「小説」として認められないのは常識的な感性だろう。
自分なりに解釈して笑い、肯定した自分もこの作品を「小説」であると思わないし、「小説」として認めることはない。
しかしこのセンスが受け入れられることこそ、Webコンテンツの醍醐味ではないだろうか。
「書籍」を基準とした従来通りの「小説」が読みたければ他の作品を読んでいればいいだけの話である。
巨大掲示板、大手動画サイト、絵描きサイトなど、そうした「場所」の黎明期ではどこでだって(舐めきった)批判精神、(無くてもいい)チャレンジ精神を見せてくれた。
ふざけたセンスを排他、あるいは低俗として認めない、存在自体が害となる──そのような不寛容に徹した態度を取らなかったからこそ、混沌としながらも発展し、今でも生き残っているといえる。
ページのフォーマットを逆手に取って表現した『オレオ』というこの作品を、運営と利用者はどう捉えるのか? この是非を問う事を否応にも突き付けてくる。それも本文はたったの三文字で。
「これこれこういうものです」「問題提起です」「考えてみましょう」などといった補足や押し付けを必要としない、触れた者が自発的に(半ば強制的に)思索してしまう、見事にスペキュラティヴな創作活動であろう。
コンテンツの黎明期にのみ誕生しえるこの「妙」に対して、安易な否定や肯定など誰ができるだろうか。
各々が考えに考えて、それでも決着をつけずにいることこそ、創作の場として発展していく自由と余地が存在する。
三文字から何を見い出せるかは人によって違うだろうし、明確な答えなどないだろう。
けれど問いは投げられっぱなしになるものではない。読者には「落ち所」を自分で決めることのできる自由がある。
天才とはいわない。
秀才ともいわない。
これはまさしく鬼才の成せる業だ。
「オレオ」この三文字をSFというジャンルの括りに筆者は捻じ込んだ。
この意味は僕にもわからないし、きっと君にもわからない。
ル・クレジオの『物質的恍惚』(岩波文庫)の訳者のことばという章では、「主体は還元しがたく二重であること、言語は自己同一的な‹私›への信仰を許さないものであること、そして意識(眼差)が、主体を不可避的にみずからの外にほうり出すとともに、みずからに送り返すものであるものであること」を「根源的な主題」としているが、この事柄への反逆行為であり、おおよそインターネット小説のひとつの在り方を提示していることに他ならないだろう。
この小説は現代的、そして未来的な思想を最も真摯に取り扱うSFというジャンルだからこそ可能としたものだ。
と私は理解した。
これはあるテーマに対する答えではなく、筆者の提示なのだろう。
この作品の評価点には枚挙にいとまない。しかし褒めちぎる前に、まずは一言だけ警告しよう。
「『オレオ』の第1文に手を出せば、最後まで読むことをやめられない」
事実として、私は3度も読み返してしまったのだ。
さて、それでは文体から話を始めようと思う。『オレオ』は、言うなれば一点豪華主義のスタイルをとっており、1文たりとも無駄な脚色がないことに、その最大の特徴がある。『オレオ』が『オレオ』として完成するための最低限の文字しか書いていないのだ。自分の伝えたい一言だけを絞り出し、残りの些事には口をつぐむ。一見普通のことに思えるが、存外、これが出来る書き手は少ない。
「語るべきことしか語らない技術」とでも言えばいいのか。その技術において、『オレオ』の右に出るものはいない。
また次の評価点は、その圧倒的なリーダビリティである。私はここに断言しよう。
「『オレオ』以上に、読了に時間がかからない小説は存在しない」
「『オレオ』を読み終えることができず、途中で飽きてしまう読者がいるとすれば、それは人間でない。猿だ、そんなものは」
これは決してビッグマウスでも煽りでもない。作品を読めばそのことが分かるはずだ。
次に上げたい評価点は、最後の1行のもたらすサプライズである。
読者を颯爽と置き去りにし、「こんな終わり方があるなんて!」と呆然とさせる……それほどのエネルギーを生み出すトリガーが、なんとわずか6バイトの情報量に凝縮されているのだ。
こんなことを言うと、過大評価の疑いを免れないだろう。未読の方にはなかなか信じてもらえないことと思う。しかし本作を読み終えた読者なら、私が言ったことに嘘がないことが分かると思う。
また、少しネタバレになってしまうかもしれないが、この物語は冒頭と結末が接続している。意味深な言い方をすれば「読者は最後の1文を読んだとき、最初の1文を読ませられている」のだ。「そんなジェイムズ、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』のような体験を、web小説でするわけがない」とあなたは思うだろう。
しかし読了した読者には、私が言う意味も、私の発言に嘘がないことも分かるはずだ。