に削り取るような形で『バジトーフー』はその牙を振るった。そして二頭の番犬に排除されたのだ。この世から。

 七番区は人間の方か修羅の方かどっちつかずな位置にある区画である。隣区が壊滅しているとはいえ、七番区に被害はほぼ無い。その七番区に暴虐探偵の足跡があるという噂を聞きつけて、番犬Eは調査に赴いていた。

 ただ、その噂の行き着く先に辿り着いて、番犬Eの中でどんどん暴虐探偵の印象が捻れていく。

 火のない所に煙は立たぬ。よって存在する噂の出所というか、暴虐探偵の足跡が残る地。そこを訪れて、番犬Eは訝しげに目を細めた。

 ――廃屋にしか見えない。

 ところどころ壁の捲れ上がった木造住宅。屋根は傾き、扉はがたつき、簾は穴だらけだ。生活に適すとは到底思えないおんぼろ家屋が噂の終着点、ミイランという娘が住むとされる場所だ。

 暴虐探偵を追っていると、本当に奇妙なものばかりに出会う。三週道も掛けて暴虐探偵を追跡してきた三頭の番犬であるならば、全員が頷く共通認識だ。

 当人が死して尚それは変わらないらしい。何が待ち構えていようか戦々恐々としつつ、番犬Eは扉をノックする。

 ――メキ、と異音がした。

 ロクに抱き留められた左腕がついに音を上げた、というわけでは無い。ノックするつもりで戸を叩いた右手が、めり込んだのだ。紙を殴ったのかと思うほどに易々と、手の甲が木板に突き刺さっている。

 ほー、と感嘆が隣から漏れた。

 それはまるで、番犬Eの筋力を称えるように。

 誤解だと、番犬Eは要らぬ言い訳を心中に零す。番犬Eの膂力が為した技だとかそういうことは無いのだと、力を誇張しようとして他人様の玄関に殴り込んだわけではないのだと。きちんと一般人レベルの、抑えた力での行動だった。それがどうしてこうなった。

「はいはーい。どちら様ですかー? ってうわ、また扉が……っ」

 ノックというにはくぐもった音だったはずだが、家の中から人が現れた。一歩退いた番犬Eと、穴の開いた扉を見比べて溜め息を吐いている。

 野花のような女だった。

 よれた枯れ枝のような衣服を身に纏い、お世辞にも清涼とは呼べない貧困層らしい出で立ちだ。だが目元も耳も隠さない短髪に、物怖じしない佇まい。「あちゃー」と額を手で押さえる姿から陽気さが窺える。

 可憐さという点で言えばピノに遠く及ばないだろう。だが筋の通った目付きをしていて、それなりに強かそうな印象を受けた。

 だから逆に番犬Eの周囲の温度は、陽光が死んだような低下を見せる。強かである。ということはつまり、番犬に刃向かうに足る胆力を備えているということ。その女が暴虐探偵の駒であってもおかしくない雰囲気に、番犬Eの警戒レベルは上昇した。

 誠実に、頭を下げる。

「扉については己の責任だ、あとで対処しておこう。突然の訪問で申し訳ないが、いくつか聞きたいことがある。ミイランという娘は、其方で間違いないだろうか」

 キィキィと、畜生道の赤子が鳴くような音を立てる扉から手を離して、女は屈託無く笑みを浮かべた。片手を上げて、番犬Eの気遣いを鬱陶しげに振り払う。

「いーよいーよ扉なんて。『おんぼろ家屋、御注意を!』って看板提げてないこっちも悪いんだからさ。ってか何、おっちゃん私に用事? ミイランってのは確かに私だけど、そんな可愛い子連れて女口説きに来るってのは感心しないぞー?」

 ミイランは悪戯っ子そのものな視線を番犬Eに向ける。

 邪気の無い煌めきに正対して、ふむ、と番犬Eはミイランを観察してから、ロクを一瞥した。

 今の台詞を額面通りに受け取れば、ミイランはロクのことも番犬Eのことも知らないということになる。だが、そこで暴虐探偵の顔が脳裏を過ぎった。アレならば知っていて尚とぼけることもやってのけるだろう。そして台詞の最後だ。その言い回しには聞き覚えがあった。

 ――『私は見ての通り矮小な身でして、纏めて三匹も来られても噛み付く肉は一つきりです』。

 それは『バジトーフー』にユエラの街が半壊させられる直前の、茶番劇でのこと。

 そのときの暴虐探偵の台詞と、ミイランのものが重なる。『バジトーフー』の封印が解かれた騒ぎに番犬BとDがその場を去ってから、確かに暴虐探偵は嬉々として情報を語り始めた。一人だけが相手ならば語ってやろうと、そのとき暴虐探偵は告げていたのだ。

 暴虐探偵の駒ならば、きっと好みそうな言い回しだった。ミイランもそうなのかもしれないと番犬Eが思ったのも、無理からぬ話。

 だから番犬Eはそれに倣う。

「ふむ。ならば出直そう。次は一人で来る、いつならば良いか」

 番犬Eだけにしか言えない情報があるからそう言ったのだと推理しての発言。

 半ば確信を持って、真剣な表情でミイランを見つめる番犬Eに、

「……え?」

 ミイランはと言えば、困惑した。

「いやいやいや! え、なに。おっちゃんえらい積極的っ!? ちょ、そういうことなの本当に? からかっただけのつもりだったんだけど」

「ん、どういうことだ」

 頬を紅潮させるミイランの言葉の意味が分からず、番犬Eは戸惑う。慌ててぶんぶんと両手を振るミイランの真意を読み取ろうとじっと眺めていると顔を背けられた。

 その上左腕を掴む腕が強さを増す。当然痛みなど無いが、あまりに力を込められるとロクの胸が当たる。不審感のまま左を見れば不機嫌そうな表情で番犬Eを見上げており、理不尽さに番犬Eは吐息を漏らした。

 良くは分からないが、この場にはめぼしい手がかりが無さそうに思える。ミイランも何かしらの間者の役目でも担っているかと思ったが、この様子を見る限りそうでもない。

 さほど悩むことも無く、番犬Eの気は変わった。調査が必要なようにも思えない以上、もはやここに居る意味は無い。おかしな同伴者も機嫌を損ねているようだからと判断して、番犬Eは頭を下げた。

「その反応、どうやら人違いらしい。無駄足だったようだな。ミイラン殿、失礼した。あとで扉の方だけ取り替えさせてもらおう。では」

 事務的に礼をして踵を返す。ここでの番犬Eの仕事は終わりだ。ただ立ち去るのみ――のつもりだった。

「あの……!」

 背中に声が掛かり、呼び止められる。

「ちょっと待って、着替えてくるからっ」

 ぱたぱたと走るミイランをぼんやりと見送って、頭を掻いた。

 ミイランはどこからどう見ても一般人だったはずだ。番犬Eの目を以てしても違和感を覚えなかったのだから、恐らく本当に自分を人間だと思っている普通の王国民に違いない。暴虐探偵から何かを聞いていたような仕草も見せなかった。

 だから仕事は終わっている。

 ならばこうやってミイランを待つのは、――プライベート、なのだろうか。


 王国の裏側で暗躍する戦闘部隊。それが番犬である。

 給与は無い。与えられる報酬と言えば、『目的』だけだ。何の目的なのか――生きる目的、ただそれだけに決まっている。

 番犬達は全て人間道に属する魔物であり、自覚もしている真に魔物らしい魔物だ。別に望んで魔物になったわけでは無く、どうしてか気付いてしまったのだ。例えば修羅道の魔物が猛威を振るう姿を見て奮い立つ自身の心に。人間らしい生き方をする人間道の魔物達相手に違和感ばかりが折り重なって、居場所をどんどん失っていった。ただそれだけの話なのだ。

 それが王族に拾われて、目的を与えられて駒となったのである。

 自らを人間だと誤解している間は考えられもしなかったことだが、魔物になりきってしまうと生きる目的というものは彼方へ飛んでいってしまう。魔物に食事は要らない。魔物に睡眠は要らない。性欲も無い。歳も取らない。無い。無い。無いのだ。

 生きる目的が、どこにも無いのだ。

 老衰の可能性が淘汰され、餓死の可能性が否定され、種を残す願望など元来存在しなかったらしいと悟らされる。死は作為的なもの以外が実体を失ってしまった。老衰も餓死も起こりえないのだから。

 だから王が現れて、生きる目的を与える代わりに駒となれと命令されたとき、それで良いかと頷いたのだ。

 番犬に仕事を与えるのは王の義務である。王女に番犬を操る手綱が継承されたので、現在それは王女ピノ・ルーマ・アシュテインの責任だ。

 番犬Eに与えられた任務はおおむね『暴虐探偵の遺言の意味を調査すること』といったところ。そのためのキーであるところの黒髪の女ロクは手元に置いているが、どう考えても推理の足がかりとするにはそれだけでは足りていなかった。

 ――ロクは、何者であるのか。

 余暇を過ごす、という発想が番犬Eにはそもそも存在しない以上、話題がそちらに向かうのは当然だった。

 花咲かぬ雑談を二三経てのち、番犬Eは問い掛けを口にする。そうして仕事に入ってしまった。もはやとっくにミイランの勘違いは正されている。番犬Eの醸し出す鋭敏な刃物の如き真剣さは、雑談の内にあっても意識のすれ違い程度は解消するほどだった。

 だが、ロクについて問い掛けられたミイランの方は、目を白黒させる。そんなミイランに対して強調するように、ずいとロクの肩口を押し出して、番犬は無愛想に表情を消した。

「己は今、この女が一体何者なのかを調べている。ミイラン、其方が暴虐探偵と会っていたというのは本当か」

 六番区に存在する食事処で、番犬Eとロクとミイランは同じ卓についていた。可憐なロクと凜としたミイランが揃えば場も華やぎそうなものだが、無骨な番犬Eの姿が重石として何もかも圧し潰している。

 目尻の一つも下げず、番犬Eはミイランを見つめている。答えを待つ姿勢に、ミイランは視線を逸らした。

「暴虐探偵――ねぇ」

 何も知らぬ女の素振りでは無かった。

「噂も、全くの事実無根というわけでは無かったようだな」

 がやがやと喧噪に包まれる店内で、番犬Eとミイランの間だけ色彩がしつこさを増す。油絵の如き質感が、熱に炙られた蝋のようにじわりと溶け出してきた。

 言葉が通じずきょとんとしているロクだけが、発火寸前の空気を和らげている。

「そうか。暴虐探偵と知己なのか。そうかそうか」

 一人、胸の内で納得するような呟きを零す番犬E。二度、三度と頷く度に、その身から発する剣呑な気配は増していく。

 騙されていたのかと。

 作為によるものであるか、天然であるのか。どちらにせよミイランという女は一貫して、番犬Eに、自らが無知であるかのような態度を見せ続けてきた。番犬Eのことも、ロクのことも、今初めて知ったかのように振る舞っていた。それを番犬Eは額面通りに受け取ってきたのだ。

 だが、暴虐探偵と会ったことがあるとなると話は別だ。

 暴虐探偵は、番犬Eをも暴こうとしていた。そうして読み取った番犬Eの性質を考えた上で、あえてこのミイランという女を配置した可能性があるのだ。あの暴虐探偵が関わっていて含むところが無いという方が、信じられるものではない。

 ミイランは暴虐探偵の駒である。

 そう考えて、損することは無いだろうと、番犬Eは胸中で断じた。

 ともあれ、

「暴虐探偵と知り合った経緯を、教えて貰えるか」

 番犬Eは問う。駒であろうと何であろうと、聞かないことには話が始まらない。知ることの出来ることは知っておき、それを飼い主に伝えるのが番犬というものなのだ。

「悪いことは言わない。あいつを追うのはやめときなよ、おっちゃん」

 ミイランは首を縦には振らなかった。

 気遣わしげに番犬Eを見つめて、忠告する。「危ないから」と、言葉を添えた。

 ミイランの忠告は正しい。暴虐探偵が死んだ今でも、その諫言に対して否やは無い。その爪で暴虐探偵を断裂させた番犬Eにとっても、頷ける話だった。

 この世界を去った今でも、暴虐探偵は危険だ。こと暴虐探偵に触れるのならば、慄然とした思いを抱えて然るべきなのである。油断を見逃す暴虐探偵では無い。なればこそ王国という庭で、番犬の縄張りで、彼の魔物は三週道も逃げおおせることが出来たのだから。

 だが、譲るつもりなど毛頭無かった。虎穴に入らずんば虎児を得ず。そもそもこの世界の生きものが魔物だけである以上、安息の地など存在しない。だから危険であるということは、番犬Eの歩みを止める理由にはならない。

 犬も歩けば棒に当たる。常に矢面に立つ生き方をしてきた番犬Eは、そうやって災難に巡り会うことには慣れていた。

「男の尻を追いかけるのは己としても気が進まんよ。だがなミイラン、この女を、ロクを見ろ。言葉を喋ることの出来ない此奴は、暴虐探偵の関係者らしいのだ」

 ロクを顎で示す。話題にされたと空気で感じ取ったらしいロクは諮問するような意思を表したが、番犬Eは黙殺した。

「事情が分からなくては、どうしようも無い。暴虐探偵が此奴を己に引き合わせた。その意味を知らなければ、己にすべきことが分からないのだ。ミイラン、暴虐探偵について、何か知らないか」

「残念だけど、」一息吐いて、ミイランは「おっちゃんの期待するような話にはならないよ」

 それは、前置きだった。

 微動だにせず続きを待つ番犬Eに、呆れたように溜め息を吐く。そうしてミイランは、ゆっくりと口を開いた。古傷を抉るかのように躊躇いがちな仕草で暴虐探偵の話を語り始める。


 *


 それはどう考えても不自然な静謐だった。と、そんな風に、ミイラン・ミル・イルミイルアは述懐する。

 晦渋さにおいて他の追随を許さない複雑怪奇なそれは、やっぱりそれでも、――静寂、だった。

 『バジトーフー』がユエラの街で暴れるよりも前のこと。その廻道のユエラの街において、宴が執り行われている。その場にミイランは居たのだ。そして飲めや歌えの大騒ぎに街全体が揺れているにも関わらず、ミイランの周囲だけは寂としていた。

 ミイランが居るのは人気の無い路地だ。案内図にも乗る歴とした道であるのに、あまりの細さに人通りが少ないところ。

 路地の続く遠い先、一番区の大広間では盛大に火が炊かれている。陽気な煤を天に飛ばす炎熱を取り囲むように、ぐるぐると人々が踊り狂っていた。

 離れたところから眺めるミイランのところにも火の粉は降り注いできて、そのちかちかと儚い蛍火が鳴いている。享楽に溺れる。嬌声が上がる。寿命の全てを燃やし尽くさんほどの狂宴が視界に入るほどの距離で開かれているのに、分厚い壁でも隔てたように、ミイランの耳朶を打つのは虚無だけだった。

 ――気味が悪い。

 祭りの最中にあって、だが息を潜めるような沈黙が場を支配しているということに、ミイランはそんな感想を抱かずには居られない。

 "天の祝祭"。これは叫声を上げて騒ぎ立てるべき、祭りの真っ只中なのだ。

 巡道、回道、週道、廻道、趣、刻、それら全てが天道に入った瞬間から、人間の刻に変わるまでの間に開催される祝祭。多幸症と見紛うほどの愉悦に皆が没する一刻だ。

 だからミイランも例に漏れず、切り揃えられた短髪に花をあしらい――天の祝祭において髪に花を挿すのは男女に共通するルールなのだ――、そうして祭りの中心地に笑顔で向かっていたのに。

 路地の奇妙な空気に飲まれて、どうしてか立ち止まってしまっていた。

 嵐の前の静けさとはしばしば耳にするけれど、嵐の最中に静かだというのは、字面にしても実際にしても違和感に溢れすぎている。

 だけど、だからこそ、それは暴虐探偵の登場に相応しい場だったのだろう。お誂え向きの祭壇、暴虐探偵が昇るためだけの舞台が、壇上がそこに在った。

 カツカツと、初めてミイランの耳に音が響く。

「探偵が秘密を暴き出すときに、携えておくと便利なものがあります」

 ――靴底が地を叩く音だった。

 まさに満を辞して、といったように長い緑髪を重力に任せた細身の男――暴虐探偵ローシ・ミブ――が歩いてくる。演説を開く識者が如く、威風堂々とした佇まいで、

「――語り部、ですよ。ねえ麗しきお嬢様。ミイラン・ミル・イルミイルアさん?」

 どうしてかミイランの名を知っている暴虐探偵と彼女は、そうやって邂逅した。

 だからつまり、初対面、だったのだ。これが初めだったのだ。なのに暴虐探偵はミイランの名を知っている。

 暴虐探偵は嗤う。何もかも暴き出したかのような酷薄な笑みで、訳知り顔で、

「ワトスン君とお呼びしたいところではありますが、これはやめておきましょう。マドモアゼル、とお呼びしても?」

「まず誰? そして何? 意味わかんないんだけど」

「貴方に分かる必要は無いのです。王女と番犬、そして異界の少女にさえ通じればそれで良い。語り部はただの媒体。語り部が何もかも理解してしまう方が、歪なのですから」

 煙に巻くにしても、もう少しやり方がありそうなものだった。

 案の定というか、ミイランは首を傾げる。だがそれでも奇人変人と遭遇したと断定したような、嫌悪感に満ちた表情は浮かべていない。ただただ困惑しているその姿は、ミイランの心根の優しさの表れだった。

 暴虐探偵は陶酔したように愉快げに、ミイランを見据える。

「強烈な印象こそが、記憶を鮮明にします。覚えておいてください」

 舌舐めずりをする暴虐探偵の表情は、それはそれは凶悪だった。犬歯が下唇に刺さって血が出ている。ミイランの背筋を怖気が走った。

 ミイランでさえ、こいつは魔物では無いかと疑うほどに、戦慄を誘う微笑だ。

 だからミイランは逃げるべきだった。

「天道。人間道。修羅道。畜生道。餓鬼道。地獄道。六道輪廻の内側で、私たち魔物はメビウスの輪と成り果てています」

 謳う暴虐探偵には、狂騒に隠れた怜悧さがある。闇の中で灯る黒猫の眼光が如き、狂気的な理知。

 気付けばそれはミイランの懐に入っていた。

「――そして、存在しないはずの七つ目の道に至る羅針盤。異界の少女はその指針に成り得る可能性を秘めています。貴方は出会うでしょう。貴方は語るでしょう」

 獰猛な、紅蓮色。めらめらと猛る暴虐探偵の熱い瞳は、ミイランを逃さない。

 一歩退く間すら与えられず、気付けば暴虐探偵の指がミイランの肩に刺さっていた。

「語り部となりなさい。対魔声聞印と威圧で、記憶を強引に刻んでおきます。もう貴方は、」

 ――忘れられません。

 だから、ミイラン・ミル・イルミイルアは覚えている。その全てを、番犬Eとロクに対して滔々と告げていく。


 *


 対魔声聞印。

 アシュテイン王国には、声聞と呼ばれる人間もどきが居る。自らを人間だと信じ切った上で飛花落葉を享受せず、魔物に抗う術を追い続けるある種の求道者だ。

 人間の内側には世界がある。悟界と呼称するその世界の存在こそが声聞の掲げる教義めいた信条だ。

 内なる世界の声を聞く。そうして人間が誰しも持つ潜在的な能力を引き出して、魔物と戦おうという人間もどき。およそ声聞であるならば須く悟界を持っているべきであり、彼らは実際に魔物とそこそこ戦うことが出来てしまう。自らのことを人間だと誤解しているにも関わらず、だ。

 その力の源になるのが、六道には及ばない、三界の集合体であるところの悟界。縁覚界、菩薩界、仏界。その三つの世界は更に肉と魂の二つに分かれて、籠目紋――六芒星――の頂点に配置されている。それが悟界の成り立ちだった。

 そして、その悟界の力を引き出す術が、対魔声聞印というものなのだ。

 ――バジトーフーについての諸事。

 ユエラの街を二度も襲ったバジトーフーという魔物に関して、特筆すべき事柄は二つある。

 まず一つ。一度目の襲撃の際、対応したのが声聞という人間達であること。

 バジトーフーは、さして強い魔物では無かった。王国の秩序を保つのが番犬の役目だが、あまりに王国が平和すぎても緊張感が薄れてしまう。だから王女と番犬はユエラの街に近付くバジトーフーに気付いていながら、その襲撃を看過した。バジトーフーと人間を戦わせたのだ。

 そして二つ。封印が解かれた際のバジトーフーが、明らかに以前よりも強くなっていたこと。

 餓鬼道の魔物である以上、封印さえされていなければ強くなっていることに不思議は無い。餓鬼道の魔物は元来そういう性質を持つのだ。餓鬼道には、永久の餓えが纏わり付いている。餓鬼道の魔物は喰らうものであり、ありとあらゆる物質に歯を立てて飲み込もうとするもの。口蓋は闇に満ちていて、咀嚼しようと口に入れたものは全て闇の中へと消滅して腹にまでは届かない。だが食べた分だけ強さは増していく。限界は無い。

 その性質に従うと、バジトーフーが強くなっていたのは当然のことだろう。

 しかしここで問題になるのは対魔声聞印結界だ。悟界を現世に結合する形で生み出された封印用の結界。それはバジトーフーに対して有効であるように調整された代物で、結界内でのバジトーフーの現在地点を唯一の六道の存在であることから迷界と見なす。六方のいずれに進もうと六道の存在であるバジトーフーは悟界には辿り着けず、迷界を彷徨い続ける。だからバジトーフーの噛み付く対象が存在しない――はず、だった。

 それなのに、実際バジトーフーは解放時には強くなっている。原因が、どこかにあるはずだった。

「――元凶は全て、暴虐探偵ローシ・ミブか」

 番犬Eの出した結論は、それだった。呟きを耳にしたミイランはほんの少し眉を顰める。

「……ローシ・ミブ? 何それ、あいつの名前、なの?」

「そう、聞いている。しかしミイラン、そのとき暴虐探偵は名乗りを上げていないのか。どうしてそれが暴虐探偵だったと言い切れる」

 それに、ともう一つ疑問が口から出掛かって咄嗟に抑える。

 ミイランに、人間に言ってはならない疑惑だった。対魔声聞印についての小さな問題。対魔声聞印には自称人間しか持ち得ない悟界が必須だが、魔物と自覚した者の内には悟界が無いのだ。悟界は精神体としての人間にしか持ち得ない。それは魔物しか知り得ないことだが、だからこそ魔物ならば知っている。

 暴虐探偵は魔物だ。

 つまり、暴虐探偵に対魔声聞印を使えたはずが無かった。ならば、どうして、暴虐探偵は対魔声聞印を話題にしたのか。問いは番犬Eの中で燻り、煙で肺の底を満たしていく。

 ミイランはそんな番犬Eを見ては居らず、しっとりと目を伏せていた。汚濁に塗れた重油が如く、どろりと伝う――汗。

 その目は現在を見ていない。番犬Eがミイランに暴虐探偵のことを続けて詰問したが故に、過去を思索している。下唇に歯が突き立てられていて、苦々しげに一文字、唇が引き結ばれていた。

 息絶え絶えだ。

 番犬Eは自らがした質問を思い出す。すなわち、――どうしてミイランが暴虐探偵の正体を見抜けたのか。

 断続的に零れる枝葉を擦るような荒い呼吸音。そのミイランの様は見るからに、思い出すことを身体が拒絶している、といった風に見えた。

 不安そうにロクが番犬Eの裾を握るほどに、凶兆を思わせる様相だ。

「大丈夫か」

 たまらず番犬Eは問いを投げる。

 大丈夫なはずなど無かった。絞り上げるような、捻れた吐息。喉の奥で臓腑が掻き混ぜられているのだろうかと、そう考えてしまうほどにミイランは苦しげな声を零している。

 ロクが番犬Eの背中に身を隠す。事態が変化したのはそれと同時だった。

 すうう、と沼が穴を空けて空気を噴き出すみたいに、ミイランは長い時間をかけて肺を空っぽにしていく。

「……ミイラン?」

 俯き加減のミイランの表情は、番犬Eの視点からでは覗けない。

 だが、垣間見えることさえ無いはずなのに、番犬Eにはその表情が見えた。否、悟ったというのが正しい。見る必要さえ無く、あまりにも確信に満ちた想像をできてしまった。

 総毛立つほどにおぞましいそれは、笑みだった。

 背筋を悪寒が撫でる。

「暴虐探偵が暴かぬもの無し。暴いていったのよ、あいつは。だからそれは暴虐探偵以外に有り得なかった」

 へらへらと、嗤っていた。それはどう見ても人間の浮かべる笑みとは思いようもない、まるで魔物のような――

「いっそ気持ち良いぐらいに」

 ――と、その、直感は間違っていなかった。

「私が知らなかった私まで、暴虐探偵は暴いていった」

 ミイランの身体から。彼女の内側には光があったのだ。

「ああ、なんで、どうして気持ちいいんだろ。だから私は暴虐探偵が怖いんだよおっちゃん。。私の中には蟲が居たんだ。ごめんねおっちゃん、ごめんね」

 謝罪を繰り返すミイランはしかし、恍惚とした表情で、溺れるような笑みを浮かべて、噛み付かんばかりに番犬Eを見つめていた。

 そのミイランの腹部から、呵々大笑する何かの声が響き渡る。心底楽しそうに、肌を逆撫でるほどに不快な笑い声。

 そうしてそいつは、顔を覗かせた。

「ごめんね、ごめんね」

 謝り続けるミイランと、全く同じ顔をしている。顔形全てが一欠片たりとも違わないミイランの複製体。その顔がミイランの腹部を食い破り、愉快げに飛び出してきた。

「ごめんね」

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