第2話 ハイメ

 エレオノーラが去ると、天空人セレスティアルの男たちはとたんに饒舌になった。かつては妖精のように、あるいはおとぎ話の騎士や王子のように美しかった男たち。今では年齢を重ねたなりに体型も緩み、顔には皺が刻まれ、手には染みが浮いている。


「エレオノーラ嬢は本当に変わりませんな」

「まったく。気持ちが若いのは羨ましいが……いささかいたたまれなくなってしまう」

「彼女は鏡を見ないのかな?」

「見ないのでしょう。見ていたらさすがに現実を知るはずだ」

「あの旧式のアンドロイド。あれに全て世話をさせているそうですよ」

「主従そろって時代遅れの遺物という訳ですか」

「妻を同伴していないのは幸いでした。同じ女に見せるには少々悪趣味な遊びだから」

「老嬢をかつてと同じに褒め称えるのが? いや、こちらこそ感謝して欲しい」

「彼女に現実を忘れさせてあげているのですからな」


 露骨な悪意に満ちた下世話な会話だった。天空の、宇宙の民を名乗る者たちのものとは思えない。彼女を招き入れて持てはやしたのは、後で酒の肴にするために過ぎないのだろう。

 素面で聞いていることは到底できなくて、ハイメは琥珀色のウィスキーをあおった。エレオノーラを悪し様に言うのに加わる気は毛頭ない。だが、この場にいるというだけで彼は十分罪深かった。


「アルバレスさんも災難でしたな」

「天空人があのように偏見に塗れた者ばかりでないと、分かっていただけると良いのですが」


 白々しい、と嘲りそうになるのを堪えて、ハイメはごく穏やかな笑みを作った。思いをそのまま口にしても何の益もない。とりわけここ月面に生きる地球人にとっては。その程度の処世は心得ている。


「もちろん。皆さんの友情はありがたく思っていますよ」


 彼らが浮かべた微笑みを、ハイメは心底唾棄する。アンドロイドの微笑みよりなお忌々しい。機械の笑みは空虚なだけだが、こいつらは裏に悪意を潜ませている。

 エレオノーラが去るやいなや掌を返したように、彼がいない場では彼女に対して以上に悪意ある会話を優雅に交わしているに違いない。移住して何十年経とうとも、ひと目で分かる地球人の身体的特徴は隠せないし変わらない。地位と財を築いた分、ハイメはまだ幸運なのだ。少なくとも面と向かって矮人ドワーフなどと言われることはなくなった。


「しかし貴方も人が悪い。エレオノーラ嬢にプロポーズなど」

「ええ。何もあの枯れ薔薇でなくても貴方なら引く手あまたでしょうに」


 間を持たせるために、ハイメはまた一口ウィスキーを啜った。強い酒精アルコールが喉を灼く。

どう答えようと、結局この会話は彼を嘲るためのものに過ぎないのだ。


 エレオノーラが言ったことは紛れもない事実だった。天空人の女性が地球出身のハイメに心を許すことなど有り得ない。少しでも浮かれた答えを返そうものなら、成り上がり者が金にものを言わせて、と嘲笑の的になるのだろう。彼だって悪い冗談のような形でしか愛を口にできなかったのだ。

 かといってとんでもない、などと謙遜するのも業腹だった。あの醜男は分を弁えている、などと。彼のいない場では訳知り顔で噂されるに決まっている。エレオノーラに対するように。

 若い頃の見た目はともかく自分たちだって老いさらばえたくせに、事業の手腕では負けたくせに、この男たちはいつまでも天空人であることにこの上ない矜持を抱いている。


「どうでしょうね……」


 どっちつかずのことしか言えない自分にも腹が立つ。平等に歳を経て。天空人かれらの社交界に加えて立場になっても劣等感はいまだに拭えない。


 エレオノーラへ求愛したのは心からのことだ、と言えたらどんなに良いだろう。彼女は誰より傲慢で冷酷だ。出会った時から変わらず無邪気に無造作にハイメのささやかな自尊心を踏みにじってくれる。だが、今となってはその偽らないあり方がこの上なく好ましい。


「彼女も意地を張るのを止めれば良いのに」

「老後のささやかな幸せを考えるべき年齢ではありますな」


 自分たちも老齢にかかっているくせに。鏡を見ないのはお前たちも同じだ。


 痛烈な皮肉を浴びせるべくハイメは息を吸った。しかしそれが吐き出される前に涼やかな声が割って入った。


「お話中失礼いたします」


 空虚な微笑みを浮かべて佇んでいたのはジュリアン――エレオノーラの忠実なアンドロイドだった。三十年前から変わらない美しい顔と声で年老いた男たちに語りかける。


「お嬢様が耳飾りを片方落としてしまわれたのです。青い宝石が揺れる意匠デザインのものです。お見かけにはならなかったでしょうか」

「それは大変だ。探してあげよう」


 気まずげに口をつぐんだ天空人たちを横目に――機械相手に後ろめたさを感じるのはおかしなことだ――ハイメは床に膝をついた。しばしば重力で押し潰された、と揶揄される地球出身者には似合いの格好だ。それに、真っ先に身体が動いたのが内心嬉しかった。

 エレオノーラの悪口に参加していなかったことの証明だ。

 証明? アンドロイドジュリアンに対してか。彼もまた人の形をした機械に対して妙な気がねがあるようだった。


 それはともかく――。


「これか?」


 星を閉じ込めた青い石。エレオノーラの瞳と同じ色の耳飾りをハイメはつまみ上げた。


「はい、それです。――見つかって、良かった」


 ジュリアンは当然のように掌を差し出す。獲物を取り上げられる猟犬のように、ハイメは無性に腹立たしさを覚えた。このアンドロイドの顔があまりに整って、自分と違って若々しいからいけない。


「折角だから直接届けよう。――失礼」


 その場の全員に背を向けて出口に向かうと、静かに沸き立つどよめきが彼の背を押した。

 老いぼれた地球人がかつての社交界の華を追い回すのだ。格好の噂話を提供してやった形になる。しかし、ハイメはどうにでもなれ、という気分になっていた。

 久しぶりに会った彼女の瞳に酔わされたのかもしれない。




 屋外に出ると中天に青い地球が浮かんでいた。これもまたエレオノーラの瞳の色、美しい宝石だった。地上に降りればそれなりに公害や戦争の爪痕が刻まれているのだが。


 月も、遥かな地球から望む分には美しかった。

幼い日、親に手を引かれて夜道を歩く時。どこまでもついてくる白く輝く真珠のような満月は、彼のものだと思っていた。望遠鏡を手にして、地表はでこぼことしたクレーターだらけだと知ったが、それでも月は憧れを呼び起こす存在だった。月面都市の煌きも妖しく彼を誘った。


 月の醜さを知ったのはこの地に移住してからだ。


 レストランで奥まった席に案内されるのや、地下電車メトロで微妙に間を開けて座られるのには気付かない振りをすることもできた。しかし、天空人セレスティアルにとって地球出身者はどこまでも侮蔑の対象だった。

 エレオノーラがそれをはっきりと教えてくれた。


「アルバレス様」


 ジュリアンの涼やかな声が追いかけてきた。


「本当にご自身で届けられるおつもりですか? パーティを退出されてよろしかったのですか?」

「構わない、ちょうどうんざりしていたところだ」

「お嬢様の居場所をご存知なのですか?」

「香り高い薔薇咲く場所だ、誰でも知ってる」


 ハイメが天空人の姿をした者に対してこれほどあけすけに話すのはまずないことだった。背中越しの会話だから、そして何より相手が機械だから、気恥かしさをどこかへ放ることができた。

 だが――


「恐れながら申し上げますが、お嬢様はアルバレス様のお出でをお喜びにならないでしょう」


 淡々と告げられた言葉に、彼は思わず足を止めて振り向いた。アンドロイドの整った顔を目にすると、先程までの高揚は瞬時にしぼんだ。


「俺を止めるのか? 機械のお前が」


 ジュリアンの端正な微笑みは三十年前から変わらない。

 この人形と――そして何よりエレオノーラと初めて出会ったのは奨学生を招いた何かの席だった。慈善チャリティを冠してはいたが、実際は不格好な地球出身者を弄ぶためのものだったのだろう。中世の王侯が侏儒の道化をはべらせたのと同じ構図だ。


 美しい天空人の少女に舞い上がってダンスを申し込んだハイメを、エレオノーラは艶やかに嘲った。


――笑えない冗談はやめて頂戴。貴方と踊るなんてみっともない。それくらいならジュリアンこの子の硬いリードの方がまだマシよ。


 そして彼女はアンドロイドの樹脂の唇に口づけさえした。天空人の美青年を模したジュリアンは、確かにエレオノーラと似合っていた。

 その顔に浮かんだ微笑みに勝ち誇る色を見たのは、彼の卑屈な目が産んだ幻に過ぎない。エレオノーラの悪口に興じていた男たちが勝手に非難の表情を読み取ったように。機械の微笑みはいつも変わらないのだから。


「とんでもないことでございます」


 三十年を経て、ハイメは一層醜くなったがジュリアンは変わらぬ美貌で彼の前に立っている。その慇懃な受け答えは、ハイメをひどく苛立たせた。


「なら黙ってついてこい」

「ですが――」


 屈辱の記憶を振り切るように。再び歩きだそうと踏み出した足はその場に縫い止められた。ジュリアンの平坦な声がそうさせた。作り物に過ぎないくせに、なぜか聞かなければならない気がする。きっとあまりに澄んで透った響きだからだ。


「私はお嬢様にお仕えしております。お嬢様のことを第一に考え、お嬢様のことを誰より存じております」

「だから?」


 機械が優越感を持っているなどと思うのは間違っている。これは彼の劣等感の鏡に過ぎない。それでも創造主にんげんの威厳ある態度を保つのに、ハイメは多大な努力を要した。


「お嬢様の望まれない事態を招くことはしたくありません」

「俺は望まれない客か? 俺はあの天空人たちとは違う。彼女の部屋を覗き見て噂の種にしようだなんて魂胆はない」

「お嬢様が世間の噂をお気になさることはないでしょう」

「では俺を許していないか。デュケ氏――彼女の父親にしたことを。しかし――」


 ハイメの言葉は宙に浮いた。心を持たないアンドロイドに言い訳することの無為に気付いたのだ。結局、彼はジュリアンを通してエレオノーラを見ている。彼女に気持ちを分かって欲しいと切望している。


 デュケ氏の事業を乗っ取った、と言われるのは彼の本意ではない。法に則った商売の結果のこと、時代の流れを読めなかったあちらが悪い。

 しかし、下心など一切なかった、と言えばそれもまた嘘になる。金があれば地位があれば、エレオノーラが彼に微笑むこともあるのではないかという期待は確かにあった。そんな分不相応な幻想は、いつもの美しい嘲笑で砕かれた訳だが。


 それでもなお、彼女が生活に不自由しない程度の財産――不動産やら株式やら――が手元に残るように計らったのは、もはや彼の自己満足に過ぎない。奪っておいて恩を売るなど、外見ばかりか心根まで見下げ果てられるべき所業だ。彼女が感謝することなど有り得ない。そんな彼女は見たくない。


エレオノーラの今の暮らしは彼のおかげだ、などと。そうだ、やはり断じて口にしてはならない。アンドロイドジュリアン相手であっても。


「いいえ、お嬢様もその点は理解していらっしゃると思います。ただ――」

「ただ?」


 ジュリアンはハイメの懊悩には頓着せずに続ける。

 別に耳を傾ける必要はない。黙れと命じれば、登録された所有者でなくても人間には従わざるを得ない。それがアンドロイドだ。それでも止められないのは、ハイメが月面のルールに縛られているからだ。美しい者こそが支配者なのだ、という。

 だから、彼はジュリアンの形の良い唇が絶望を紡ぐのをただ眺めた。


「お嬢様は貴方様とは釣り合わないと常常おっしゃっておられます」


 ハイメは静かに目を閉じて息を吸い、吐いた。ジュリアンは気にしないだろうが――どんなによくできていてもこれは人間ではない――いわば恋敵の前で取り乱した姿をさらたくなかった。


「そうか。そうだろうな」


 無理に笑顔を作ると、ハイメは握りしめていた耳飾りをジュリアンに押し付けた。すっかり彼の体温が移ってしまったが、彼女の手元に戻る頃には冷たさを取り戻しているだろう。


「エレオノーラが俺なんかと――地球人風情と会いたいものか。美しく気まぐれな蝶、天空人セレスティアルの中の天空人が!

 礼を言う、彼女に嫌な思いをさせるところだった」

「恐れ入ります」


 ジュリアンは彼の不自然な表情に言及することはなく、気取らない動作で耳飾りを受け取った。彼の心情を慮ってくれた、ということはないだろう。機械は何も考えず感じないだけだ。


 ハイメはジュリアンの姿が見えなくなるまで見送った。エレオノーラは身の回りの世話をアンドロイドに任せていると聞いた。彼は拒絶するくせに、ジュリアンの帰りは待ちわびているのだろうか。


――この子の礼儀正しさを見習って頂戴。


 先ほどのエレオノーラの声が耳に蘇り、ハイメはひとり苦笑した。聞くまでもないことだった。彼はいつでも彼女の眼中になかった。アンドロイドにさえ適わない程度の存在だ。


 悔しさや憤りと同時に、奇妙な安堵も感じていた。エレオノーラが変わっていないということを確かめることができた。たとえ憎たらしいアンドロイドを通してであっても。




 彼女は永遠に美しく誇り高い。年月なんか関係ない。手に入らないからこそそう思う。


 デュケ氏の失脚で彼女を取り巻いていた男たちは去った。ハイメが少しばかりの生計の術を与えたから、身売りのようにつまらない男の妻になるところを見なくても済む。これは彼自身も含めた話だ。

 仮にエレオノーラが矜持を曲げて彼に媚びたらひどくがっかりするだろう。彼女には変わらず高嶺の花でいて欲しい。叶わぬ思いに身を焦がし続けることができるのは素晴らしい。愛する人がいつまでもその思いに値する存在だということだから。


 暗い宇宙に浮かぶ地球――手の届かない青い宝石を見上げながら、ハイメはその場を後にした。

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