番犬Eのマシュマロな牙

針野六四六

第1話

 ともすれば寂れた廃鉱を見るような、赤土に満ち満ちた月下の荒原だった。

 仄明るい月光に照らされて、景色はどれも形を知ることが限界なぐらい茫洋としている。だが確かにそこには二人の人間が立っていて、互いに互いが歯を剥いて、唸り声をあげていた。地獄の趣、畜生の刻に相応しい一幕。

 ――それはある種の、縄張り争いだったのかもしれない。

 実際『番犬E』は間違いなく、彼の縄張りで粗相をした眼前の一匹狼を殺すためにこの場に馳せ参じた。番犬Eの前で荒々しく断続的に息を吐き涎を垂らし血液すらも零し続けているその狼は、番犬Eの縄張りで罪を犯した悪辣な化け物だったからだ。

 『暴虐探偵』ローシ・ミブ。そういう名前を持つその一匹狼が犯した罪は、あまりにも多岐に渡る。

 "暴虐探偵が暴かぬもの無し"。

 更生した咎人の前科を暴き、そうして居場所を二度失った咎人は道を再び踏み外した。咎人は更生を目指す気概を失い、暴虐探偵の児戯が二次的に多数の人間をぶち殺した。

 餓鬼道に属する魔物『バジトーフー』を抑えつける封印を暴き出したときもそうだ。驚くほどロジカルな仕掛けで紡がれた対魔声聞印結界を、『解くのが楽しいから』という理由だけで解除し、結果的に街が一つ半壊した。

 だから暴虐探偵は間接殺人の実行犯として手配されている。

 暴虐探偵は直接人を殺すことがない。だが暴虐探偵の為した謎解きのほとんどが、結果として大量の人間を殺戮したのだ。

「我々の庭でさえ事件を起こさなければ、見逃していたものを」

 番犬Eの十指に鈍色の爪が光る。暴虐探偵の血に濡れた番犬Eの尖爪は、月夜の下で紅く妖刀の如き輝きを放っていた。

 暴虐探偵の左腕は地面に転がっている。

 穴の開いたコップから零れ出すように、暴虐探偵の肩から流れる血液。

 それは番犬Eと暴虐探偵のファーストコンタクトの結果だ。音も無く飛び掛かった番犬Eの爪が暴虐探偵の片腕を千切った。だが、暴虐探偵の受けた手傷はほぼそれだけと言って良い。それから何合か打ち合った二人は、互いに刃を届かせられなかった。

 暴虐探偵は微笑する。歯を見せず血潮のような笑みで、番犬Eと相対する。

「好奇心は私をも殺す、と言いたげですね? 王国に尻尾を振る犬畜生のくせに。良いですか、知識欲無しに識者には成れないんですよ?」

「例えそうだとしても、貴様は咎人にしか成れない」

「咎人……咎人ですか。首輪付きの貴方が、私を鎖で縛ろうとは。ぜひ貴方のその頭、暴いてみたいですねえ」

 酷薄で苛烈な、真っ赤な舌が顔を出していた。肩先、口元、そして眼光、それぞれに赤が宿っていた。暴虐探偵を彩る鮮烈な原色は、どれもが濡れて波打つ灼熱を彷彿とさせる。

 問答を繰り返すには、番犬Eも暴虐探偵も、飢餓感がかちすぎていた。

 二人とも、人間道に属する魔物なだけはある。魔窟の中で光る苔の如く、そんな纏わり付くような灯火で眼球を染め上げているのだ。火種は胸の内にある。二人の間に飛び散る火花は必然の産物で、気概がどれだけの熱を蓄えているのかを考えれば、それがどういう形で表出するかは明らかだった。

「御託は要らん。咎人は番犬に追い払われる運命だ。だから殺す」

「ふふ、逆に貴方を解体して差し上げましょう。つまり殺します」

 即ち――爆裂する。

 視線が交錯したその刹那。

 大地を砲台に、二頭の猛獣は射出された。

 それは視認することの叶わない速度で、だから二頭の姿は黒い線となり掻き消えて、

 ――暴虐探偵の通った軌跡の方だけを、紅い噴水が綺麗になぞる。

 命を宿す液体が、裂傷から勢い良く飛び出していく。暴虐探偵の命が、大地を汚すだけの塗料に成り果てていく。土袋を投げ捨てたような音と共に、暴虐探偵の体躯が地に崩れ落ちた。

 番犬Eの爪が、暴虐探偵を切り裂いた。

「番犬よ」

 勝利者を称える声。番犬Eは、だが、興味を持たない。一瞥だけ返して、血に塗れた爪を一振りした。地に撒き散らされた鮮血は涙のように疎らに、大地に薄い跡を残す。

 暴虐探偵は息絶え絶えに、もう一度『番犬よ』と掠れた声を上げた。

「恨むなら恨め。怨嗟の咆哮など聞き飽きた。何しろ己は番犬で、耳が良い。地獄道に響く呻き声でさえ、我が耳朶だけは打つだろうさ」

「ではその耳で……聞き、逃さないでくだ、さいね?」

 ――ユエラの街、地獄の方で、天に背を向けなさい。

 それが暴虐探偵の遺言となった。番犬Eには傷一つ無く、暴虐探偵は肉の内側が見られるほどに刻まれた姿で死に絶えている。

 そもそも暴虐探偵が直接人を殺すことは無いのだ。殺すだなどと啖呵を切っておきながら、その意気込みを欠片一つも持っていない。こうして対面した瞬間、この結果は決定されていた。番犬が生き、探偵が死ぬ。八百長だった。出来レースでしかなかったのだ。

 知略謀略が、暴虐探偵の唯一の武器だったはずなのに。番犬は――否、番犬Eは、何故暴虐探偵と接触することが出来たのか。

 その答えが、遺言の中に隠れている気がした。

 だが、番犬Eは番犬である。トートロジーめいて見えるが、そうでは無い。そういうことでは無いのだ。番犬Eは『番犬』という役職のために存在するのであって、それ以外の全てを棄却し続けている。番犬Eは番犬である以外に何者でも無い。暴虐探偵は番犬Eを個人として認識していたようだが、番犬Eは個人では無かった。番犬Eとは役職そのものであり、組織のアバターである。

 だから番犬Eは、手際よく掘った穴に暴虐探偵の肉体を埋めると、切り取った頭部だけを袋に詰めて、飼い主の元へ帰還したのだった。


 翌日。天の趣、天の刻。

「お手柄お手柄。良く頑張ったのですよE君、王女様は褒めてしまいます」

 パブロフの犬よろしく、その声を聞いただけで番犬Eは頭を垂れる。声の主は飼い主である八歳の王女、ピノ。ピノ・ルーマ・アシュテインだ。

 番犬Eは番犬と成るに当たり、いくつか教えられたことがある。その一つにこの飼い主に対する本当に基本的なことがあった。そう、絶対服従である。

 条件反射でピノの声を聞けばまず地に膝をつき頭を垂れるように、番犬Eの肉体は最適化されていた。反復による条件認識を繰り返せば、身体が覚えるという段階を更に乗り越えることが出来るのだ。ピノの声を聞いてから臣下の礼を取るまでの間にもはやラグは無い。シナプス可塑性に基づき、肉体の構造がその動作に適応している。

 ピノが番犬Eの短く切り揃えられた白髪を片手で梳いた。

 飼い主の為すがまま、番犬Eはただただ愚直に恭順の姿勢を見せている。ただ、そこには一つの異物があった。豪華絢爛な王女の部屋に、愛らしい王女様と、現状愛玩動物扱いの番犬Eが一頭。

 そして、――暴虐探偵の生首。

「やっぱり人間が全て人間道に属する魔物であると、そう気付いている存在は厄介なのです。王女様は嬉しいのですよ。王女様の番犬は、とーっても可愛いっ、のです」

 花も恥じらう、綿毛のような満面の笑み。『えらいえらい』と番犬Eを労う。それは一見、『お姉さんぶりたい小さな女の子』と思えてしまうような、そんな微笑ましい姿、――なのに。

 色を失った頭部が、黄色い絨毯の上に鎮座している。

 乱雑に垂れた緑色の髪。

 瞳孔の開いた作り物めいた眼球。

 その顎は冥府の門を象徴するように開いてしまっていて、肌は幽鬼のように青白い。実際に宿るべき命を失っているのだ。

 暴虐探偵ローシ・ミブの亡骸。それがまるで剥製か何かのようにインテリアじみた佇まいで飾られているこの空間は、豪奢な王室と言うにはあまりにも不気味すぎた。

 そしてその部屋の主もまた、外見の可憐さと中身が一致していない。

 この状況で尚微笑んでいられる精神性に、しかしピノ自身も、番犬Eも、何の疑問も持ってはいなかった。そもそも疑問を挟む要因が存在していない。

 八歳児が死体を前にニコニコしていても、それはおかしなことでは無いのだ。

「ところで、報告にあった遺言の話なのです」

「――ユエラの街、地獄の方で、天に背を向けなさい。暴虐探偵は今際の際、己に、そう言いました」

「魔物でしょうか、魔物でしょうねっ。ああ、王女様はわくわくします」

 ――だってこの世界には、可愛い可愛い魔物しか、居ないんですもの。

 ピノは断言する。それは幼い王女様が知り得てしまった、残酷な世界の真実だった。

 人間は漏れなく人間道に属する魔物である、ということ。動物の類は畜生道の魔物。悦楽に笑う天道。闘争に溺れて決して苦しみを癒やさぬ修羅道。飢餓感が絶えず全てを喰らい尽くして尚満たされぬ餓鬼道。およそ生き物である限り、それは全て魔物である。

 ――そういうこと。

 この世界には、魔物しか居ない。それが純然たる事実で、だから王女も番犬Eもこんな生き方に溺れている。自らを人間だと欺瞞する愚かな魔物を王国という縄張りの内に保護している。縄張りに放った番犬で、原罪を知り得た人間を葬り去っている。

 全ての生きものは魔物である。その事実を自覚する人間は、厄介なのだ。

 スタンフォード監獄実験。人格は役割や肩書きに引き摺られる。一端の倫理観や道徳観を持って生きられるのはその者が人間だからである。

 王女も番犬Eも自らが魔物であると気付いている。だから、こうなっている。人間を殺すことに何ら感慨を持つことも無く、人間らしさを捨て去ってもさしたる影響が無い。

 自らが魔物であると気付いた人間は、歳を数える意味を失う。不老となり、魔に目覚めるのだ。それは単に枷が外れただけのことではあるのだけれど、たったそれだけのことがいつも驚異となっていた。

 王国の管理者、八歳の王女、ピノ・ルーマ・アシュテイン。

 いまや立派な裏の世界の住人であるピノは、実は、一週道も前に魔物として覚醒したばかりだ。

 だが、今ではピノが存在するから、王国ではピノが住む場所が裏の世界となっている。先代から引き継ぎ、魔物の世界を裏側に保っているのはピノその人である。そして王国を除いたありとあらゆる場所では、魔物の世界が表だった。

 自らが魔物であると自覚することで、世界は反転する。

「魔物と罪人は、王国にて屍となるのです。そのための番犬、そのための牙なのですよ」

 その小さな腕をうんと大きく、ピノは振る。それはまるで、軍配者が団扇を操るように。

「――さあ、行くのですE君。ユエラの街、地獄の方で、天に背を向けるのです。天命に背くのは得意でしょう。三善趣に私たちが見上げる天など、在りはしないのですから」

「御意に。我が主様」

 そうして番犬Eは、作為的な運命の出会いを為す場所へ、駆け足で近付いていく。


 アシュテイン王国、その住民数は現在約七万人だ。そして民草は増えることが無く、じわじわと減り続けている。

 アシュテイン王国が持つ八つの街は、だというのに、一つを除いて前向きな空気を零れさせていた。淀んでいるのはたった一つの例外、ユエラの街だけなのだ。

 それもそのはず、つい先日このユエラの街は『バジトーフー』に喰らわれて、半壊していた。回復の兆しが見えるのはあと半巡道も超えた頃になるだろう。

「見るに耐えんな」

 街並みをぐるりと睥睨して、番犬Eは呟いた。

 人通りの多い道に半球状のクレーターが出来ていることも、壁の半分を削り取られた家屋で生活する人々も、遺体が纏めて埋められていたのだろう小山が街の外にあったのも、そこに建つ墓に掘られていた名が『被害者一同』と一つに纏められていたことも。

 眉を顰める程度には不快だった。

 視察官の如く、双眸に光を宿して番犬Eは通りを歩く。威風堂々、背の曲がらない凜とした姿勢。猫背で過ごす住民の一部は番犬の姿に当てられて、すっと背筋を伸ばしていた。

 人間と修羅のちょうど中間の方から昇った太陽が、祝いの酒のように濡れた光を天から零している。そんな晴天の薄膜に包まれながら、沼に沈むような足取りで人々は這いずっていた。

 目指すは地獄の方だ。いまだ朝日たり得る真円を左手側に、番犬Eは目的地に向かう。

 ――ユエラの街、地獄の方で、天に背を向けなさい。

 酷く曖昧な座標指定だと感じた。だが、それで問題無かったのだ。少なくとも番犬Eにとっては。

 鼻につく臭いが、地獄の方からやってきている。暴虐探偵の血の臭い。死して尚さび付いた刃の臭いを漂わせるその地は、確かにユエラの街の地獄の方にあった。鼻が利き、暴虐探偵の錆の臭いを存分に嗅いだ番犬Eであるならば、なるほどその遺言で道を違えることは無いだろう。

 じりりと、砂礫を蹴って立ち止まる。

 そこは、ユエラの街の端だった。

 巨大な岩石が塔のように立っている。優に番犬三頭分の背丈を超える見るからに重厚な鉱物は、蓋の役目を持っていた。この場で天に背を向ける――つまり、地中に何かが在るということだ。この見上げるほどの岩を蓋として扱う、なるほど自身を人間だと思い込んでいる存在には出来ない所業だろう。

 魔物たる暴虐探偵がそうまでして保管した何某か、恐らくは魔物が潜んでいるだろうそれを目にして、番犬Eに躊躇など無かった。

 犬らしく掘り返す、などと面倒なことはしない。ただ一度岩石を蹴り飛ばし、実に呆気なく封印は解かれた。

 そこにあったのは闇だった。

「暴虐探偵は死んだ! 逃げ場など無いぞ! さあ、出てこいッ!」

 怒号。

 眼前にあるのは洞穴だ。魔窟と呼んでも構わないほどの暗闇に満ちている。そこに何かが在る、あるいは居る。それを番犬Eは確信していた。

 言葉が通じるなら何らかのアクションが返ってくるかもしれない。番犬がここに来たということを知らせるだけに終わっても構わなかった。緊張で強張る気配を、番犬Eの五感は逃さないのだから。

 二呼吸の間を空けて、だが洞穴の中に動きは無い。これで少なくとも交渉が不可能であると仮定することが出来た。鬼が出るか蛇が出るか、生きものであるなら魔物でしか有り得ないから、番犬Eは警戒心を露わにして内部に踏み込んだ。

 敵に接触した瞬間、先制攻撃をくれてやる意気込みだった。遭遇からファンファーレまでの経過時間をほぼ無に抑えてみせる気概だ。

 へばりつくヘドロのような黒。洞穴には光源の一つも備え付けられていないから、暗がりが空間を席巻している。餓鬼道の魔物の口蓋と同様に、一寸先も見えないほどの闇だ。

 その中を、どれほど進んできただろうか。番犬Eの探知領域に何かが引っ掛かった。

 耳を尖らせ、鼻をすんと鳴らして、息を潜める。

「……ん?」

 その結果、番犬Eは違和感に襲われた。

 澄ました耳に届いたのは、鼻をすする音、嗚咽の声。鼻腔を擽るしょっぱい水気、涙の臭い。

 それはまるで、誰かが、泣いているみたいな――。

「――ぐすっ」

 空耳では、無かった。間違いなくそれは誰かの泣き声で、弱々しい悲鳴で、確かに洞穴の中には泣いている何かが居た。

 脳裏に暴虐探偵の顔が浮かぶ。緑色の長髪、愉悦を探求するルビーの瞳、つり上がったまま下りてこない口角。どれを取っても魔物に相応しい悪辣さだった。

 だから番犬Eはこれが罠なのだと思っていた。遺言に従えば危機が待っていて、熾烈な攻撃に晒されるのだと。それがこの、泣き声の主なのか。

 音も無く、滑るように。番犬Eは闇に紛れて、音の発生源の前まで到達する。

「……ぅ、くっ」

 ――そこには、女がへたり込んでいた。

 肩をひくつかせて、手の甲で目元を拭っている。感情のままにしゃくり上げては、目元から器から溢れるような雫を垂らす。

 眼前に番犬Eが来たことにさえ気付かずに、ただただ何かしらの負の感情に暮れているその女は、幼いとさえ言えるような外見だった。

 闇の中、目を凝らさないと視認できない艶やかな黒髪を肩にまで垂らしている。薄い黄色に染まった肌だが、目元と頬は泣きはらして赤みが差していた。幾筋も通った涙の跡は上半身を包む白い服どころか、濃紺に染まった腰布や、そこから伸びる太腿にさえ垂れている。襟筋を飾るリボン、傷の見当たらない柔肌、まるで王女様のように安全な生活をしていたのだろうその女は、項垂れて床に片手を付いていた。

 演技かどうか考えるべきだろうか、と。

 番犬Eはまず、懐疑するべきかどうかを懐疑する羽目になる。

 人畜無害を体現するような、およそ戦闘とは無縁に見える女だった。年の頃は十五やそこらだろうか。これが仮面で、懐に刃を抱えた殺意の塊なのだとしたら、それは本当に魔物に相応しい。番犬Eは賞賛を惜しまないだろう。

 まあ、もしもこれが人間だったとしても、自覚が無いだけで魔物であることには変わりないのだが。ただ、自覚があるのかどうかということは非常に重要だった。番犬と、その飼い主にとって、それは何としても知っておかなければならないことなのだ。

 飼い主である王女様は、自らを人間だと信じている愚かな魔物を保護しているのだから。

 だからこれが飼い主の庇護すべき対象かどうか、番犬Eは手っ取り早いやり方で確かめてみることにした。

「おい」

 打ち下ろす恫喝。

 びくんと肩を跳ねさせる女を、ラピスラズリの眼光で射貫く。殺意を以ての威嚇だが、女は困惑した表情で番犬Eを見て硬直しただけだった。通じていないというか、気付いていない様子だ。あるいは、理解できていない。

「貴様は何者だ。答えねば殺す」

 光沢を持った爪を女の首筋に添える。

 女の茫洋とした視線が、番犬Eの爪と顔を行き来した。何を見ているのかハッキリとしない。何かを考えているようにも見えない。そんな女の姿を、番犬Eはつまらなそうに観察し続けた。

 ようやく状況を理解した女が目を見開き、息を飲む。押し殺した恐怖がふっと意識を失うような声となって漏れた。

 視界不明瞭、如法暗夜もかくやと言わんばかりの黒々とした視界に、刃を携えた番犬だ。確かに恐怖してもおかしくは無い――魔物で無ければ。

 明らかに、女は恐怖していた。恐怖に埋没していた。そして、言葉を発することが無かった。

「おい。貴様、聞こえているのか」

 違和感はだんだんと増している。怯えているのは見て取れていた。胸臆に恐ろしいものが潜んでいないとも限らないが、今は恐慌に陥った様子を見せているのだ。

 例えそれが演技だとしても、いや演技だとしたら尚更、どうして答えを返さないのだろうか。

 疑問は腹の底でじわじわと消化不良となってわだかまっていく。聞こえていないのかと問い掛けたが、それは番犬Eが自ずから否定していた。声を発せば肩も震える、わざと爪から鍔鳴りの如き金属音を響かせればわずかに刃から逃げる。聞こえているからこその反応は、そこかしこに散見されていた。

 ならばこの奇妙な態度には、演技では無い何かしらの原因があるのかもしれない。自身が魔物だと自覚できていない人間が、番犬Eの問い掛けを無視する理由。

「言葉は分かるか」

 爪を納めて問う。腰を落として、目線の高さを女に合わせた。

 見下ろされているというだけで、高圧的に感じられてしまう。番犬Eはそれを経験で知っていたから譲歩してみせたのだ。対話が出来なければ情報が引き出せない。表情は堅苦しいままでも、幼子に対して行うように接してみることにしたのだ。

 されど、女は怯懦にも沈黙を守っている。

「ふむ」

 さほど悩むことも無く、番犬Eはもう一つ、思いつきに従った。腰元に据えた収納袋、その中からいくつかの物を取り出す。暗闇の中でぼんやりと光る種子を一つと、葉に包まれた菓子を二つだ。種子の明かりで手を照らして、菓子は二つとも手の平に乗せる。

「これはライネンという菓子だ。菓子。分かるか。見てろ」

 手の平の菓子を二つとも、しっかりと女に見せつけた。そうして後、片方の菓子を包む、織り込まれた葉を解く。手順を全て女の目に見えるように丁寧にこなして、最後に残ったライネンという菓子を自らの口に放り込んだ。

 そうして、残りのもう片方を差し出す。

「食ってみろ」

 女は戸惑った。だが意味は理解できていたようだ。迷った挙句おずおずと手を伸ばして、葉の包みごとライネンを手に取る。

 番犬Eがやったのと同じようにライネンを摘まみ出すと、目を瞑って口に入れた。

 ふぁ……、と優しい声が零れる。

 女の顔が綻んだ。というのもライネンというのは非常に甘い菓子なのだ。その上口に入れた刹那に溶けるように、口いっぱいに甘味が広がる。甘いものを口に入れて、悲嘆に暮れていたようだったその女は初めて気を緩める雰囲気を醸し出した。

 蛍光色の種子が、下から女の顔を照らしている。輪郭さえ曖昧だったが故に気付けなかったが、女はかなり愛らしい顔立ちをしていた。理想的な我が娘とでも言うような、優しげで抱き締めたくなるような容姿。

「今一度問おう。貴様は何者だ」

 今度こそと、最初にした質問を番犬Eは繰り返す。

 だが返答は――言葉でさえ無かった。首を横に振る所作のみ。それを女は答えとした。

 意味を考える必要も無い。今までの流れもあり、痛ましげに伏せた目などを見れば番犬Eも悟ろうというものだ。

「言葉が、通じないのか」

 もはや疑問を挟む余地が無かった。女がよほど芸達者ということでも無い限り、確定したも同然だ。

 女は無言で番犬Eを見つめる。肯定でも否定でも無いそれが、雄弁だった。確信する。女は言葉が通じない。

 そして、害意も片鱗さえ見られなかった。とりあえず危険は無さそうだと判断して、首を捻る。暴虐探偵が番犬Eと女を引き合わせた思惑が、分からなかった。

 しかしそれは追々推測していけばいい、と番犬Eはかぶりを振る。

 一先ず、女を拾おう。そう番犬Eは、決めた。女の素性が分からない。言葉が通じない理由も、探っておきたい。得体が知れないのは確かなのだ。監視も兼ねて、番犬Eは女を連れ出すことにした。

 その前に、

「ロク」

 女を指差す。二度、三度と、理解させるべく、指を逸らさず言葉を紡いだ。

「ロク。ロクだ。お前をロクと呼ぶ。ロク。分かるか、ロク」

「……ロク?」

「そう、ロクだ。ロク」

 くどいほどに同じ言葉を繰り返して、名称を仕込む。便宜的なあだ名ではあるが、これがあるのとないのとでは大違いだ。番犬Eからしてみれば、これを忘れてもらっては困る。

 そうしてしっかりと伝わったのを確認した上で、今度は自らのことを指し示した。

「ロシ」

 女と自分の、髪の色。それをそのまま、反転させて読んだだけの仮称だ。だがそれでも名前は名前。名は体を表すとも言う。実体験として、自らを人間であると呼称するか、魔物であると呼称するかで世界は大きく変わることを知ってもいた。名に体が引きずり込まれるとさえ番犬Eは信じている。だから当たり障りの無い名前として、髪の色を反転させただけのものを選んだ。

 奇しくも、暴虐探偵に近い名だ。当然これも番犬Eの本名というわけではないが、頭の隅にさえ留めておけば問題は無い。

 番犬Eは女に、自らの名を「ロシ」だと教え込んだ。

「――ロシ!」

 ロクが復唱して頷いたのを確認して、番犬Eは満足げに微笑んだ。

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