第2話 有益にして幸いなるレッスン

 教授は、あれから時折、集一を呼ぶ。オーボエのレッスンの後や特別講義のクラスが終わると、彼を手招きするのだ。そして天使のレッスンに同席させ、ふたりに歌うよう命じる。ヴィヴァルディ、ヘンデル、バッハ、それからモンテヴェルディとスカルラッティらの歌曲を。ときには伴奏を自らがつとめることもあった。

「楽器を奏でるものが歌うことを完璧にできたなら、もっと自由に楽器を歌わせることができる。とくに、きみたちは美しい声を賜ったのだから、訓練するのに労を惜しむべきではない」

 教授は、もっともらしく告げたが、彼が ふたりの歌を単純に楽しんでいることは察しがついた。集一の技量には不満があっただろうが、声は大変に気に入ったらしく、いままでよりも、オーボエのレッスンに同席するようにすらなった。集一への関心が高まったのだろう。

 集一が天使の本当の名前を知ったのは、五回目に二重唱をした日だ。

 その日、スカルパ教授は持ってくるべき楽譜を間違えたと言って席を外した。ふたりは、なんとなく黙っていた。

 やがて、天使が愛らしい声を発した。

「シュー。そう呼んでも、よいのかしら」

 控えめな日本語に、彼は、どきりとする。

「どうぞ。本名は違うけれど」

 すると、彼女は悲しげな表情をした。

「ごめんなさい。本名は教えないで。失礼を承知でお願いするけれど、それが、あなたの安全のためなの。教授は、生徒の本当の名前を覚えることが殆どないから、わたしはこうして、あなたに会える。あなたが本当はマシューでもジュードでも、翔太さんでも、わたしは驚かないわ」

 集一は首を傾げた。

「こうして一緒にレッスンするのが、危険だとでもいうようだね」

「そうよ。危険だわ。わたしがこのレッスンを楽しみにしているから、なおさらに」

 天使の表情は真面目そのものだったが、内容は非現実的だった。いったい、何が危険だというのだろう。音楽院は彼女を秘密の存在にしているとでもいうのか。

「スカルパ教授は、このレッスンが、わたしたちには有益だと信じているけれど、そうではないと感じる存在もあるの。わたしは、その指示に逆らえないから……」

 集一は不快げに顔をしかめた。横暴な自身の父を思いだす。しかし、声はおどけた調子で発された。

「まるで、神さまだ」

「ええ。ある意味では、神さま以上よ」

 天使が強ばるのを、彼は感じた。

「それなら、どうしてレッスンを受け入れるんだい?」

 彼女は、薔薇色の頬を更に赤らめた。

「それは……さっきも言ったように、わたしがレッスンを楽しみにしているから」

「それって、悪いことだろうか」

「いいえ。でも、好ましくないわ。わたしは、たくさんのひとを不幸にしたから」

 謎めいた会話だった。

 集一は、性格上、本来はこうした謎かけのような会話を嫌う。しかし、このときは不快感をもたなかった。

「僕も不幸にしてしまうとでも?」

「不幸にしたくないの。絶対に」

 初めて強い語調で告げ、彼女はまっすぐに彼を見つめた。真に迫った、そして真摯なまなざしだった。

 集一は微笑む。

「よくわからないけど、このレッスンを秘密にしたいことは、理解できるよ。最初の日に、教授にも言われたんだ。他言無用だって。僕としては、天使とレッスンしていることを自慢したいくらいだけどね」

 彼女の頬が、これ以上ないほど紅潮した。

「天使なんて……私はちがうわ……」

「ほかに、どう呼べばいいか知らないんだ。教授がきみをユイカと呼ぶのも、本名かどうか怪しい。それに、きみは天使に見えるよ」

「……あなたこそ」

 小さな声に言われ、集一は声をたてて笑った。快活に、屈託なく。彼女が真剣に言ったと解ったからこそ、彼には おかしかった。

「僕が? まさか。そう言うのは、きっと、きみだけさ。そんなことを、もし僕を知っているひとが聞いたら、さぞ、驚くだろうね。僕は学校も脱走するし、父親に背いて留学するし、品行方正とは真逆の人間だから」

 大きな目を、さらに見開いて、彼女が言葉を切る。しかし、そこには、どうやら憧れが発生した。

「お父さまに逆らっていらしたの?」

 集一は、内心で狼狽した。そんなことを喋るつもりは なかったのだ。こんなに自分を さらけだすなんて、信じられない。警戒心を根こそぎ取りはらわれている。注意をはらうべきだと考えるよりも早くに。

「シュー。あなたは幸せね。背くという選択肢をもてるのは、それほど普通ではないわ」

 しかし、その言葉に、彼は少し気を悪くした。

「背いて、それが認められればね」

「背くことも認められないより恵まれているわ。違って?」

 そうかもしれない。

 ただ、彼は、それを肯定するには幼すぎた。

 いまではわかる。彼女が、誰のことを話しているのか。どういう状態でいたのか。胸が痛むほどに。

「ユイカ、きみは背けないの? それとも背かないの?」

 苛立ちを完全には隠せない。それが、このころの集一の率直さであっても、彼は後悔とともに思い出した。もっと優しい言葉は、いくらでも あったはずなのに。

 天使は青ざめた。

「背けば、周囲が不幸に満ちるの。シュー、お願い。もう、わたしをユイカと呼ばないで」

 その尋常ではない顔色に、集一は驚き、固まった。

 まさか、と思う。

「ユイカなの? 本当の名前がユイカなんだね」

 彼女は、ぎゅっと目をつぶり、全身で震えながら大きく息を放つ。

 スカルパ教授が本名を正確に覚えるとは。

 だが、その栄誉を彼女が喜んでいないことは明らかだった。

「……そうよ。わたしは、折橋結架おりはしゆいかというの。教授にチェンバロを師事しているわ。でも、音楽院の学生ではないの。教授がとりはからってくださって、自由に音楽院に出入りさせていただけているのだけれど、正式な生徒ではなくて、彼の個人的な弟子なのよ」

 蒼白な顔をしたまま、彼女は説明した。そして懇願した。

「シュー。わたしのこと、誰にも何も話さないでくださる? それが、危険を避ける方法だと信じてくださるかしら? わたし、本当に、あなたが心配なのよ。だから本当の名前も、あなたに知ってもらったの。いつでも、わたしを避けることができるように」

「理由も聞かずに、言うとおりにできないよ」

「わたしは自分で友人を選べないの。選べば、その友人を傷つけてしまう。もう、何人も、ひどい目に遭わせたわ。もう二度と、あんな思いはしたくない。お願い。わたしから、安心して、あなたとレツィ──レッスンする喜びを保証する唯一の方法を取りあげないで」

 あまりの言葉だったが、彼女は本気であり、その決意は固いようだった。

 べつの誰かに支配されている者に特有の怯え。

 集一は父親の支配を拒み、自由を得た。しかし、結架はそれが出来ずにいる。彼は、自分のように結架も解放されるべきだと思った。

「きみが自由になるために、僕は協力できる。そんなふうに怖れなくてもよくなる」

 すると、彼女はよろめいた。

「だめ! シュー、わたしから、わたし自身を剥ぎとるようなものよ。それは、絶対に、だめ! あなたの」

 そこで、扉が開いた。

 困惑の表情をしたスカルパ教授だった。

「シュー、困ったことになった」

 その一言だけを告げ、彼は結架にイタリア語で何かを伝える。彼女の顔は蒼白から、さらに灰色になった。

 無言のまま、彼女は早足でチェンバロから離れ、集一のそばまで来ると彼の手を取り、部屋を飛び出した。

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