中年おじさんの作り方

大澤めぐみ

中年おじさんの作り方

 クソのように積みあがったクソのような残業を終えて深夜0時過ぎにやっと自宅に帰ったら部屋からあらかた家財道具が消えていて、ついでに婚約者も消えていた。

 つい先日、アメリカから帰国した婚約者を空港まで迎えにいったばかりだった。感覚としては夜逃げという単語が一番しっくりと来るが、私が会社であくせくと働いている間の昼の日中に悠々と荷物をまとめて業者かなにかを呼んで堂々と出ていったのであろうから、こういうのは昼逃げとでも言うべきなのだろうか、などと考えてみるものの、とにかく疲れ果てていた私は熱いシャワーを浴びてベッドに倒れ込むなり意識を失うように眠りに落ちた。翌朝、サンサンと差し込む朝日が眩しくて目が覚め、ようやく私は窓からカーテンすらも無くなっていることに気付く。人生最底辺に真っ逆さまに転落中の私にはもはや一般人並のプライバシーすらも許されないのかと、たまらなく惨めな気持ちになり、婚約者が出ていったことよりも42型液晶テレビや30リットルのヘルシオやダイソンのサイクロン掃除機が無くなっていることよりも、なぜだかこれが一番堪えた。しかし、いくら金目のものは全部持っていこう思ったのだとしても、いくらそれが川島織物の高級遮光カーテンだったからといっても、夜逃げするのにカーテンまで持っていくか普通。カーテンだぞ。ファック。

 とはいえ、せっかく早起きできたことだしと早々にスーツに着替えて出社することにする。どうせ部屋に居たってカーテンすらありはしないのだ。着替えももう丸出しだ。中年の着替えなんか見たければいくらでも見るがいい。これが生存ラインギリギリ人生最底辺の会社人のリアルな生態だ。見ろよ! ほら見ろよ! そして今夜も帰宅するのは深夜0時を過ぎてからだ。カーテンを買いに行く暇もありはしない。二日もすればサンサンと差し込む朝日で目覚める生活にも慣れてくる。むしろ身体の調子がいいくらいだ。くそったれ。

 婚約者が家財道具一式持って出ていったという事態は理解してはいたが、とにかく仕事が忙しく、ともあれ泥のように眠り、サンサンと差し込む朝日に叩き起こされてはすかさず出社する生活を続けていると、悲しむ余裕も事態に対応するリソースもろくろくありはしない。そうやって数日が過ぎたころにしばらく連絡も取っていなかった友人から電話がかかってくる。曰く、お前の婚約者のフェイスブックの交際情報が変更されているが大丈夫なのか? いったいなにがあったんだ? と。

 は? フェイスブック? フェイスブックだと!? と100万年ぶりぐらいにフェイスブックにログインしてみれば、かつて私の婚約者だったそいつはアイコンもなんだかチャラい日本人とのツーショットになっていて○○さんと交際中ですとかステータスが表示されている。私のアカウントをブロックしてすらいない。そればかりか大量にアップロードされている半年に渡るアメリカ留学中の写真にはそいつがいくらでも写りこんでいる。ファック! 知らぬは私ばかりなりではないか! なーにが本格的にダンスの勉強をしにアメリカに行きたいだ! まるまる半年、海の向こうで日本人とファックしてただけじゃねぇか! ていうか写真に写っている頭の軽そうな連中は揃いも揃ってどいつもコイツも日本人ばっかりじゃねぇか! それアメリカ行った意味あんのか!? 俺の金で!? そう、俺の金でだよ! ファック!

 一瞬にして全ての感情が怒りで塗りつぶされて、結局一切悲しむことがなかったのは僥倖と言えよう。怒りの感情に任せて寝食を忘れてバリバリ働いた私は案の定うっかりミスで大ポカをやらかしてしまい、しばらく暇を頂いてしまった。思えば何事につけ、ちゃんとやり遂げるということができないでいる人生だった。婚約者には土壇場で逃げられるし(カーテンまで持って!)、仕事も最後の詰めが甘い。これはとにかく、なにかしらひとつの事を自分のちからで最後までやり遂げる、という経験を積むことが喫緊の課題ではないかという思いがムクムクと大きくなり、なんにせよ仕事が暇になってしまった私は貯まりに貯まった有給を使ってやおら県内最高峰の3000メートル級登山に挑戦する。

 好日山荘にいってクレジットカードの一括払いでいっちょまえの装備を整えて、ケーブルカーで7合目まで上がり山頂を目指す。最高峰とはいえ近年は人気のある山だ。登山道も整備されていることだしこれぐらいは余裕だろうと考えていた私は標高差100メートルも登らないうちに限界に至る。なんだこれは、ここまで体力がなかったか、と思うのだが、横をスイスイすり抜けていく爺さん曰く「高山だからねぇ~無理しちゃいかんよぉ~~↑」

 そう、3000メートル級は酸素が薄いのだ。

 ええい!ここまで来てこんなところで引き返せるものか! と孤軍奮闘。登っては休み、休んでは登り、休んで休み、ちょっと登り、と永遠に続くかと思われた単独行もついに山頂に至った! やった! 私はついにやり遂げた! 人間やればできるんだ! 止まない雨はない! 明けない夜はないんだ!!!!

 私がうおー! と両腕を振り上げて雄叫びをあげようかとしたまさにその時、その男はホッホッホッと軽い掛け声と共に駆け足で山頂にやってきた。バカみたいに大きなザックを背負って。

「キーンキンに冷えたビールいかがッスか~~?」

 と、気分最高潮のわたしにふわ~っと気の抜けた声を掛けてくる。

「冷えたビール?」

「ほら」

 男はザックを背中から下ろし、中から六缶サイズの保冷ケースを次々と取り出す。チャックを開けてみればご丁寧に隙間には残雪が詰め込まれていて本当にキンキンに冷えているではないか。

「しかし、こういう山の上では普通ウイスキーとかそういうのではないのかね?ほら、こういう扁平なアルミケースに入った」

「でも飲みたいでしょ? キンキンに冷えたビール。飲んでくぅ~~~っ! って言いたいでしょ」

 飲みたい。飲んでくぅ~~っ! と言いたい。なにしろ一世一代の大仕事を成し遂げた後なのだ。これぐらいの自分へのご褒美はバチにも当たるまい。

「よろしい。一本いただこうか」

「まいどあり! 千円になります」

「たっか!!!!」

「そんなことないッスよ。都会のレストランじゃたったの100メートルぐらいの高さのスカイラウンジで、こんなちんまいタンブラーのビール一杯に千円ぐらい余裕で取るんだから。ここ、3000メートルっすよ」

 なるほど一理ある。なにしろこの男、この心臓破りの最高峰をこれだけの量のビールを担いでここまで登ってきたのである。その手間に対する正当な対価というのはあってしかるべきだろう。

「わかった。一本もらおう」

「ラガーとドライとあるッスけど」

 至れり尽くせりだった。

 プルタブをプシッとやると流石に3000メートル級。気圧が低いせいで次から次とビールがあふれ出てくるものだから、こりゃいかんと口から迎えにいってグビグビと飲む。くぅ~~~っ!!! いやあ旨い! こんなに旨いビールがいまだかつてあっただろうか(いやない)、と、あっと言う間に一本開けてしまう。

「よ! 大将! いい飲みっぷりだね! もう一本いかがッスか?」

「よし、もらおう」

「まいどあり」

「君は飲まないのか?」

「いや、だってこれ商品だし。大将が奢ってくれるなら俺も飲むけど」

「あ~分かった分かった。飲め飲め。奢ってやるよ」

「ウェーイ! いただきやす!」

 二千円を渡すと男も一本ビールをあけてグビグビグビ~!っと飲んでしまう。

「君なかなか気持ちのいい飲みっぷりだな」

「こういうのは惜しげもなく一気にいっちまうから贅沢なんじゃないッスか」

「お~いいぞ。もういくらでも飲め。好きなだけ飲め」

「お~っす! アリガトゴザイマース!」

 プシッ! プシッ! とふたりで次々にビールをあける。もう勘定も面倒くさくなって適当に万札を男に放る。

「カマンベールチーズもあるんスけど」

「ほうほう」

「一個三千円」

「たっか! ぼったくりじゃないか。さすがにいらんいらん」

 私がしっしと手を振ると男は「そう? うまいのに?」などと言いながらいそいそとザックからバーナーとコッヘルを取り出して、カマンベールチーズをまるまる一個そのままアルミ箔で包んで温める。

「そして仕上げにカルバドスを少々」

 男が例の扁平なアルミ缶から開いたアルミ箔に酒を注ぐと、えもいわれぬ香しい香りがあたりに漂い、私の喉もゴクリと鳴る。

「それがいくらだって?」

「三千円ッス」

「安いな。もらおう」

「まいどあり!」

 熱々のチーズをかっくらいながらビールをガバガバ飲んですっかり気持ちよくなってしまった私は男にもどんどんビールを飲ませる。

「なんだお前! もうそれ空いてるじゃないか! 飲め飲め! いくらでも飲め! それともお前私の酒が飲めないって言うのか!」

「いや、全然飲むよもちろん」

 興奮する私とは対照的に男は相変わらずのケロっとした表情で8本目のビールをあける。

「つーかシチサンまじですげぇ飲みっぷりだな? 大丈夫か? 高地は酔いまわりやすいからほどほどにしとけよマジで」

「誰が酔ってるって? この私が酔ってるようにでも見えるのか?」

「うん全然ダメっぽい」

「この髪型はシチサンじゃない!」

「なんだよ。7対3で分けてんだからシチサンでいいだろ。細けぇ奴だな、オシャレさんかよ」

 いつの間にか男の喋り方もすっかりタメ口になっている。

「お前なんだその口の利き方は。私は部長だぞブチョー! 偉いんだぞ!」

「あー偉い偉い。ヨ! シチサン部長! そんな下界のヒエラルキー持ってこられても知らねえよ。ここ3000メートルだぞ」

「ていうか普通これから夜逃げキメようとしている相手に空港まで迎えに来させるか!?」

「いや、マジでなに言ってんのか全然分かんねぇから」

「こんなに頑張っているのになんで報われないんだ!」

「頑張ってるからだろ。無理なこと頑張ってやったってしょうがないじゃん。ちゃんと予定通りの一定のペースで進むのが肝心なんだぜ」

「ビール!」

「千円」

 また万札を出すと男はもうおつりもよこして来やがらない。まあいいさ。飲めるだけ飲め。飲めるだけ飲もう!

「いちおー言っとくけど」

 いつの間にか私が大岩の上で横になっていると、男が生真面目に空き缶をひとつひとつぺったんこに潰しながら言った。

「もうすぐ日が暮れるし、そのままそこで寝てたら確実に死ぬからね。歩いて下山できる?」

「無理ッス……」

「まあそうだろうなぁ」

 男は潰した空き缶を全部ザックの底に仕舞って、すっかりぺったんこになってしまったザックを腹側に装着する。

「30万円」

「……」

「それで担いで降りてやるよ。じぶんの命の値段だ、安いモンだろ?別に自分で勝手にレスキュー呼んでくれてもいいけどさ。まあ怒られるだろうね」

「それってクレジットカードは使えるのか?」

「使えないから後で振り込みでいいよ。ホラ、名刺ぐらい持ってンだろそれ寄越せ」

「はい」

 男に上着でくるんで背負われて、ホッホッホッホッと山を降りる。男は自分のザックも私の荷物も全部一緒に担いでいるのに、ちっともペースが乱れる気配もない。

「すまんな。重いだろう」

「ビール全部すっからかんになっちゃったからな。まあ差引きでちょいプラスぐらいのもん。こんぐらいヨユーよ」

 夢うつつの半覚醒の状態で、日も傾いてきた薄闇の中をホッホッホッホと揺すられていると、不思議な安心感があって私の心にはもう怒りも悲しみもなにもない。目を覚ますと7合目の宿泊施設で、財布には現金はほとんど一円もなく、代わりに搬送料━金三十万円也 という振込先の書いたメモが挟まれている。私はクレジットカードで宿泊代を清算し、ケーブルカーで山を降りてその日のうちに30万円を振り込んだ。ずいぶんと高くついた自分探しの旅になってしまったが、妙な満足感があってなぜか心は晴れ晴れと冴えわたっていた。あの男、小宮山隆三という名前だったのか。

 ぐるぐると渦巻く怒りと悲しみをすっかり失って心にポッカリ穴の開いた私は、何かに追い回されるような焦燥感のついでに意地でも這い上がってやるぞという熱い向上心もなくなって、以前のように朝から晩まであくせく仕事に打ち込むこともなくなる。無理せず自分にできることをやる。私が必死になって決死の決意で至った山頂も、例の男、小宮山隆三にとっては鼻歌まじりに小走りで駆け回る散歩道でしかないのだ。人にはそれぞれ適性というものがある。自分が必死になって頑張るよりも、向いてそうな部下にポーンと案件を投げてやれば意外とすんなり進行したりする。そうすると、私の仕事はほとんど座って進行する物事を見ているだけになる。なにしろ見ているだけだから、こうすればいいのになとか、ああすればいいのにな、というのが色々と見えてくるようになる。自分があまりあれこれと口出しされるのが好きなタイプではないから、なるべく相手の癇に障ることのないように、控えめにそこはこうしてみたらどうかな、と提案する。帰宅時間も以前に比べればだいぶと早くなり、私は42型液晶テレビも30リットルのヘルシオもダイソンのサイクロン掃除機も、窓にカーテンすらもない部屋で、なにをするでもなくゆっくりとする。以前よりも、ただ静かに考える時間が増えた。

 ただただデスクに座り物事が進行していく様を眺めるだけの一日が終わり、社屋を出たところで「お~い! ブチョー!」と声を掛けられそちらに目を向けてみれば、なんと例の男、小宮山隆三が山で出会ったときそのままの格好で、バカみたいに大きなザックを背負って立っていた。ブンブンと大きく手を振っている。

「君か。こんな場所で会うとは思わなんだ。いったい何事だね?」

 私が驚き駆け寄ってみると、小宮山は満面の笑顔で「いや~失業したついでに住むところも無くなっちゃってさ」と、とんでもないことをサラリと言ってのける。

「なんだと! 一大事ではないか!大丈夫なのか?」

「いや、わりとこういうことはよくあるし、そんなシリアスになられても逆にこっちも気が引けるんだけど」

 聞けば小宮山はあの山にある観測小屋に住み込んで、なにやら公的な資金で行われている地質や気象や植生などのデータを取る仕事をしていたらしい。しかし行政側の唐突で一方的な通達で突然失業してしまったというではないか。なんとも無体な話だ。

「そんでまぁ山を降りて市内までは出てきたんだけど、特になにか当てがあるわけでもなく、さてどうするかなーと思ってたんだけど、そういやブチョーがこのへんだったなって思ってさ。いや、俺のことじゃなくてさ。俺が心配してたんだよブチョーのことを。えらい荒れてたし」

「いや、先だっては随分と迷惑を掛けたし恥ずかしいところを見せてしまったな。しかし、アレに関しては迷惑料も振り込んだのだし、それで万事水に流すってことでひとつ忘れてやってくれないか」

 私がそう言うと小宮山は、へ?っと驚いた顔をする。

「振り込んだの? 30万?」

「ええ!? 振り込んだとも、翌日には」

 わははははーと、こんどは腹を抱えて爆発的に笑い出す。一体なんだというのだ。お前が言い出したことではないか。

「いやー傑作傑作。マジで振り込んでるとは思わなかった。いや、いくら俺が唆したこととはいえ、やっぱ山の上のことじゃん?命に関わることだし。なんとかなるなるなんて思われても困るから釘刺すつもりでちょっと脅かしてやろうって思っただけだったんだけど。やっぱブチョーほんと真面目なんだな。さすがシチサンだよ。クソ真面目」

「お前やっぱりわざと唆していたのか!」

 それにこの髪型はシチサンじゃない。

「そりゃわざとさ。商売だし。まあでも俺だって馬鹿じゃないんだから、マジで人が死ぬようなふざけ方はしないって。ブチョーぐらいの大きさなら何かあっても最悪俺が抱えて下りりゃ済む話だなーっていう冷静な計算の下だよ。ブチョーがもっとすんげぇ巨漢とかだったら流石に俺もどうしようもないし適当なところで殴ってでも止めてたって。つか、俺ちょっとコンビニ行ってもいい?」

 近くのコンビニのATMで残高を確認しホクホク顔で出てきた小宮山は「よし、ブチョー! 飲みに行こう! 俺が奢るから!」などと言っている。

「奢るもなにも、それは私の金だろう」

「もう俺の金だ」

 ともあれスーツ姿の私と、今まさに山から下りてきたばかりという出で立ちの小宮山という変な取り合わせで、適当に近くの居酒屋に入る。大手チェーンではなく大将と女将さんが二人でやっているような小さなお店の、奥の座敷に上がる。小宮山の下ろしたザックがボンッ! というとんでもなく重量感のある音を立てた。

「随分と重そうだが、そんなもの背負ってよく平然と歩き回れるな」

「高地に適応しているからね。下界だと歩いている限りは息が切れるなんてことはまずないし、無限に歩けるよ。全力で走ったりするとさすがに疲れるけど」

「いったい何が入っているんだそれ」

「俺の家財道具一式ぜんぶ」

「それで全部?」

「山の上にそんな色々持って上がれないしな」

「山の上にずっと住んでいるのか?実家とかそういうのは」

「実家から逃げたくて山の上に行ったんだよ。要するに家出。仕事に衣食住と全部ついてるし、体力がありゃまあだいたいは重宝してもらえるしな。それに、母親とかが追いかけてこようにも、山の上なら普通に走って逃げれば絶対に誰も俺には追いつけないからさ」

「なるほど、色々あるのだな」

「済んだ話さ。それに、もう古い話だ。今は好きで山の上に居るだけ。クビになっちゃったけど」

 とりあえずの生中で「ハイハイおつかれ~!」と乾杯する。ものの3秒でジョッキが空になる。

「相変わらずいい飲みっぷりしてんなブチョー」

「君のほうこそ」

 枝豆が出てきたタイミングで追っ付け二杯目のビールを注文する。

「いやー、なにがすごいって飲み終わったら片づけなくていいっていうのがすごいよな。俺これ今日は飲んで食って金だけ払えば後は帰るだけでいいんだよな」

「山の上では自分でやらない限り誰もやってくれないものな」

「ブチョーの飲み散らかした分は俺が片づけたけどな」

「意外と引っ張るな君も」

「ビール遅いな」

「大将と女将さんふたりでやってるっぽいからな。まあのんびりやるさ」

 と私は言うのだが、小宮山は我慢がきかない様子で女将さんが二杯目のビールを持ってくると「もう次のビールも用意しといて、たぶんそれまでに飲み終わるから」などと言っている。

「ほら、ブチョー飲んで飲んで! 早くしないと次のビールが来ちゃう!」

「君が急かせたんだろうが」

 急いでビールを飲み干すが、そんなに慌てなくても三杯目のビールに全然間に合ってしまう。

「女将さん、これもうちょっと大きいのないの?」

「へぇ大ジョッキにしますかねぇ?」

 なんてやりとりがあって、結局大ジョッキで無限リレーを繰り返すことになる。

「ああ、うまい! 下界のメシまじでうまい! 大将コレまじでうまいよ! いい腕してるね!」

「そりゃただ豆腐に生姜乗せただけだよお!」

「山の上には豆腐も生姜もありゃしねぇよ! すげぇよマジで!」

「大将ビール! おかわり!」

 私がジョッキを掲げると、大将は「もうビールも切れちまったよぉ!」などと言ってくる。

「いやいや、そんな。居酒屋でビール切らすとかそんなことはないだろう」

「俺だってこんなこたぁ生まれて初めてだよぉ!」

「大将! 他になんか飲むものあるの?」

「焼酎ならあるけんどよお!」

 焼酎か、じゃあもうボトルでいっとくか、という話になって焼酎のボトルを一本入れる。

「大将! 刺身盛りもういっちょちょうだい!」

「もう魚は全部アンタらが食っちまってなんもねえよぉ!」

「え~~? じゃあ串は?」

「とっくにねえって言ったろうよぉ!」

「大将! なんだったらあんの?」

「漬けもんがちっとと、あとはだし巻きが一個作れるかってもんだよぉ!」

「じゃあそれちょうだい!」

「大将! 氷ちょうだい!」

「氷もねぇよお!」

「氷ないって。どうする?」

「別にいらないんじゃないか?そもそも私はたかだか焼酎を飲むだけのことに氷だの水だのしゃらくさいと前々から思っていたのだ」

「それもそうだな。別にいらねぇか」

 最終的に大将にもう帰ってくれよぉ!と懇願されて、仕方なしに私たちは席を立つ。

「頼むから今度から店に来るときは前日までに電話いれてけぇよお!」

 明日はもう店開けらんねぇよお!と嘆く大将に「うまかったよ!」「ごちそうさま!」とにこやかに声を掛けて私たちはもつれながら店を出る。

「食った食った。ブチョーの命の値段が半分くらい消し飛んだぞ」

「それで君はこれからどうするのだ」

「どうってこともないけど。どっかで適当に泊まって、明日は職安に行く。失業保険もらえるはずだから。あ、でも住所ねえや」

「住所もないのか」

「ない」

 まずは住むところをどうにかしないとなーと唸る小宮山に、私はよかったらしばらく私の部屋に住んではどうかと持ち掛ける。

「いやいや、いくらなんでもそこまでブチョーの世話にはなれねぇよ」

「いや、実は私も先日まで二人で部屋をシェアしていたのだが、今は一人になってしまっていてな。どっちみち部屋はひとつ空いているのだ。半額とは言わないがいくらかでも家賃を入れてくれるなら私も助かるしな」

 まあ夜逃げした婚約者は住んでいた時でさえ家賃を入れてくれたことなど一度もないし、夜逃げをする前は半年間アメリカに行きっぱなしだったので一緒に住んでいた期間もほとんどなかったのだが。そういうことならばと小宮山も折れ、タクシーを拾い二人で私の部屋に向かう。外観を見て「ひょーすげー立派なところに住んでんだなブチョー」と驚いた声を出した小宮山だったが、部屋に一歩入るなり「意外とシンプルな生活してるんだな」と静かになる。

「いや、これには少々のやむにやまれぬ事情というものがあってだな」

「いいんじゃねえの?俺は気に入ったよ」

 あんまり物がありすぎんのもよくねーよなー、と言いながら小宮山はザックを下ろす。

「でも、さすがにカーテンぐらいは引いたほうがいいんじゃないか?向かいから部屋ン中まで丸見えでしょコレ。ゆっくり眠れなくない?」

「うん、買いに行こうとは思っているのだが、この生活にも変に慣れてしまってな。なんかいいかなみたいな気分になっていたところだ」

「いいもんがあるぜ」

 そう言って小宮山がザックから取り出したのは、小さく丸めたビニールみたいなもので、「いいか、よく見てろよ」と、それをポイと投げると地面で跳ねてボンッと広がって一人用のテントになる。

「おお、最近はアウトドアグッズも色々と便利なものがあるのだな」

「ホイポイカプセルみたいだろ?」

「ホイポイ?」

「あ、分かんないならいいや」

 小宮山は寝袋を出してテントの中に入れていそいそと眠る準備を始めている。

「それ、ちょっと私が入ってみてもいいか」

「うん? まあ別にいいけど」

 テントの中に入ってみる。本当に人が一人横になるともうそれで一杯になるぐらいの大きさだ。中で寝袋を広げたりするのにもなかなか大変である。

「寝袋に入ってみてもいい?」

「いいよ」

 マミー型の寝袋にすっぽりと入ってみると、私はそのままスーッと眠りに落ちてしまう。泥のような眠りではなく、深い深い水の底にゆっくりと沈んでいくような、そんな静かな深い眠りだ。遥か遠く水面の上から小宮山の「あれ、ブチョーもう寝ちゃった?」という声がかすかに聞こえる。「まあ、いいけど。じゃあベッド借りるよ」

 夢も見なかった。

 次に目を覚ましたのは午前十時も過ぎたころで、まるまる八時間以上もグッスリ眠っていたことになる。一人きりの空間での安心できる睡眠とはこんなにも上質なものだったのだなと、カーテンを失って以来じつに数カ月ぶりに痛感する。やはりカーテンは買おう。そして当然、余裕の余裕で会社には大遅刻であり、携帯には着信履歴がズラっと並んでいる。アチャーっと全身の毛が逆立つが、どうにも立ち上がれそうな気配もない。仕方なく今さらながら会社に電話を入れ、今のいままで眠っていた、大変申し訳ないが身動きするのも辛いので出社できそうにない、今日は休ませてほしいと連絡を入れる。嘘は一言も言っていないが、問題はそれが完全に自業自得の飲み過ぎなだけというところである。全然大丈夫ですよ部長、会社のことは僕らに任せてゆっくり休んでくださいと、最近とみに力をつけてきた若い部下に温かい言葉を頂いてしまう。恥ずかしいやら情けないやら。

「生まれて初めてズル休みをしてしまった」

「いや、どんだけ清廉潔白の人生を歩んできたんだよブチョー」と、とっくに起きていたらしい小宮山がコーヒー片手に突っ込んでくる。

「別に大丈夫なんじゃないの? ブチョーいままでずっと頑張ってきたんでしょ。そろそろここいらで休んでおきなっていう神様の思し召しかなんかでしょ」

 いや、完全に自分の意思でガブガブ飲んだだけであるが。神様も突然のキラーパスにびっくりであろう。

「ほら、いつまでもグダグダしててももったいないぜ。風呂に入って外に出よう。二日酔いなんか歩いて汗かけばあっという間に飛んでくぜ」

 平日の真昼間から会社をズル休みして小宮山と街に出る。汗出せ汗、と小宮山が言うので市役所までの道のりを歩いて行く。小宮山の住所変更と失業保険の手続きに付き合って、小宮山には私の部屋のカーテン探しに付き合ってもらう。のんびりと歩いてみると、長く住んだこの街も、これはこれでなかなか見どころがあるではないかと思えてくる。

「さーて、これで失業保険が下りるまでしばらくは有り金で過ごさないとだから、節約生活だな。外食もしてらんないし自炊しよう。今日は俺が飯を作ってやるよ」

 なにか食べたいものはあるかという小宮山に特にないと答えると、案の定というか、メニューは定番のカレーに決まった。

「ブチョーはあんまり自炊とかしないのな。台所見れば分かるよ。生活感ないもんな」

「まあ、以前は仕事が忙しかったからなぁ。そばかうどんばかり食べていた気がする」

「そんなんじゃパワー出ないっしょ。リューゾーカレーはめちゃ元気出るぜ。元気100倍だぜ」

 隆三の作ったリューゾーカレーにはなんか黒いブツが大量に浮いていて、焦がしたのかと思ったら焦げじゃなくてひじきだった。これが意外とめっちゃうまい。

「めっちゃうまい……」

「だろ?」

 と一瞬ドヤ顔を決めた隆三だったけど、私がスプーンをくわえたままボロボロボロボロ涙を流しているのを見てさすがに狼狽しはじめる。

「おいおいなんだよ。そんなにそこまで感動的にうまかったのか? 味王さまか?」

「分かんない……」

 ボロボロ涙を流しながら黙々とカレーを食べる私に隆三は最初なだめたり話しかけたりと色々としていたけれども、そのうち放っておくことに決めたらしく、皿を洗ってザックからくちゃくちゃの汚い文庫本を取り出して読みはじめる。

「おいおい、せっかくカーテン買ったんだから自分のベッドで寝ろよ」

「嫌だ! 私がこっちで寝る!」

 と、隆三のテントに立てこもって、また寝袋で深い深い眠りにおちる。

 そんな感じの同居生活が始まって二週間もしないうちに隆三はとっとと新しい住み込みの仕事を見つけてくる。

「こんどはまた別の山の上なんだけど、まあ内容は似たような感じ」

 などとケロっとした顔で言ってくるから、私は「それはここから通うわけにはいかないのか」とか「もう家族から逃げているわけでもないのに山の上にこだわることもないのではないか」とか、あの手この手であれこれと食って掛かる。

「いや、山の上まで三時間以上かかるから通いとかマジで無理だし、それに今はもう山が好きで山の上に居るんだって、ブチョーだって知ってることでしょ」

 と、そもそもなんで食って掛かられているのか訳の分からない隆三は、困惑顔でそう説明する。だいたい食って掛かっている私にだって、なんで食って掛かっているんだかよく分からないのだから、それが隆三に分かる道理もない。

 頭の中がぐちゃぐちゃになってきてまたボロボロと涙を流しはじめた私に、隆三は仕方がなさそうな顔で

「また、ここに帰ってこようか?」

 っていうから、私は「うん」と、頷く。きっと、寂しがっていると思われたのだろう。

 そんな感じで隆三はまた山の上に戻り、たまにふらりと下りてきたりして、しばらくはそんな生活を続けていたのだけれど、あるときたまたま引き受けた、色んな山の頂上に風速計を設置して回るという仕事の時に、行政から支給されたアメリカ製の風速計のあまりの精度の悪さ腹を立て、こんなもの設置してもクソの役には立ちはしないぞ俺が全部バランス取りなおしてやるから金をよこせと行政に食ってかかり、なぜかそれが通り(実際に取れたデータが芳しくなかったのだろう)、風速計をバラバラに分解しては内側を削ったり鉛のバラストを入れたりベアリングを交換したりして、ちゃんと機能するように改造するという仕事をたった一人で二千個ぶん繰り返して半年間をほぼ引きこもりで過ごす羽目になり、その上追加でさらに二千個の発注が来た時点でキレ、これはもう既製品を改造するよりもイチから開発したほうが早いと風速計を製造する会社を設立し、設計開発製造までを軌道に乗せるために休みなく全国を飛び回り、それが国内の風速計シェアの9割以上を獲得することになったりしてますますどんどん多忙になり、そのうえ結婚したり子供ができたりもしたものだから、さすがに山からもだんだん遠ざかって、近頃ではたまの休みに近くの山に登りに行くぐらいになっている。昔はバキバキに引き締まっていた身体にも横っ腹のお肉がつきはじめていて、順調に中年のおじさんになってきている。それでもまあ、私にとっては世界で一番かっこいい旦那なのだ。

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