人魚の嘘
坂水
短編
「人魚を見たことがあるんだ」
砂見は、杏露酒を頼んだはずが飲んでみたらブランデーだった、といった風情で岩城を見た。
琥珀色に澱んだ空気、雑多な匂いが混じった紫煙、お疲れ様ですの常套句と共に突き出される茶色い瓶口――典型的な会社の飲み会。あるいは、一カ月近く遅れた新年会。
そんな中で持ち出すにふさわしい話題ではない。岩城とてそれは理解していた。
だから、こっそりひっそり小さな声で。上司の歌声、先輩の説教、同僚の猥談に紛れ、ホクロで飾られた
だが彼女はしっかりとキャッチしてくれたようだった。柔らかそうな髪を耳にかけ、右隣に座っている岩城に突き出すように訊いてくる。
「うそ。それ、いつの話?」
「ガキの頃。実家の目の前にある海で」
「岩城君、こっちの人じゃないんだ」
砂見は驚いたような声を上げる。
「ああ、うん。H県出身。こっちの大学通ってそのまま就職したから」
「そうなんだ。全然知らなかった」
杏露酒が入った丸っこいグラスを両手で包むように持ち、微かに笑む。酒が入っているせいか、蛍光灯に晒されたオフィスでのそれよりも、何倍も艶っぽく感じられた。
岩城と砂見は、中堅広告代理店・営業部の三年目同期だった。だが、岩城は秋採用で入社したため、実際は砂見のほうが半年先輩だ。研修期間が微妙にずれており、課も違うため、今まで親密に会話する機会はなかった。
出身、住所、学校、趣味、好きなタレント……ここぞとばかり基本的な質問のラリーを続ける。まだ一次会だったが、もうすぐ二時間は経つ。皆、いい具合に出来上がっていて、誰も二人の会話に気を留めてない。
――奇跡の空白、だな。
岩城は話しながら、自身の置かれている状況を客観的に眺めた。たまたま会費制の飲み会に出席して、たまたま隣に砂見が座って、たまたま誰からもお呼びがかからず、たまたま追加オーダーの催促もかからない。
「じゃあ、岩城君もお魚とか、さばけるの?」
それは、父親が漁師だったと答えた直後の問いだった。
「いや、そういうことを教えてもらう前に、死んだから。海で」
たちまち、砂見の面に暗雲が垂れ込める。
「ごめんなさい」
「あ、いや。全然。こっちこそごめん」
岩城は慌てて、謝罪に謝罪を返した。
「おれはそういう体育会系が嫌だったから、文系な職に就いたわけ。逆にあのままだったら『跡継げ!』って迫られたんじゃないかって、ゾッとするよ」
――ほら。おれに漁師なんて似合わないっしょ、勿体ないっしょ。
――たしかにそうかも。ちょっとみ、モデルみたいだしね、岩城君。
――あ、それゆっちゃうー?
――なにそれ、自分で言わせたくせにー。
弾むジョーク。弾ける笑顔。爪弾かれる笑い声。岩城の気遣いを察して、砂見は上手い具合に冗談の波に乗ってくれた。悪くない。岩城は思う。
しばらく取り留めない会話を続けた後、砂見が呟いた。
「でも、どうして?」
どれにかかった『どうして』だろうか。
思考を巡らせながら、広告代理店ご一行様に被せられていた目には見えねど確かに存在したシートが捲り上がり、停滞していた空気が揺らぐのを感じる。シートの中、さらに隔絶されていた二人の世界に、喧騒が染み込んできた。それは少し、潮が満ちてくるさまに似ていた。
そろそろお開きだろう。もっとも、この場合の『お開き』は『二次会に移動します、とっとと準備してね』という意味に他ならないが。
砂見は岩城を見上げていた。いわゆる上目遣い。
「似てたから」
岩城は皿の上、残った料理をさらえながら答えた。質問の焦点は、都合の良いように合わせる。
「その人魚に、似てたんだ。砂見さん」
乾きかけの刺身を醤油に浸し、なんとなく不謹慎かなと思つつも、口に運びながら。
*
水族館へ行って、ショッピングして、食事に夜景。
飲み会の二週間後、二人はデートをしていた。お決まりのコース。だが、岩城は満足していた。青くくすんだ照明の中、空をたゆたうように泳ぐ魚にまみれた彼女は見飽きなかった。もう一枚欲しいと思っていた冬物のジャケットも買えたし、食事は値段のわりに味も雰囲気もそこそこだったし、夜景は、まあいつも通りに美しい。
だから、ここまで性急でなくても良かったのに。
緩やかに波打ち広がる髪。白く浮かび上がる肌。もがくように絡みつく手足。
昨日、交換したばかりのベッドカバーに溺れているのは、彼女。つい、と引き上げてやろうと思ったら、逆に引きずり込まれた。柔らかく、あたたかく、どこまでも深く、赤黒い粘液の海に。
『畳の波に人魚の半身』。ふと、そんなフレーズが浮かぶ。
確か泉鏡花の短編だったと思う。タイトルもストーリーも忘れてしまったが、その一文だけは、やたらエロティックで覚えていた。砂に描いた落書き、奇跡的にそこだけが波にさらわれなかったように。
さしずめ、『ベットの波に人魚の半身』か。
明かりを消した部屋、流入する透明な暗い水。当然ではあるが、漂う彼女のなめらかな背にも、のびやかな足にも、ひれは見当たらない。だが、彼女の身体に没頭している間中、かつて四六時中、耳にしていた波の音が響いている気がしてならなかった。潮の匂いすら漂ってくる。
黒とも青ともつかぬ海の色。白い波濤。真冬の波間。遥か彼方、ありえないはずの影。
あの日、見たものを、自分はきっと生涯忘れられまい。
ひたひた、ひたひた、打ち寄せる波。
いつの間に、自分は追いつかれてしまったのだろう?
こんなに遠くまで逃げてきたというのに。
眠りに浸食されるおぼろな意識の中、岩城はひとり自問した。
入社丸二年でプレゼンターを任される、というのは中々の有望株らしい。
「岩城のプレゼンって、堂に入ってるよなあ」
「そうすか?」
「なんか淡々としてて、イマドキの若者っちゅーか、落ち着きがあるっちゅーか」
「微妙に矛盾してません?」
「いいんだよ、岩城節なんだよ、それが」
自分のあずかり知らぬところで、名ばかりが横行している。それも広告屋の醍醐味なのか、あるいは
「ま、あんだけ気に入ってくれたら、アチラさんもコンペやるなんて言い出さんだろ。これで今期も目標達成、三課に差をつけられるぜ」
上司は心底美味そうに、ぷは、と煙を吐き出す。あまり品は良くないが、どことなく部下を安心させる仕草で岩城は好きだった。
プレゼンを終えての帰社。岩城と上司の田上は喫煙室でささやかな開放感に浸っていた。
広告営業部では、四半期ごとに、最も目標数字達成率が高かった課にインセンティブが支給される。岩城が所属する二課と三課はいつも競り合っており、加えて上司は三課課長の森とは犬猿の仲だった。
「あー、でもお前、企画書一カ所ミスってたろ。四月じゃなくて五月だっての。ちゃんと見直せよなー」
「それ、おれですか? 田上課長の役目でしょ」
軽く言い返すと、ブォーと低い振動音が響いた。背広の内ポケットから携帯電話を取り出した田上の表情が、見る間に歪む。
「くっそ、黒川の馬鹿社長からのお呼びだ。岩城、今田建設のパンフは任せた。夕方には色校くるからチェック頼むぞ」
足早に喫煙室を出て行く田上に、おつかれしたー、と声をかける。
一人になった岩城はビルが林立する都会の空を見上げた。見本にしたいぐらいの冬晴れに、反射的に目をすがめる。その大海のように単一な青を眺めなら、もう一本煙草を吸って、岩城はデスクに戻った。
広告営業部のフロアには、部長、副部長席の他に、四つの島がある。それぞれ一課、二課、三課、四課となっており、岩城の席は二課、島の角を陣取っていた。その背後にはコピー機が置いてあり、うつむき加減で操作する砂見の姿もあった。
砂見の背中。服の上からでもわかる、美しい逆二等辺三角形。服の下には、すぅーっと一筆書きしたような危うい直線が隠れているのを知っている。それを辿れば、どんなに切ない声を奏でるかも。
昼と夜の顔。そのコントラストをもう少し観察していたかったが、岩城は視線を引き剥がし、デスクに着いた。社内恋愛は別れてからがツライ。後々を考えると、迂闊な行動は取れなかった。
だがその思惑とは裏腹に、背中はびりびりと痛いぐらいに反応していた。全神経が背中に集合をかけられたように、砂見が身動きするたびに、粟立ち、波立ち、荒立つ。
しばらくしてコピー機の騒々しい音が止んで。
「……―――――!」
ひらり。それは尾びれでなぜられた、感触。
砂見が自分の席に戻るには、岩城の背後を通り過ぎなければならない。その瞬間、彼女が岩城の首筋に指を走らせたに違いなかった。
ひらり、ゆらり。
デスクの間を縫って歩く彼女を視線で追う。
どうして今まで気に留めなかったんだろう。無防備に、ひそやかに、あやしく、揺れて、かすめる、彼女のひれに。
口元を押さえた手が熱い。いや、熱いのは頭だろうか。
知ってしまえば、もう知らなかった頃には戻れない。岩城はなんとはなしに途方に暮れた。
藍色の水底にも似た1LDK、まどろみながら、夢ともうつつともとれぬ会話が紡がれる。
「ねえ。前に言ってた人魚の話」
「……うん?」
「本当に、私に、似ていた?」
「似てたよ。どっちも」
「どっちも? 二匹もいたの?」
「……うん」
「うん?」
「……うん」
「もお。実は、全部、ウソなんじゃない?」
「どうして」
「なんとなく。できすぎてると思って」
「……うん、嘘かも。砂見と話すキッカケが欲しかっただけだよ」
――罪のない嘘だろう?
そう囁いて、岩城はざぶりと砂見にもぐる。
一見、
寄せては返す甘やかな波、引いては満ちる生温い潮、纏わり揺らぐ濡れそぼったひれ。
ひらり、ゆらり。頬を撫でるようにかすめゆくのは、髪か、尾ひれか、泡沫か。
波の音はまだまだ続く。
「なんで確認せずに納品したんだ!」
ざわついていたフロアが、凪のごとく静まり返った。
「なんのために仕事をやると思ってるんだよ。やるだけ無駄じゃねぇか。何ヘラヘラしてる。そういうのすっげえ失礼だぞ、胸クソ悪ぃ」
再発防止のためには、ミスの原因究明は大切だ。
納品前に確認できなかったのは、校了直前にクライアントの都合で大幅なレイアウト変更が発生し、入稿が半日ズレ込み、納品日に間に合わせるために印刷屋から直接クライアントへ発送したから。さらに付け加えれば、リーフレットの紙質を間違えたのは彼女ではなく印刷屋であり、クライアントに頭を下げたら、あとは印刷屋に厳重注意、刷り直しの交渉をすれば済む話だった。
にもかかわらず、森は砂見をえんえん三十分以上も叱り続けていた。何かにかこつけて、必要以上に説教したがる輩がいるが、森はまさにそういうタイプだ。そして運の悪いことに砂見は三課、奴の部下だった。
「砂見」
ようやく解放された砂見が駆け込んだ給湯室に、時差を見計らって、さり気なく入り込む。
彼女は冷蔵庫の白くのっぺりした
荒れ狂う海、やっとで岩礁に縋り付いた、あまりに憐れなその姿。だが迂闊に手を差し伸べるのは、こちらにとっても危険だ。引きずり込まれてしまう可能性があるかもしれない――だけど。
「見ないで。今、ひどい顔してるから」
「砂見」
「…………」
「職場で泣くな。周りの迷惑になる」
「――――」
その小さな肩が強張るのが見て取れる。
「泣くなら、夜にしろ」
マンションのスペアキーを、しっとり湿り気を帯びた手のひらに押し込める。
そして、呆気にとられた彼女を、ほんの一瞬、抱きしめた。
「会社行くの、やだな」
「辞めたら、会える時間が減るよ」
「岩城君が上司なら良かったのに」
詮無き呟きは、こぽり、天井まで浮き上がっては弾けて消えた。
身じろぎして背を向けた砂見に腕を巻き付け、後ろから絡め取るように抱きしめる。行為後、横たわった砂見は
肩甲骨と肩甲骨の間の窪みに顔を埋めると、いやがおうでも彼女の匂いが頭の芯にまで浸透し、しびれるような陶酔感に襲われる。そのまま岩城は、背に唇を寄せて、囁くように尋ねた。
「砂見はなんでうちの会社に入ったんだ?」
「ええ?」
「女子で、広告で、営業って、しんどいじゃん?」
「しんどいなんて知らなかったし」
「じゃあ、どうして続けてる?」
「別に」
「別にって」
「広告ギョーカイって響きが良いし。そこで良い人見つけられたらな、とか」
「なんだよ、それ……」
こぽこぽと苦笑の気泡が浮かぶ。腕に力を込めると、こぽり、砂見も吐息一つこぼした。
見上げる水面は遥か彼方。陽光が揺らめき、風が吹き、大気が満ちた、美しい世界。
だが彼女も知らぬわけでもあるまい。海の上で人間を見初めた人魚が、しまいには泡になってしまったことを。
波の音に紛れて、すすり泣いているのは誰だろう。
浅い眠りにたゆたいながら、でもどうしても身体が動かない。
砂見だろうか、それとも母だろうか。おそらく両方。
襖を隔てた向こう側。くぐもった、押し殺した声。泣かないで――そう言えば、何か変わったろうか。だけど翌朝、自分を起こす声音は初め優しく最後は厳しく、朝食の味も品数も相変わらず。ひょっとして自分は勘違いしているのではないか、そう訝るほど完璧な日常で。
悩むぐらいなら訊けば良かったのかもしれない。でも波立たせたくない、濡れるのはまっぴらごめん、そんな気持ちがあったのも否定できない。
――結局、アイツと同じ、事なかれ主義。
背中を丸めて眠る砂見も、明日になれば、笑うのだろうか。昨日のことなど無かったフリをして。
入社丸二年で、こんな凡ミスをしでかしたのは初めてだった。
「何やってんだー、岩城」
怒る、というより呆れた口調の田上に頭を下げる。
「すいません」
「まあ、それでも切り抜けたんだから、ある意味スゴイけどさ」
プレゼンを終えての帰社。岩城と田上は喫煙室で徒労感に浸っていた。
プレゼン用に作成したスライドショーのデータが入ったUSBメモリを間違えてしまった。企画書は別にプリントアウトしていたので、なんとかかんとか説明はできたが、恐らく今日のコンペは勝てない。その場の感触でなんとなくわかるものだ。勝つ時はわからないのに、負ける時は百パーセントの確率で当たる。
「でも今回のはデカかったからなー。インセンティブ危うし、だな」
煙草に火を点けたものの、田上はなかなか口に持っていかない。灰と化してゆく先端から紫煙が立ち昇る。光の中、真っ直ぐと、弔いのように。
岩城は黙ってもう一度、頭を下げた。
「珍しい、岩城君がミスなんて」
喫煙室から戻る途中、この一カ月間でよく耳に馴染んだ声に呼び止められた。手洗いにでも行っていたのだろうか。振り向くと、ニットのアンサンブルにスカートといった、オーソドックスなOLスタイルの砂見がいた。
「聞いてたの? 格好わりーな」
「私は、なんだか安心したけど」
――岩城君でも間違えることあるんだなって。
岩城の渋面に、砂見は控えめな微笑みを返してくる。嘲るような仕草では、全く無い。なんとはなしぼぉっと頭に血が昇り、それから目をそらすようにして、岩城はコホンと小さく咳をした。
「昼飯は? まだなら外行かないか?」
「あ、ごめん。N社の校正ファックス待ちなの。今日、校了日だから」
「N社って森課長のクライアントだろ。そんなことまでやらされてんの?」
部下が上司の仕事を手伝わされるのは当然のことだが、はたから見ても、砂見に投げ出される仕事は積載量をオーバーしていた。そんなつもりはなかったが、なじるような口調になっていたかもしれない。砂見がのぞかせた痛々しい表情に、一瞬、彼女に向かって暴言を吐いたのではと錯覚させられる。
「ほんとにね。私は私の仕事あるから、いやなんだけどね」
砂見はわずかに目を伏せた。
上司と部下の関係性は、外からとやかく言えることではない。成績が悪ければともかく、三課はきちんと目標数字を達成しているのだ。砂見の恋人であろうが、父親であろうが、軽々しく口を挟める領分ではなかった。
でも。三年弱、さらされた理不尽、不条理、くやし涙――喘ぎ続けた水槽の中。
世間では、不況、派遣切り、就職難、内定取り消しと騒がしいが、今の彼女にどうして言える? うっすら目の下に隈をつくって、自嘲気味に笑う彼女に。
ようやくポツンと落とした呟きさえ、砂に染み込む速さで消えてしまうから。
気付けば、岩城はとっさに手を出していた。砂に落ちる寸前、受け止めるために。
「おれは、砂見一人ぐらい、抱えられるよ」
――砂見、体重軽そうじゃん。
その台詞の意図がどこまで通じたのか、という以前にどこまでの意図を込めていたのか。自分自身わからなかったけれど、少なくとも嘘ではなかった。
それでもいいと思う。悪くないと思う。アリだと思う。
一瞬、彼女は黙り込み、
「岩城君は、いいね」
どこか寂しげに笑う。いいね――それは肯定にも否定にも、皮肉にも賞賛にもとれる、どっちつかずの言葉。
ゆらり、ひらり。砂見のひれが、揺らめいた気がした。
……もしもし。ああ、うん。元気。いや、大丈夫。
命日?――ごめん、無理っぽい。
正月はイベントがあったって言ったろ。
――ああ、わかってる。ごめん。来年は必ず。
うん。寒いから気をつけて。
あとあすこ、足元滑りやすいから。うん。じゃ。
父親が死んで二十年弱。実家にいた頃は、毎年、墓参りをしていたが、ここ数年すっかり足が遠のいていた。母は毎年どころか月命日も欠かさず通っているのだろう。熱心に、静かに、粛々と。
延々と連なる苔むした石段、浜を見下ろす小さな墓苑、細くたなびく線香の煙。
冷たく硬い墓石に向かい、長々と手合わせ――一人分にはいささか長過ぎるほど――、微動だにしない彼女。その隣で、置いてきぼりをくらったような、そもそもこれは本当に母なのか、途中で他人と――あるいは人外の何かと、入れ替わってしまったのではないか。そんな心細い気持ちで立ち尽くしていたことを鮮明に覚えている。
つまるところ、岩城は墓参りが大嫌いだった。
……波の音がする。どうしてだろう。今夜、砂見は来ていないのに。
ああ、そうか。数時間前に受け取った電話のせいだ。遠い母の声の背後では、途切れることなく波が打ち寄せていた。帰ってこいと言わんばかりに。
帰ってこい、帰ってこい、帰ってこい――
帰ってこい? 無理に決まっているだろう。
あの海にはあんなにも恐ろしい……がいるのだから。
白い日傘の下、赤い唇がぬるり蠢く。潮風になびく長い髪。
その女を最初に見たのは夏だった。砂浜に描いた怪獣の尾を踏んだハイヒール。顔を上げると、見知らぬ女は覗き込むように問うてきた。
――岩城さんのうちはあそこ?
頷く。
――あのうちの子?
頷く。
――おうちの人、いる?
母はいるが、父は出掛けている。
でも、そんなことは頷きだけでは説明しきれない。どう言えば良いのだろう、とっさわからず硬直する。だが、女は自分の頭を二、三度なぜると、ひらり、ゆらりと日傘を揺らし、優雅な足取りで歩いて行ってしまった。自分の返事も待たずに。
……もう帰っただろうか。それともまだいるのだろうか?
玄関前の塀から家の中をこっそり窺う。見知らぬ者が入り込んだは我が家は、いまや自分のテリトリーではなかった。見慣れた青いトタン屋根を見上げ、溜息をつく。じぶんちの前にいるのに、迷子になってしまうだなんて。
喉が渇いた、もう帰りたい。でもどこへ?
と。むっくりと大きな影が被さってきた。振り仰げば、そこには待ちかねた姿があった。
大きな手が、少し乱暴に頭をなでる。先ほどの女のそれとは違い、現実感のある重み。その感触に、安堵が広がり、別の意味で泣きたくなった。
説明しなくては。自分がなぜ外に突っ立っているのか、家の中には何がいるのか。そう気が急くが、一方で人見知りする自分を、情けないと叱責するのではないかと不安も湧いてくる。
そんな葛藤は、はたから見れば、小さな子どもがぐずっているようにしか見えなかっただろう。
ふいに、手がとられた。
――おとうさん?
呼びかけるが、父は返答をしない。進み出した足は家とは正反対へ向かっている。
どこへ行くの? 家に入らないの? おかあさんは……?
問い質したいことは、たくさんあった。だけど――
振り返った家、ガラス戸の向こう。ひらり、ゆらり、不気味な影が泳いでいたような気がして。
父の節くれだった手を握り返すフリをして、縋り付いた。
女子の真価が発揮されるのは夜ではない。朝だ。社会人になって数年、常々そう思う。
「おはよう、岩城君」
きちっとゆるやかにセットされた髪、隙のないナチュラルメイク、微塵も眠気を感じさせない爽やかな笑み。夕べは遅かったはすなのに、砂見はあらゆる矛盾を完璧に体現せしめていた。
「……よ」
軽く手を上げ、一応の挨拶を交わす。
会社が入っているビルの一階、エレベーターを待つ砂見と会ったのは偶然だった。並んで階数を示す電光板を見上げる。今さっき行ったばかりなのか、二、三、四と順々に光ってゆく。
「昨日、残業だったんだよな?」
「結局、終電になっちゃった。岩城君は直帰だったのに、なんだか眠そうね」
五階でしばらくの間くすぶって、六、七、八――そこで折り返して、七、六、五、四……
と。そこまで数えたところで、砂見が顔を覗き込んできた。
「どうしたの?」
不思議そうに小首を傾げる。だが、嫌がってはいない。その反応に、安堵が広がり、別の意味で泣きたくなった。
「ちょっと、寒かったから」
「私、カイロ代わり?」
さぐるようにして繋いだ手を、彼女はぶらんこを揺するように振ってみせる。
暖房も無いエレベーターホールは確かに寒い。そうしておいてもよかった。だけれども岩城はあっさり白状した。
「ちょっと、夢見が悪かったんだ」
チン。エレベーターが開く。中には誰もおらず、砂見は岩城を先導するように先に入り込んだ。絡めた指はそのまま、釣り上げるみたいにして。
「寒いから、はやく!」
「ちょっ、」
ビルのエントランスドアが開き、人がやってくる気配したが、砂見は頓着せずに乗り込むやいなや『閉』ボタンを押した。見る間に両側から鉄の壁が押し出され、プツンと外界を遮断する。
砂見はどこか面白がるような表情をしていて、岩城もなんだか笑ってしまった。顔を見合わせてひとしきり笑った後、そろって奥に背をもたれかけさせ、ふー、と息を吐く。
冷気を閉め出した空間で、二人の吐息が混ざり合い、また呼吸される。息苦しいような、くすぐったいような。頭のてっぺんまでとぷんと温かな水に浸かってしまったような。それとも身体中をゆるりとした溶液で満たされてしまったような。
こんなこと、他の誰か――例えば上司とか――と連れ立っているときは絶対に考えやしないのに。砂見といる時の自分はおかしい。おかしくなる。
岩城は首に巻いていたマフラーを、口元ぎりぎりまで引き上げた。
「岩城君、今夜は時間ありそう?」
「今日はおれが残業になるかも。M県の『わくわく食育フェスタ』の企画書、提出締め切りが明日の十七時でさ。午後からはN市で打ち合わせがあるから、朝イチで持って出ないと」
「『わく食』も大詰めか。じゃあ今日も無理っぽいね」
あっけらかんとした声音は、わずかな湿り気を帯びていたような気がした。
チン。電光板が八階を示す。エレベーターの扉が開き、小さな箱に外界が接続された。
砂見の小さな、柔らかな手。水を掻き分け、こまやかな愛撫をほどこし、ふいにイタズラを仕掛けてくる、それ。
このまま、この手を離さなかったら――
離さないことだってできるはずだった。物理的にはそう難しくはない。ただ少し指に力を込めれば良い。
だが、するり、指はすり抜ける。どちらの意志かはわからない、でもおそらく双方の合意が働いた。それはいともはかない感触で……
「夜、電話する」
「え?」
「時間あったら、メシ食いに行こう」
そう告げて、岩城は半歩先を歩く砂見を追い抜いた。
プリンタの低い唸り、ファックスの受信音、トントン煙草の灰を空き缶に落とす音だけが響く、午後十時。
ふいに静寂――雑味はあったが――が破られた。
「まあ、こんなもんだろ」
「そっすねー」
赤のチェックが入った企画書を田上から受け取る。ざっと確認するが大幅な直しは無いようだ。岩城は、パソコンに向かい、ただちに修正を始めた。
「あー、腹減ったな」
「なんか買ってきましょうか?」
「んー? いいわ。家で食うし。ちょっとオレ便所行ってくる」
そう田上が席を立ってから、岩城は椅子の背をそらせて大きく伸びをした。
本日、残業しているのは岩城と田上のみ。経費削減のため、照明は二課の上しか点いておらず、フロア全体は暗い。広告屋なんだから辛気臭いことするなよ、と内心苦々しく思いつつも、それはこのご時勢、口に出せやしなかった。
いや違う。苛立ちの原因はそこではない。
岩城は忌々しく認めた。この薄青い暗さは、実家に似ている。父親が海に消えてからの家に。仏具の鈍い輝き、畳の毛羽立ち、いくら拭っても落ちぬ染み。
窓の外には、玩具の宝石箱を撒き散らしたようなキラキラしい夜景が広がっている。だが、ガラス窓一枚で閉鎖された水槽には、かつて味わい浸み込まされた空気が充満していた。呼吸を厭うほどの、重苦しさ。
両目を閉じて、眉間をゆっくりと揉む。
静寂に、波の音が満ちてくる。深く、重く、終わりの無い旋律……
と。携帯電話の着信音が鳴り響き、現実に引き戻された。
『――もし、もし? 今、大丈夫?』
「悪い、砂見。電話すんの忘れてた」
『もうー! ってしょうがないよ、仕事だもん。それより、どう、終わりそう?』
「あと修正して、プリントアウトして、製本して、」
『軽く三十分以上はかかりそうだね。今日はやめとこうか?』
「悪い。待たせてたのに」
『いいよ、無理しないで。じゃあ、また明日。頑張ってね』
砂見に、もう一言、何か伝えたいような気がした。だが、う~さみさみ、とぼやきながら戻ってきた上司の手前、切らざるを得ない。どのみち、何を伝えたいのか良くわからない。
岩城は諦めて作業に戻った。
今年は暖冬だというが、さすがに深夜は冷える。就寝時間にはまだまだ遠いイルミネーションが、白くこごった吐息に曇った。
「あー、うん。着くのは十一時半過ぎになると思う。よろしく」
駅までの帰り途、携帯電話に向かって話しかけていた上司の横顔は、どこか緩んだものだった。
「奥さんですか?」
「おお。今夜はおでんだと」
田上は新婚半年。無類の愛妻家として社内でも評判だ。ことあるごとにツーショットの携帯待ち受け画面を見せられるため、掃除のおばちゃんを含め八階フロアには、彼の細君の顔を知らない者はいない。
「『ナベやん』ですか、いいっすね」
「おー。『ナベやん』は独りじゃさすがに侘しいからな。お前もはやく結婚しろって」
「はあ」
「お前、彼女いるんだろー、イケメンだもんなあ」
「田上さんは、」
こんな時間でも交通量は多い。ガードレールを隔てヘッドライトの河がぐんぐん流れてゆくのを見送りつつ、口を開く。
「どうして、結婚したんですか?」
「あー?」
「長い間、付き合っていたんですよね。 その、踏み切ったキッカケというか……どのへんで相手を理解できたと思ったんですか?」
そんなことを訊いたのは、あまりに田上が自然に幸福そうに見えたから。あと、ある程度の信頼があったからもしれない。
田上は目を見開き、両眉が髪の生え際につくのではないかというぐらい上げてみせた。
「自慢じゃないが、オレは嫁さんのことなんて全然理解できてないぞ」
「そうなんすか?」
「いやだって、お前。チラシを隅々までチェックして一円でも安い玉子を求めて郊外まで行くのに、なんで一本五千円もするシャンプーを買うか、理解できるか?」
――で、オレがうっかりそのシャンプー使っちゃうと、すげえ怒られるんだぞ。田上は呻く。
「じゃ、なんでまた?」
「まー、出会った時から結婚したいと思ってたからな。ここまでズレ込んだのは、単にオレの意気地の問題だ」
出会った時から。その言葉に思わず田上を凝視すると、上司は少々バツが悪そうに鼻の頭をこすった。少年のような、でもどう見ても中年に差し掛かった男のその仕草。
「お前さー、その彼女に早く言ったほうがいいぞ」
「は?」
「お前がオレに仕事以外のこと訊くなんて、よっぽどだろ」
反射的に浮かんだのは、あの夜の飲み会だった。琥珀色に澱んだ水槽の中、ゆらーり、ひらり、ある一点を見つめながらゆるゆると沈みゆく彼女……
それから二人は駅まで無言だった。
「田上さん、会社の鍵、貸してもらえますか?」
たくさんの、でも無個性なスーツ姿が行き交う駅構内、改札の前で岩城は申し出た。
「あー?」
「定期の入った財布、置いてきちゃったみたいで」
「なんだ、金、貸してやろうか?」
「いえ。終電まで余裕あるんで、取りに行きます」
岩城はカードキーを受け取ると、今来た道を引き返した。
終電時刻が迫っているせいか、駅に向かう人はみな足早で、泳ぐように迷いがない。その流れに逆らうようにして進む。
歩くうちに、なんとはなしに思い出したのは少年時代の祭りだった。花火も出店も終わり、家路を急ぐ魚影たち。まだ帰りたくなくて、諦めきれなくて、逃げるように、ひとり、
いや、アスファルトを照らしているのは、ただの街灯だ。今夜、月は出ていない。
岩城は我に返って歩みを止めた。当然ながら、白々しい明かりに浮き上がった影法師もその場に蹲る。その横をタクシーが高波を滑るように走り去った。
結局、どこまでいっても影は付き纏う。
いつまでもいつまでも。どこまでもどこまでも。こんなに遠くまで逃げてきたというのに――
急に寒々として、岩城はぶるりと肩を揺すってコートの前を掻き合わせる。踏み出した靴音がやたら高らかに鳴り響いている気がして、わずかに力を緩めた。
会社のビルが見えてきたところで、携帯電話を取り出す。耳に当てたプラスチックの冷たさに、ゾクリと背筋が震える。呼び出し音を聞きながら、留守電に切り替わってしまうんじゃないか――そう危惧した頃、相手はようやく応答した。
『岩城君。どう、終わった?』
その声はどこか遠く感じられた。でもそれは、岩城が好む、高すぎず、低すぎずの声に違いなく。
「おかげさまで」
『お疲れ様でした』
「砂見」
『うん、どうしたの』
「返事を聞こうと思って」
『返事? なんの?』
「こないだ言ったろ。砂見一人ぐらい、抱えられるって」
『え?』
戸惑う空気が電話越しに流れてくるが、岩城は一息に告げた。
「結婚しないか?」
『ええ?』
「それが一番良いと思う」
『一番って?』
「おれにとっても、砂見にとっても、周りにとっても」
『そんな、急に言われても』
「なんで?」
『なんでって、今まで考えたことないし、付き合ってまだほんの少しだし、電話でするような話じゃないし』
「いいんだ」
『いいって、』
「どうしても、今、伝えたかったんだ」
『……意味、わからない』
「おれはさ、目の前で沈みそうなやつを、放っておきたくないんだ。もう」
『岩城君?』
遠かった砂見の声が近くなる。ごく近く。二重にも聴こえるほど。
岩城は携帯電話を切って、再度、砂見に告げた。
「結婚しよう」
一斉に。フロア中が、光の波で満たされた。
二課の島、岩城の席の後ろ、コピー機に挟まれた、絨毯張りの床の上。撒き散らされた企画書の海――その中央。そこには溺れるようにへたり込み、呆然と岩城を見上げる砂見がいた。
「こういうの、昔のCMにあったよな?」
岩城は照明スイッチに伸ばしていた手を下ろしつつ、砂見に同意を求めたが、彼女はまったくの無反応だった。
「…………」
残業して作り上げたM県『わくわく食育フェスタ』の企画書。仕様書に従って八部をプリントアウトして製本して封筒に入れ、万全な状態に仕上げたそれらは、今や無残なバラバラ殺人状態になっていた。
「…………」
砂見の元まで歩み寄る――と、途中、ぐしゃりと何かを踏んづける。見やると、ナベを擬人化したキャラクター『ナベやん』が大きく印刷された、イヤになるほど見慣れたページが無造作に重ねられていた。『ナベやん』とはふざけた顔と名前だが、岩城と田上とデザイナーが、真剣に頭をひねって、しぼって、ひり出した、今回の企画提案のキモとなるマスコットキャラクターだった。
一番重要なページだけ抜いて、元通り製本、封筒に入れておく。
そのあまりに姑息で実直で地道な手法に、岩城はいっそ拍手を贈りたかった。
「…………どうして?」
たっぷり数分して。ようよう硬直が解けたのか、砂見が震える唇から小さくこぼした。彼女の顔色は憐憫の情を覚えるほどに蒼白だったが、唇だけは艶やかな
どれにかかった『どうして』だろうか。考えるまでもなく、それは決まっていた。だが質問の焦点は、都合の良いように合わせ、答える。ピロートークのように、甘く、気怠く。
「人魚の話したじゃん」
「…………」
「あれ、本当に、本当なんだ」
「え?」
「おれが人魚を見た日、親父は戻らなくなった」
明け方だった。
どうしてあんな時刻に起き出したのか、おそらく尿意を覚えてのことだろう。廊下の突き当たりのトイレ、そこから戻ってくる途中、ガラス戸を通して見た光景。
黒とも青ともつかぬ海の色。白い波濤。真冬の波間。遥か彼方、ありえないはずの影。
髪の、長い、誰かが、溺れている。
あの夏の日に見た女だ――そう、直感した。
顔がはっきり確認できたわけでもなく、あれから半年も経過しており、結びつけるのはあまりに不自然だった。浅瀬に迷い込んだ海獣を人と見間違えたのかとも疑った。
だが、それはやはり揺るぎようがない事実だったと今でも信じている。
なぜなら。
海にはもう一つ人影があった。海というより、浜辺に佇むその姿。
見間違えようがない――それは、母だった。
彼女はただ海を向いていた。女が沈みゆく海を。助けも呼ばす、騒ぎ立てることもなく、ただ静かに。それはいっそ、不気味なほどに美しい立ち姿だった。後年、岩城がどうして好きになれなかった父の墓前で手を合わせる姿にもよく似ていて――
あの日から、父は戻らない。
三日後に無人の父の船が浜辺に漂着した。
女については、誰かに助けられたとも、遺体があがったとも聞かない。
母は何も語らず、ただ、手を合わす。
「似てたから」
一連の出来事が、父に、母に、女にどう関係しているのか岩城にはわからない。わかりたくもなかった。だけど。
「その人魚に、似てたんだ。砂見」
砂見のくゆる尾びれ、背びれに最初に気付いたのは自分ではなかった。それはそうだろう、砂見のアピール先も違っていたのだから。それでも岩城が気付いてしまったのは、嗅覚、としかいいようがない。同じにおいがした。つまらない男にこだわって、真冬の海に自らを縛りつけ、沈んでいった彼女たちと。
砂見は、その気になれば南洋の暖かな海に泳ぎ出せるはずなのに、その寒々しい海に執着していた。寒々しい小芝居まで演じて。岩城が砂見に近付いたのは、かつて目の前で沈んでいった彼女たちへの贖罪であり、同時に、大人になった今ならうまくやれるはずだという自負でもあった。それこそ、真冬の海に引かれてしまった父親なんかよりずっと。もしかしたら、子どもの頃から抱いていた畏怖や恐怖を払拭したかったのかもしれない。
それでも。動機がなんであれ、沈みゆく砂見を真冬の海から救出してやりたいと思ったのは、本心だった。釣り糸を垂らせば、実際、砂見は簡単に喰い付いた。ゆらり、ひらり、その尾びれ背びれも、岩城に向かってなびかせて。なのに。
「おれのほうが、将来性あるし、妻子はなし、ルックスだって、いいでしょ?」
岩城は茫然自失の
砂見には優しくした。慰めて、抱きしめて、丁寧なセックスをした。砂見はそれらを享受しつつ、何食わぬ顔で人の鞄からUSBメモリを入れ替え、企画書の改竄にまで手を出した――他ならぬ、奴のために。
『結婚しないか?』
もし砂見がこの提案をすんなりと受け入れていたら、岩城は会社には戻らず、そのまま帰るつもりでいた。それですべて許そうと思った。一時にせよ、クソ上司なんぞに血迷った心情は理解できないが、でも許すことはきっとできる。母も、女も、砂見も、痴愚だっただけ。所詮、人魚――人あらざる化け物――なのだからしょうがないと割り切れば、そんなにも難しくない。許してやりたいと思う。繋いだ手のにじむような暖かさは本物だったから。なのに。
「なんで?」
腰を屈め、顔を寄せて問う。砂見は後退さるように身をそらす。背中がコピー機に触れる。ファックスの平坦な受信音が鳴る。重ねて問う。
「……なんで?」
砂見は引きつった顔を笑みの形にゆがめた。醜く、汚く、いびつに。そして口をわずかに動かす――大きくはない、呟きと呼んでも差し支えないほどの小さな声。だからこそ、それが強がりでも意地でもない心の奥底から浮かび上がった本音であることを証明する。
「ばっか、じゃないの」
その一言と共に。赤、青、黄、紫――色とりどりの尾びれ、背びれを揺らし、無数の人魚の群れが岩城の脇をかすめていった。〈了〉
[出典]歌行燈・高野聖/泉鏡花(新潮文庫)
売色鴨南蛮P163『畳の波に人魚の半身』
人魚の嘘 坂水 @sakamizu
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