第4話 天使はいつでも美しい

 15分ほどして、扉が開いた。緊張を解いたラウラの、申し訳なさそうな表情があらわれる。

「遅くなって、ごめんなさい、シューイチ。もう大丈夫よ」

「ええ。構いませんよ、ラウラ先生。でも、ちゃんと納得できる説明がほしい」

 彼女は困惑をこめ、同情を求める瞳で彼を見下ろした。

「私からは話せないわ、シューイチ。本当に申し訳ないのだけど、ユイカから説明できないことは、教えられないの。わかるでしょう、信頼関係の問題よ。それに話せるとしても、もう時間がないの。すぐに教授とユイカに追いつかなければ」

 集一は肩をすくめた。はじめから期待はしていなかったが、やはり、あしらわれることになるのは愉快ではない。

 彼の様子を素早く見てとって、ラウラは小さくため息をもらした。

「わかったわ、シューイチ。ユイカと彼女の肉親は、死者たちに支配されているのよ。彼らの残した厳しい規則に縛られているの。朝、目覚めてから、夜、眠るまで、ずっと。いえ、ことによると眠りの中でも」

 集一は耳を疑った。

「僕を子どもだと思っていますね」

「ちがうわ。ユイカは本気で、死者からの罰を恐れている。目に見えないからこそ、あんなに怯えているの。私も最初は信じなかった。でも、彼女にとっては現実なの。実際に幽霊がいるなんて、私は思っていない。彼らはユイカたちの心の中にいるのよ。

 ──ああ、あなたのことは、シュヴァンベルガー先生に聞いたわ。調べるのを止めはしないけど、もう関わろうとはしないで。でないと、あの子を精神病院におしこめることになる」

 詳細を語らず、ただ大きな爆弾を落とすラウラに、集一は苛立った。

「あなたこそ、精神科医が必要に見えますよ、ラウラ先生。混乱しきっていらっしゃる」

「そうね。あの子たちと一緒に暮していれば、みんな多かれ少なかれ、混乱するわ。ひとりずつなら、なんとかなる。でも、ふたりともとなると、大変だわ。

 ユイカは、私と教授が無事でいられるよう、毎朝毎晩、祈っているの。日課と呼ぶには、あまりに真剣で熱がこもってる。あなたとの、あのレッスンを始めてからは、これまでの倍以上も時間をかけているわ。きっと、あなたの無事も祈っているのね」

 集一は答えに困った。

「あの子は中世に生きているのよ。迷信と信仰が、科学と敵対して戦っていたころの、複雑な精神でいるの」

 彼の反応をラウラは待たなかった。

「レッスンは終わりよ。本当は、もっとつづけたかったけれど、これ以上は危険だから。ユイカのことは心配しないで。あなたは、あなたの心配をするべきなのよ。それからユイカに逢おうとしてはだめよ。彼女の祈りを無駄にしないでちょうだい」

 そうしてラウラは集一に彼の楽器のケースを渡すと、有無を言わさず部屋から追い出した。

「あいつのせいで、この声は堕ちてしまった」

「なんですって?」

 ラウラが ぎょっとした。しかし、集一には答えようもない。深刻な表情のまま、無言でいる。ラウラは、やりすごすことにしたらしい。腰に手を当てて、

「とにかく、いいわね。ユイカのことは、そっとしておいて」

 彼は腹を立てたが、どうにもならなかった。それから、あのレッスン室は鍵がかけられ、開いていたことはない。いつでも、厳重に閉ざされていた。

 集一はラウラが理解していたように、結架のことを調べた。インターネットが現在ほど発達していなかった、あのころ。調べるのには限界がある。

 彼女は日本人で、指揮者の父とピアニストの母のもとに生まれた。両親は火事で亡くなっている。

 孤児となった結架を母親の妹夫婦がひきとったが、交通事故で彼らも亡くなった。

 結局、調べられたのは、そうした大きな情報だけだった。なぜ、彼女が限定的な人生を送っているのか、彼女を支配しているという死者が、どの死者なのか、肝心なことは、なにも解らなかった。それでは意味がない。

 それにしても、確かに大勢が亡くなっている。

 両親と、叔母夫婦。それから、彼女が生まれる直前に、祖母が自殺しているらしい。続けざまの親族の死が、なんらかの不吉な暗示を彼女にもたらしたのだろうか。

 集一は、何度かスカルパ教授に結架のことを尋ねた。

 だが、教授は、あの厳めしい表情を崩さず、いつも同じ言葉で答えた。

「天使はいつだって美しいのだ、シュー。きみの目に見えない、いまも」

「では、元気でいるのですね」

 それには、教授は頷くだけだった。

 最後に尋ねたとき、教授は銀縁の眼鏡をはずし、灰色の瞳を集一だけに向けた。

「……彼女に逢いたいかね、シュー?」

 集一は即答する。

「ええ」

 まっすぐに、教授に視線を返す。

「ええ、もちろん」

「あんな別れかたが気になるのかね?」

「それもありますが、ただ無事を確認したいんです。僕が危険だと仰いましたが、それと等しく彼女も危険ではないかと思えて、しかたないんです」

 教授は、まばたきとともに返事を探した。

「彼女は慣れている。それとどう接すればいいかも誰より知っている。心配することはない」

「自分の心が見せる、恐ろしい幻に?」

 ラウラの言ったことが本当なら、彼女を苦しめているのは、彼女自身である。そう集一は結論づけていた。自分と関わるものは皆、死ぬか不幸になるという、愚かだが、心優しい思いこみ。

「ラウラが、なんと言ったのか知らないが」

 教授は眼鏡をかけなおした。

「彼女が見ているのは幻ではないのだ。気の毒なほどに、現実だ。私は死者の爪から逃れるだろう。彼女の才能には私が必要であるし、もともと私の人生は終焉が近い。だが、きみは違う。若く、美しく、才能も豊かだ」

 はじめて褒められたというのに集一の眉が歪むのを、教授は咎めなかった。

 レッスンのときには見せたことのない柔和な目つきだ。

「いいかね? いまのきみでは、だめだ。自分の力だけで、人生を進んでいけるようになりなさい。そのときに、まだ彼女に逢いたいと望むなら、ラウラに力を貸すよう、託けておこう。まあ、ラウラが死者からの信頼を失っていなければの話だが」

 集一は、これ以上のものを教授からは与えられないことを悟り、決心した。もともと、彼は他者に頼ることは避けてきた。レールを飛び出すからには、自分の推進力を信じなければ、立ち行かない。

「それには及びません。自分の力で、彼女に逢います」

 スカルパ教授は、それを聞くと表情を変えた。晴れやかな、満面の笑みだった。

「期待しているよ、シュー。天使を救う騎士など、誰にでもなれるものではない。だが、きみなら大丈夫だろう」

 何年もたって、さまざまな経験と出会いが、このときの記憶を霞ませていた日々もある。夢に反対する父との闘い、音楽への心酔、才能ある人々との交流。そうしたなかで、魅力的な女性との出会いもあった。しかし、すべてにおいて、結架に匹敵するような女性はいなかった。失望が愛を冷めさせ、色褪せさせる。その力は、彼自身にもどうにもならずに、結果、彼は結架を完全には忘れられなかった。忘れたと思っても、なにかの拍子に甦る。思いだせば必ず彼女の幸せを祈った。祈らずにいられなかった。

 自分の力だけで人生を進んでいけるようになったとき、彼女に逢いたいと望むなら、とスカルパ教授は言った。

 音楽の道で、それができるようになれば、彼女と同等の価値をもてる。そのときこそ、彼女の前に立てるだろう。

 自分が天使を救えるだけの力をもっているとは思えなかった彼は、遠ざかる結架の記憶になすすべもなかったが、ようやく会おうと思えるほどになった。

   歓びとともに、いまこそ きみに逢おう

   かぎりなく愛しき きみに

   この胸の奥は満ち足りて

 集一の愛の変遷には、いつでも結架の面影があったのだから。

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愛の変遷 Il Ceppi 汐凪 霖 (しおなぎ ながめ) @Akiko-Albinoni

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