永遠のエレオノーラ
悠井すみれ
第1話 エレオノーラ
エレオノーラが目を閉じると、目蓋にジュリアンの指先が触れるのを感じた。人工皮膚の冷たい滑らかさ。いつもの繊細な手つきで彼女の顔に色を乗せていく。
ジュリアンは本来は執事用のアンドロイドだから。女主人に化粧を施すのは分を超えていると言えるかもしれない。けれど、彼は高級アンドロイドらしく、精密な手指の機構と色彩やバランスに対する正確な感性を備えている。長い付き合いから、エレオノーラは彼には全てを任せるに足ると確信していた。
プログラムを感性と呼ぶのはやはりそぐわないかもしれないけれど。ジュリアンは誰より、かつて彼女が従えていた人間の従者よりも、エレオノーラを美しくしてくれる。その手腕に報いて、多少人間的な扱いをしてあげても良い、と。彼女は考えていた。
マスカラを乾かすために目を大きく開けて、人形のように整ったジュリアンの顔を、彼が彼女に眉を描き頬に紅を挿す様を間近に眺める。いかなる時も彼の表情が変わることはない。ただ静かな微笑みを浮かべてあらゆる命令に従うだけ。裏で何か企んだり、余計な気を回したりということはない。その愚直さがエレオノーラには好ましい。
最後に理想の形に唇を描き、グロスで艶を乗せてもらうと、エレオノーラは忠実なアンドロイドに笑いかけた。刺を見せて誘う薔薇と評されたことのある、妖艶な笑みだ。
「綺麗にしてくれた?」
わざわざ口に出して問うのは儀式的なものに過ぎない。鏡を見る必要もない。ジュリアンが手を抜くこと失敗することなどとありえないのだから。
「はい、お嬢様。今日もこの月面上のどなたよりもお美しい」
「そう」
盲目的な賛辞はエレオノーラを満足させた。プログラムされた応答なのか、ということはどうでも良い。ジュリアンが彼女に忠実なのは疑いの余地のない事実。彼の言葉は彼と彼女にとっては真実なのだ。
「それでは、行きましょう」
ハイヒールの踵を鳴らし、銀色の髪をなびかせ、ジュリアンを従えて。エレオノーラはとあるホテルに到着した。今夜は彼女の友人の誕生日パーティが催されているのだという。
彼女の姿を見て振り向く人々の視線を、傲然と見返す。
彼女は月で産まれて月で育った生粋の
「申し訳ございません、招待状のない方は――」
「こちらの御方はエレオノーラ様。ドゥケ家のご令嬢でいらっしゃいます。アルマン・キュヴィエ様とは旧知の間柄でいらっしゃいます」
無礼にも彼女を締め出そうとするドアマンも地球出身者で、エレオノーラをうんざりさせた。これならアンドロイドの方がずっと見た目も聞き分けも良いはずなのに。
ジュリアンには任せておけず、つい口を挟んでしまう。
「友だちに会うのに招待状が必要なの? 私の名前を伝えなさい。地球人に覚えられたかしら。エレオノーラ・デュケ。アルマンもきっと私に会いたいはず」
「ですが……」
押し問答を見咎めたのだろう、もう一人のドアマンが現れた。こちらは歴とした天空人で、制服の意匠からして最初の男の上司と分かる。
エレオノーラとジュリアンをちらちらと窺いながらささやき交わすことしばし。やがて天空人のドアマンが、それこそアンドロイドのように整った礼儀正しい笑みを浮かべて扉を開いた。
「大変失礼いたしました、どうぞお入りください」
「だから言ったのよ」
無駄なやりとりをさせられたことに苛立ちながら会場に入ると、華やかに着飾った貴顕の中にも地球人が目立つ。いかに衣装と装飾品で繕っても、地球人は体つきがずんぐりしていて見苦しい。エレオノーラは内心で友人の趣味を疑った。
著名な芸術家によるものだというシャンデリアが輝く会場。その中心の人だかりこそ友人の居場所だろうと判じて、エレオノーラはそちらへ足を向ける。モーセの前に海が開けたように彼女の姿を認めた人たちが道を譲り、彼女は何の苦労もなくアルマン・キュヴィエの元へたどり着くことができた。
「お久しぶりね、アルマン。会えて嬉しいわ。お誕生日おめでとう。
――でも驚いてしまったわ。なんでこんなに地球人がいるの? あなただって彼らを嫌っていたじゃない」
艶然と微笑みかけると、アルマンは狼狽した様子を見せた。洒脱な流行のスーツに身を包み、金の髪と青い瞳、日に焼けたことのない肌を持つ天空人。彼女の幼馴染の一人だった。
「エレオノーラ。最近はそういうことを口にしてはいけないんだ。時代の流れというやつだ。
相変わらず美しい私の薔薇、私の蝶。会えて嬉しいのは私も同じだ、そんなことは言わないで、機嫌を直して笑っておくれ。――シャンパンはいかがかな?」
「ええ、いただくわ」
アルマンは彼女の少女時代からの信奉者だった。そんな男のへりくだった態度はエレオノーラの自尊心をくすぐり、彼女は上機嫌で細かい泡が煌くグラスを受け取った。
「男の人は大変ね。仕事の関係で地球人ともお付き合いしなきゃならないなんて。好きなことだけしていられるんだから、私はこの境遇に感謝しなければならないわね」
皮肉っぽく微笑むと、アルマンを取り巻いていた顔馴染みの男たちが口々に賛同した。
「誰もが羨む優雅な生活、実に貴族的だ」
「まさしく。天空人の精神を体現する者は今では稀だ。貴女にはいつまでもそのままでいて欲しい」
「貴女はいつまでも私たちの
エレオノーラは浴びせられた賛辞をシャンパンと共に飲み干す。男たちの言葉はアルコールによる酩酊よりも甘美に彼女を酔わせた。けれど、決して飲み込まれることはない。彼女はただの花ではない。刺という武器も誇りも持った薔薇だ。
「あら、でも皆もう結婚してしまったじゃない。つまらない女、ぱっとしない女とばかり。どうせ私のことは面倒な女だと思っているのでしょう?」
「とんでもない。女神を独占しようなんて恐れ多いというだけですよ」
「そうそう。この場に妻がいなくて良かった。貴女に嫉妬するに違いない」
「心にもないお世辞ばかりね……」
空いたグラスを下げさせようと横を向くと、ジュリアンの微笑みが目に入った。執事アンドロイドの笑みと同じく空虚なやり取りをしている、とは思う。彼のガラスの目にはエレオノーラたちはどう映っているのだろう。聞いたところで、アンドロイドが何かを考えるということはないはずなのだけど。
二杯目、今度は赤ワインのグラスを受け取ろうとした時だった。
「ごきげんよう、エレオノーラ・デュケ嬢。相変わらず独身生活を満喫しているようで何よりだ」
覚えのある下品な声が耳に届いて、エレオノーラは危うくグラスを取り損ねた。
決まり悪さに眉を上げながら振り返ると、思った通りの男がいた。浅黒い肌、太い手足。にやりと歪められた分厚い唇。目障りな地球人の中でも彼女とは一際
「ハイメ・アルバレス」
名前を呼ぶと、その男は笑みを深めた。粗野な――エレオノーラは絵本でしか見たことがないけれど――狼を思わせる表情だった。
「貴女に覚えていただけたとは光栄だ」
「頭の出来が違うもの」
ふいと顔を背けると、アルマンが情けない悲鳴を上げた。
「エレオノーラ!」
「何よ」
「アルバレス氏は成功した実業家だ。私も――ここにいる者たちも皆世話になっている。差別的発言は止めてくれ」
「ええ、お父様の事業を乗っ取るのに成功したのよね」
顔色を変えて黙り込んだアルマンの姿に、エレオノーラは笑ってしまう。彼女だって仕方のないこととは分かっている。アルマンが先程も言ったように、時代の流れには逆らえない。卑しいことではあるけれど、金の力にも。でも、父や彼女を見捨てた男がうろたえる様を見ることでエレオノーラはほんの少し溜飲を下げた。
「貴女は変わらないな。強気で傲慢で、そこが魅力的だ」
だが、そんなささやかな喜びも横から聞こえた笑い含みの声に瞬く間に壊される。ハイメの笑い声だ。不躾で、あけすけな。
「でも、疲れたり飽きたりすることはない? ひとつのところに留まろうという気は? 父上の財産も残り少ないのでは?」
「下品な質問ね、月でそんなことを言わないで。この子の礼儀正しさを見習って頂戴」
エレオノーラは露骨に眉をひそめると、ジュリアンの腕を取った。そして相手の左手の指に目を走らせる。ごつごつとした印象の、飾り気のない手指。もちろん指輪のひとつもない。
「貴方もまだ相手がいないのね。当然だわ。成り上がり者は天空人を手に入れようとするけれど、まともな女の子はお金でいいなりになったりしないもの」
ハイメに媚を売る連中には聞き捨てならない暴言なのだろう。周りの男たちが狼狽するのを小気味よく思っても良いはずだった。けれどハイメの悠然とした態度は変わらなくて、エレオノーラは不快に唇を歪めた。そこへハイメは更に爆弾を落とす。
「今の貴女だったら私と似合いではないか、とも思うのだが」
「冗談じゃないわ」
だから、堂々と威厳を保って見返してやるのだ。この無礼な地球人を。
「私の誇りをお金で買えるなんて思わないでね。私はお父様とも、その辺のやつらとも違うの。貴方は私につり合わない。身の程を知りなさい」
周囲の視線が痛いほどに突き刺さる。注目を浴びるのは慣れているはずなのになぜか居心地が悪いと思う。きっとハイメ・アルバレスが余裕ぶった笑みを絶やさないからだ。
「気分が悪いわ。――ジュリアン、帰りましょう」
エレオノーラは勢いよく踵を返した。去り際にハイメの声がまた耳を打つ。
「本当に、変わらない……」
あの男は一体どんな顔でその言葉を紡いだのか。知りたかったけれど、彼女は振り向くことができなかった。
憐れみだろうと嘲りだろうと耐えられそうになかったから。
住処にしているホテルに帰ると、エレオノーラは勢いよくベッドに身を投げ出した。ジュリアンが心得た――機械のくせに! ――様子で靴を脱がせる。広く柔らかくスプリングのきいたベッドに揺られて。エレオノーラは一杯だけ飲んだアルコールが厭な種類の酔いをもたらすのを感じていた。
「水をお持ちしますか……?」
「いらないわ」
邪険に扱ってもアンドロイドの端正な微笑みは変わらない。それはハイメの余裕を思い出させて彼女の憤懣をかき立てた。
着替えさせようと手を伸ばすジュリアンを払いのけ、エレオノーラは乱暴にアクセサリーを外していく。まずは首飾り。そして耳へ。
「あら……?」
その時になって初めて、耳飾りが片方なくなっていることに気付いた。慌ててベッドの上を探っても見当たらず、エレオノーラは途方に暮れた。
「嫌だわ。お母様の形見なのに」
ジュリアンも人より優れた機械の目で部屋中を探し――ほどなくして首を振る。
「先ほどの会場かもしれません。探して参りましょう」
「ちょっと」
効率を重んじるアンドロイドの決断は素早かった。
「一人で着替えろって言うの……?」
残されたエレオノーラは小さく愚痴った。化粧だけではない。着替えを始めとした身の回りの世話をジュリアンに委ねて久しい。彼女は自分の手で何かをするということにとことん不慣れだった。
仕方なくベッドに腰掛けて忠実な従者の帰りを待つ。夜のパーティのために濃く施した化粧が仮面のように顔に張り付いて不快だった。けれど仕方ないだろう。彼女はいつだって仮面をかぶっているようなものだ。
一人になると否応なく思い出される。ハイメ・アルバレスの姿。噂は色々聞くけれど、直接会うのは本当に久しぶりだった。
「髪が薄くなったんじゃないかしら。お腹も出てきたみたい」
誰に言うでもなく、あの醜い男のことを罵る。それは、彼女にも向けられた諸刃の剣。
エレオノーラ・デュケ。社交界の薔薇。気まぐれな美しい蝶。全ての男たちの憧れ。
そう呼ばれたのは、もう三十年も前のことだ。
――本当に、変わらない……。
ハイメは相変わらず醜かった。けれど彼には才覚がある。
エレオノーラが美しさを失ったら何が残る? 何もない? なのにどうして彼女は彼のことをあんなに嘲笑うことができたのだろう。
美貌が永遠のものだなんて思っていた訳ではない。でも、失われる日、今日という日のことは考えてもみなかった。だからだ。
部屋の片隅には姿見がある。布で覆われて。立ち上がりそれを取り去るのはエレオノーラにとってさえ簡単なことだ。けれどどうしてもできなかった。
鏡は、見たくない。
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