第3話 囚われの天使

「どうしたんだ⁉」

 しかし、彼女は応えない。

「ラウラ先生!」

 隣の部屋で本を読んでいた女性が立ち上がる。彼女は、すべて承知しているかのように落ち着きはらい、頷いた。

 結架は呆気にとられている集一を抱きしめ、さらに彼を驚かせた。彼女は、すべすべした集一の頬に一瞬だけ、しかし心をこめた口づけをすると、囁いた。

「安心して。絶対に、あなたを守るわ」

「なにから?」

 反射的に、そう訊いた。

 結架は口を開いたが、そこから彼の質問の答えは出てこなかった。もう一度、彼を抱きしめると、彼女は急ぎ足で部屋から出て行った。追いかけようとする集一の肩をラウラと呼ばれた女性がつかむ。

「いらっしゃい、シューイチ。あの子のためを思うなら、何も訊かず、黙ってついていらっしゃい。あの子を守りたいと、もしも思うなら」

「わかりました。でも、説明してください。あとで」

「時間があればね」

 ラウラは冷静だが、急いでもいた。抽斗を開けて、楽譜の束を出す。それから学生用の机の上にあるレポート用紙をちらりと見た。それは一週間前に集一が教授に提出した課題と似ていたが、提出者の氏名が違っている。ラウラの視線を追っていた集一は眉をひそめた。

 すると、かすかに足音が聞こえた。

 ラウラが、はっと顔を上げる。

「間に合わないわね」

 小さく呟き、彼女は集一の腕をとって部屋を横ぎると、灯りを消したままの、壁の扉の向こうに彼をおしこんだ。

「静かに。出てこないで。いいわね」

 その様子が、あまりにも切迫していたので、彼は頷いた。

 扉が閉められる。うす暗がりに取り残された。

 そこは、化粧室だった。

 混乱する頭の中で、集一は事態について理解しようと、考えを巡らす。

 このレッスンは、いつも誰かから隠れて行われているようだった。不定期に教授が集一を呼んだときだけに許されていた。誰かが、結架を支配している何者かが、ふたりのレッスンを有益に思っていないために阻害しようとしている。それは、教授であっても、どうにもできないほどの力。

 彼は、はっと思いだした。

 初めてのレッスンのとき、スカルパ教授が一度だけ口にした。

 ──大丈夫、ケンなら邪魔はしない。

 ケン。それが、支配者の名前だろうか。例によって教授の口にする名前は、本当かどうか確実ではない。しかし、何故か日本人の名前の場合は本名に近いようだから、その者が結架の親族であるなら、ケンというのも、本名と似た響きだろう。

 となれば、それは男性だろうか。

 ケンイチ、ケンジ、ケンゾウ、ケンタ、ケンスケ……。

 男性名なら思いつくだけでも、これだけある。しかし、女性名でケンがつくのは、すぐには考えつかない。

 集一は扉に横顔をあて、耳を澄ませた。声は聞こえる。しかし、あまりにも早口の くぐもった英語で、このときの集一の語学力では聴解しきれなかった。

 ときどき、ユイカという単語は聞きとれたので、話題になっているのが彼女だということは解ったが、その内容は把握できなかった。

 ただ、ドイツ語で叫ばれた声は聴きとれた。

「あいつのせいだ! この声が堕ちたのは!」

 興奮した、かすれ声。

「あいつのせいで、この声は堕ちてしまった!」

 しかし、会話は再び英語に戻ったようで、ところどころを聴きとるだけで全体は理解できなくなってしまった。

 やがて、声はやみ、扉が開く音がした。

 そして静かになった。

 集一はポケットから懐中時計を出して扉の隙間からさしこむ光で時間を確認し、ラウラが出てきてもいいというまで待ちながら、結架のことを思った。彼女は大丈夫だろうか。あれほどまでに萎縮し、怯え、震えていた彼女。

 おそらく、秘密のレッスンのことが支配者に露見しそうになったのだろう。支配者は、ことによると集一の将来を潰せるほどの力を持つのかもしれない。そして結架の僅かな自由も すべて奪えるのかもしれない。

 彼女は音楽院の生徒ではないと言った。それでも教授が連れてくるのは、ここの教材や楽器が目的かもしれないが、集一とのレッスンのような機会をもうけるのも、そのひとつなのだろう。彼は、あらゆる音楽家同士の交流は互いに感性を高めあう素晴らしいものだと、講義で述べたことがあるのだ。

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