第3話 ジュリアン
部屋に戻るなり、
「遅かったじゃない」
ジュリアンの機能をすれば避けることはたやすかった。しかし、彼は蓄積した記録から主人の感情と行動のパターン、どうすれば怒りが解けやすいかを学習している。最善の選択として敢えて綿と布の塊を肩で受けると、クッションは柔らかい音をたてて床に落ちた。
「申し訳ございませんでした」
従順に謝罪すると、跪いてクッションを拾う。彼の言葉も動作もプログラムされたものであるからには、理不尽な扱いに憤ったり傷ついたりすることはありえない。
「で――見つかったの?」
「はい、こちらに」
青い宝石の耳飾りを差し出すと、エレオノーラは両手でそれを受け取った。顔の筋肉が和らぎ、唇の端が上がって微笑みと呼ばれる表情になる。やはりこれは主人にとって大事なものだ、とジュリアンは回路にまた一つ刻んだ。
「ハイメ・アルバレス様が探してくださいました」
「そうなの。地球人はのろまだものね。遅れたのも仕方ないかしら」
ハイメの名を聞いてエレオンーラの心拍数が一瞬跳ね上がったのを、ジュリアンに搭載されたセンサーは感知した。だが、もちろんそれを指摘するような非礼は犯さず、彼は粛々と主人が化粧を落とし、楽な格好に着替えるのを手伝った。そうしながら、先ほどの一幕を報告する。主人から離れて行動したアンドロイドの義務として。
「ご自身で直接お届けしたいと仰っておられましたが、お断りしました。問題ございませんでしたでしょうか」
エレオノーラの心拍数が再び上がる。今度は一瞬ではない。体温も少し上がり、顔にも血が上って化粧を落としたというのに頬に赤みが差した。とはいえ健康に支障が出る類の症状ではないのは明らかだったので、ジュリアンはやはり何も指摘しなかった。
「本当、地球人て図々しいんだから。もちろん断って正解よ。何でそんなことを言いだしたのかしら?」
「理由については仰っておられませんでした」
ジュリアンはハイメのデータも観測していた。あの地球人も平時よりは高めの心拍数と体温をしていた。足幅も声量も常より大きく、饒舌だった。アルコールの影響もあったかもしれない。
しかし、直前の
ハイメはエレオノーラに会いたかった。
しかしハイメはそうと口にした訳ではないし、ジュリアンはデータの分析を命じられた訳ではない。主人に伝える必要のないことだった。
「そう。他には何か言ってた? 私のことは……」
重ねての問いに、ジュリアンの回路が記録を検索して静かにうなった。ハイメの言葉から、エレオノーラに関するものを抽出する。
「香り高い薔薇、美しく気まぐれな蝶、天空人の中の天空人……」
目を見開いたエレオノーラの顔に浮かんだ表情を的確に表すのはアンドロイドには難しい。人間の感情はいかなる計算式よりも複雑で、またいかなる計算式にも縛られない。それでもジュリアンに与えられたカテゴリーに当てはめようとするなら――
驚き。喜び。羞じらい。満足。優越感。劣等感。
それらの全て、それらの混合、あるいはそのどれでもない。人間の感情は複雑過ぎる。
エレオノーラのかつての取り巻き、年老いた天空人たちも似たような賛辞を述べていたが、主人はこんな反応を見せなかった。彼らの言葉とハイメの言葉のどこにどれだけの差があるのか、ジュリアンには測ることができない。
分析できない表情をしたのもつかの間のこと。エレオノーラは明確に嫌そうな、といえる顔を作ってつぶやいた。心音や体温のデータはやはり高い数値を示していたけれど。
「相変わらず陳腐なことを言うのね。まともに女の子と付き合ったこともないんでしょう。それに、私がその程度のことで喜ぶと思われているなら癪だわ」
「特段、伝えて欲しいとの仰せではありませんでしたが」
心からのお言葉ではないでしょうか、とは言わない。ハイメのデータは彼が興奮状態にあることを示していた。そのような状態の人間は、心を偽ることが難しい。
だが、主人以外であっても人間の心情を斟酌するのはアンドロイドには許されていないのだ。それに言いたくなかった。どういう訳か、ジュリアンの回路はそう導き出していた。
ゼロと一の集積でしかない彼の思考――のようなもの――に感情が生まれるとは。彼は長く稼働しすぎたのかもしれない。そのために人間に近い表現を好むようになってしまったのかもしれない。
「どうだか。お前が報告するのは分かっていたことでしょう」
依然、エレオノーラの表情は嫌悪あるいは苛立ちを示し、身体データは高揚を示していた。その齟齬にジュリアンに搭載された
「お嬢様はアルバレス様のことをどう思っていらっしゃるのですか? 愛していらっしゃるのですか? それとも嫌っている?」
エレオノーラの表情もデータの数値も、今度は間違いなく驚きのカテゴリーに分類できるものだった。そして、ジュリアンの回路の軋みも、人間の驚きという感情になぞらえることができるだろう。
彼が主人の胸の内を測ろうとしたのは今までにないことだった。しかもなぜハイメ・アルバレスの名を持ち出したのだろうか。解き明かすことができなくて、ジュリアンは自身の故障を疑った。
「愛するも何も……あの人と私は釣り合わないでしょう」
エレオノーラが眉を寄せる一因に、今や彼も含まれていた。主人に
「申し訳ございません――」
「まあ」
ジュリアンの謝罪をエレオノーラは遮り、どこか中空に視線を固定して、続ける。人間の想像力はそこにハイメの姿を見せているのかもしれなかった。
「あの人が私を――何ていうか――褒めるのは、もちろんセンスはないんだけど、嬉しい、のではないかしら。
だって、私が呼ばれてもいないパーティに顔を出すのも、以前の通りに振舞うのも、あの人に落ちぶれたところを見せたくないからだもの。私はさんざんあの人を笑ったのよ。お金がなくなったからって立場が逆転するなんて耐えられない。
私はずっとエレオノーラ・デュケ。社交界の薔薇よ。あの人に見せつけてやらなくちゃ」
語るうちに、エレオノーラの身体データは平常のものに戻り、顔には紛れもない微笑みが浮かんだ。それはハイメの変わらぬ崇拝を確認して安心したためだろう、とジュリアンは分析した。その結論に、彼の回路は――アンドロイドにとっては不可解なことだが――不快な軋みを訴えた。
エレオノーラは視線をジュリアンに戻すと、軽く睨みつけた。
「お前だから言うのよ、こんなこと。もちろん誰にも言っては駄目よ」
「心得ております、お嬢様」
お前だから、と言われてジュリアンの回路がまた軋んだ。ジュリアンだから、という解釈で記録したのだ。実際はアンドロイドだから、という意味なのだろうが。軋みはエラーの検出を抑えるのに演算装置をごまかした結果だった。
「私はいつでもお嬢様のことを第一に考えております」
回路の軋みはジュリアンに余計なこと――言うまでもないことを言わせた。アンドロイドらしからぬ発言にエレオノーラは首を傾げる。
「わざわざそんなことを言うなんて珍しい。お前、今日はちょっと変なんじゃない? もう休んだら? お前が壊れたら困るもの」
ジュリアンは女主人の発言を正当なものとして処理した。確かに今夜は回路の軋みを感じる回数が多い。それになぜか喋りすぎる。ハイメに対しても余計なことを言ってしまった。
エレオノーラが彼の訪問を望まないであろうことは事実だが、もっと穏当な伝え方があったはずだ。あの地球人が礼節を弁えていることは過去の記録からも明らかだ。既に着替えをすませていらっしゃるので、とでも言えば引き下がっただろう。
人間に忠実なアンドロイドとはいえ、円滑なコミュニケーションのためのささやか嘘、あるいは潤色や脚色は許されている。
今夜に限ってそれができなかったのは――人間が言うところの疲労のようなものが彼の回路を鈍らせているのかもしれない。
「はい、ありがとうございます、お嬢様。お嬢様がお休みになった後に、メンテナンスを実行いたします。ずっとお嬢様のお傍に控え、お嬢様にお仕えするために」
そう長々と答えると、エレオノーラはやっぱりお前おかしいわ、と言って声を立てて笑った。ジュリアンが彼女を笑わせた。その認識はジュリアンの回路を今度は甘く軋ませた。
エレオノーラが寝息を立て始めたのを確認すると、ジュリアンはベッドに似せた意匠の台に横たわった。そして、幾つかの端子をつなぐと目を閉じて幾つかの機能をシャットダウンする。
アンドロイドは夢を見ないが、夢の役割と似た機能は持たせられている。人間以上に細々とした会話や表情、動作、身体データを記録し続けるアンドロイドは、休止中に記録の整理を行うのだ。
その過程で、脈絡なく古い記録が表層に浮かぶこともある。ジュリアンの場合、それはほとんどエレオノーラに関するものだ。
不細工で不器用な地球人――ハイメのことをしきりに語るエレオノーラ。ほとんどは彼の挙措をあげつらうものではあったけれど、彼女がそれだけ他人に注目するのは滅多にないことだった。
興奮した様子で雑誌を見せてきたエレオノーラ。普段読むことのない経済系の誌面には、気鋭の実業家としてハイメの名が記されていた。おつむはちゃんとしてるじゃない、と彼女は言っていた。
父親の失脚を知らされて、報いを受けたと泣いていたエレオノーラ。ハイメに憎まれて当然のことをしていたと。謝るつもりが今まで通り高慢な態度しか取れなかった、と後悔してみせたすぐ後に、でもあの人まだ私を好きみたい、と言って笑っていた。
目尻に皺を見つけて狂乱したエレオノーラ。彼女が切れ切れに叫んだことはジュリアンの記憶に刻まれている。財産の上に美貌も失ったら自分には何もない。崇拝されるどころかハイメと釣り合うことさえ望めない。
その時から彼女は鏡を見るのを嫌うようになって、ジュリアンが化粧を受け持つことになった。繰り返し彼女を美しいと口に出して褒めるようにしたのもこの頃からだ。
他の者が知らない彼女を知っているのはジュリアンだけだ。彼は彼女に使え、彼女のことを第一に考えてきた。彼こそ彼女のことを誰よりも知っている。
そして、彼の全ても彼女のために。常に、永遠にエレオノーラの傍にあることこそ、彼に刻まれた至上の命題。彼女の心臓か、あるいは彼の回路が停止するまで。それは誰にも渡すことのできない役目。
満足気な、と形容されるであろう微笑みを浮かべて、ジュリアンは眠りに似た闇にたゆたった。
永遠のエレオノーラ 悠井すみれ @Veilchen
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