La legatura d'amore ふたりの楽譜帳
汐凪 霖 (しおなぎ ながめ)
第1話 集一と結架 ソナタ第37番イ長調K.402(385e)第二楽章
豊潤な、薫り高いフーガ。
身をよじりそうなほどの悦楽に結架は浸る。
柔らかく、豊かな声量のオーボエ。
短く刻むスタッカートの思いやり深さは、優しい残響をそっと切り離す。絶妙な舌づかいが齎す小刻みな美音が、つづけて放たれる短いヴィブラートに引き継がれた。
あの夜の新鮮な興奮が甦り、
あの夜。
カヴァルリ家の晩餐後に奏でたモーツァルト。
艶やかで、チャーミングなソナタ。思わせぶりな旋律に明るく寄り添うピアノ。
苦患と呻吟を完全に乗り越えた夜。
無邪気な秘密を睦言に語るかのような、愛らしい響きの掛け合い。
閃くペダル。圧倒するシークエンス。
疾走する想いに追いつく優雅さ。
「結架?」
「どうしたんだい」
少し心配げな調子の声に、結架は微笑んだ。
彼は未だに、結架がピアノを弾くとき、彼女を案じる。
つらい過去に囚われないか。悲しい思いに封じられないか。
「大丈夫よ。あなたの音に痺れてしまったの」
集一が破顔一笑する。
「そんなことを言われたら、調子にのってしまうよ」
近寄って、唇を求める。
その優しくも熱のこもった触れあいに、ふたりの心は震えた。
「いまの演奏、すごく良かった」
「そうね。総てがあるべきところに落ちついて、とても快感だったわ」
くすり、と集一は笑う。
「そんなことを、ゆうべ言ってくれていたら、もっと嬉しいのに」
結架は目を見開き、息をのんだ。その頬が、みるみるうちに紅潮する。
「きみを吹くときのほうが、唇が痺れるんだよ」
「集一ったら! マルガリータに感化されたの?」
焦る結架の動揺した表情があまりにも初々しいので、彼は右手で彼女を抱き寄せた。
「そうかな? たしかに昨日、電話の向こうから、もっと強引になれって焚きつけられたけど」
「仕方のないひとね」
首筋に結架のため息が直撃し、集一の腕にこめられた力が強まった。
「それで? どうだったんだい、ゆうべの僕らは」
甘い蜜をそっと垂らすかのような囁きに、結架は恥ずかしげに顔を伏せる。
「……ったわ」
「うん?」
濃い薔薇色に染まった結架の顔がまっすぐに集一のほうを向いて、みどりを帯びた茶色の瞳が潤んでいるのが見えた。
「すてきだったわ」
満足げな集一の顔を、結架は悩ましげに見上げる。
「今夜も欲しいかい」
「いらないなんて言わせないでしょう?」
恥ずかしげでいながらも、きちんと応える結架の素直さに、集一は小さな声で笑う。その吐息のくすぐったさに、彼女は背筋が快く引き攣るのを感じた。
「想像もしなかったわ。あなたが、こういう話題を好むなんて」
白いこめかみに唇をあて、集一が言った。
「僕は、いつまでも天使ではいられないよ」
「あら、いまでも天使よ!」
熱心な結架の声。
「天使だって、きっと人を愛することがあると思うの」
彼女らしい思考回路だ。
集一は笑ってしまった。
楽しげな笑い声に、結架は大まじめに言った。
「だって、
「……そうだね」
笑いをおさめ、再び集一は結架の顔に咲く花弁を求めた。優しさは彼女のために、情熱は自分のために。そして、その甘さを味わう。
「愛してるよ、結架」
事実を確認するように、彼が言う。
「愛してるわ、集一」
真実を確定するために、彼女は言った。
そして、彼の胸に、彼女の腕に、ふたりは溺れた。
La legatura d'amore ふたりの楽譜帳 汐凪 霖 (しおなぎ ながめ) @Akiko-Albinoni
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