それでも生きていく

 今でも夢に見る。

 その度に思うんだ。

 あの日の選択は正しかったのか、誤っていたのか。

 葛藤に身悶え、それでも生き続ける。

 それが俺の一族の教えで……俺の正義である限り。


 皇親子と別れた仁は、夜の山を疾走する。

 途中何度も転びそうになりながらも、川下にやっと辿り着く。

 朝を迎えようとする涼風が、頬を撫でた。

「……啓……啓っ!」

 川辺に立つと周囲に目を走らせながら、気配を探る。やがて、何かを感じた。

 はっと息を呑むと、脇目も振らず川の中に入る。

 水音だけが仁の逸る気持ちを表していた。

 岩と岩が重なり合い、水流により出来た窪みにひっそりと、まるで谷間に咲く誰にも見られる事のない名も無き花のように少年がいた。

「啓っ! しっかりしろっ!」

 冷え切った体に手を回し、半身を起こす。ぐったりとした表情に生気は見えない。

 その時、言い知れぬ違和感が仁の感覚に訴えかけた。視線を落とせば右脇腹に銀色に光る物が見える。

 それは創が離れの部屋で使っていたものだった。


「食べますか?」

 白すぎる手に赤い果実。こんなにも痛々しいのは何故だろう?

「ちゃんと剥けるのか?」

 机の上に広げた参考書をまとめながら、からかうように聞いてしまう。それは自分の偽善めいた部分を隠したかったから。

「こう見えて得意なんですよ」

 微笑みながら器用に皮を剥いていく。

 赤い螺旋がゆらゆら。銀のナイフでくるくる。

「伯父の使っていたものなんだそうです」

 しっとりとした歯触りに続く甘酸っぱい味。

「伯父さん?」

「母の兄だそうです。僕と同じで体が弱く……」

 そこで創は一旦言い淀み、

「若くして亡くなったそうです」

 そう告げて儚く笑った。


 その伯父が実の父だと知った時、創の心は壊れた。

 己の存在意義を見失い、何度も何度も自分を責めた。

 それが過ぎると、今まで築き上げてきたものが信じられなくなった。

 注がれる惜しみ無い愛情にすら疑いの目を向けた。

 実の弟を羨み、妬み、憎んだ。

 楽にしてくれと懇願された夏の夕暮れを思い出すと、息が止まりそうになる。

 しかし仁の願いを聞き届け、それが達せられた時に創は考え直したのだ。

 全てを無に返すと。


「……仁さ……ん……」

 微かに動いた唇に耳を寄せる。まだ生きていてくれた事実に安堵する。

「待ってろ。今、器を……」

 自ら発した言葉。感覚が麻痺している恐怖に、仁は震えた。

 新しい器を求める。それは誰かの死を願うと同等の意味を持つ。

 傲慢な考えに吐き気が込み上げた。

「……てっ……て……」

 連れてって。啓の顔をした槙が、力なく微笑む。

「連れて行く? 何処へ?」

 そう問いかけ、息を呑んだ。

「わかった。行こう」

 水を含んだ衣服は重量を増させる。しかし、仁には関係なかった。

 生まれて初めて感謝した。この呪われた体に。人よりも勝る力に。

 黒い羽根が舞う。背中に現れた暗黒の翼を広げると、大きく羽ばたいた。

 人とあやかしの混血。限られた一族にのみ見せられる姿。それが橘家が番人たる所以。

 仁の願い。それは恋い焦がれた芽を救い、尚且つ自分のあるがままを創に受け入れてほしいという事。

 だから契約を交わし、言いなりになる事にすら喜びを見出した。

 自分の大切なものを守る為なら何だって出来たのだ。


 腕の中の啓が微笑む。

「風が気持ちいい……」

 知っているかい?

「こんなに穏やかな気持ちは……生まれて初めてかもしれない」

 俺にだって……涙はある。

「泣かないで……仁さん……」

 どんどん小さくなっていく命の灯火。もう親しい人が死んでいくのを見たくないのに……!

「ああ……綺麗だなぁ……」

 澄み渡り始めた空気。次第に青を深めていく空。今はまだ淡い太陽も瞬く間に世界を強く照らすだろう。そうして、この夏をまた体に染み込ませるのだろう。

 愛しい人達が走馬灯で甦る。もう……思い残す事はない。

「……仁さん……ありがとう」

 そして啓は瞳を伏せる。槙の心と共に。


「仁さん……?」

 離れに敷かれた布団の上で創が呟く。無言で近付くと、腕の中の啓を横たえた。

「槙……槙っ!」

 半身を辛うじて起こすと、必死に呼びかける。だが、既に。

「うそ……だ……いや……だ……」

 ふるふると首を振りながら、目の前の現実を拒む。

 言葉は出なかった。創は親友を二度失った。

「槙……」

 その冷たい頬に触れながら、創は叫ぶ。

「命令だっ! 僕を喰えっ!」

 仁は我が耳を疑った。

「止めろ……止めるんだっ!」

 心からの叫びは二人に届かない。

 瞬間……! 啓の体から触手のように黒い何かが放たれる。

「創っ!」

 それらは傍らの青年に真っ直ぐに向かうと、一気に二人を包んだ。

 禍々しい気が辺りを蹂躙する。清潔な部屋も手入れの行き届いた庭も、創が揃えた綺麗なものも愛に満ちていた過去も、何もかもを呑み込んで、仁の思考を奪い去る。

 やかて、静寂。

 何が起きたのかわからぬまま、呆然と目の前で交差させていた腕を解く。しかし啓の上に折り重なるように倒れる創を認めると、仁の体は反応していた。

「創っ! 創っ!」

 抱え上げ軽く揺すると、微かな呻き声と共にゆっくりと瞳が開く。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、創は力なく呟いた。

「間に合わなかった」

 間に合わなかった。仁はそれを槙が逝ってしまうのを繋ぎ止められなかったという意味だと思っていた。


 でも、実際は。

「創が逝ってしまうのを止められなかったんだな」

 今頃気付いた自分の浅はかさに唇を噛み締める。

 創は最後の力を振り絞り、自らを器として槙の魂を繋いだ。そして……使いになった。

 願ったんだ。親友に託したんだ。

 だから啓の葬儀で、二人はあんな事を起こした。

 村人達に恐怖を植え付け、この仕来たりに終止符を打つ為に。

「純粋な桂の血が……創を魔物に変えたんだ……」

 それはきっと皇の力をも遥かに凌ぐもの。

 ふと自分の右手を見る。

 見事な文様を施された柄の部分には藤の花が咲いている。

 最後の最後で槙は自らナイフを抜き、仁に処分して欲しいと頼んだ。刺さっていた事で出血を塞ぎ止められていたのに。それを抜くのは、絶対的な死を意味するのに……!

『……守って……あげて……』

「馬鹿野郎……」

 創が、理の姿をした槙が、そして啓が、仁の中で甦っては去っていく。

 放物線を描いて銀色は光る。

 この川底に沈めてしまえば、二度と見付かる事はない。

 もう悲劇は繰り返されない。何故ならば。

「この村はいずれ……」

 そこまで考えて、仁は自嘲気味に笑んだ。

「それでも……共にいよう」

 最後まで見届ける。

「それが……今の俺に出来る全てだから」


「……そう」

 真っ白な空間は落ち着かない。ずっといただなんて、信じられない位に。

「皆……いなくなってしまったのね」

 奇跡的に目覚めた雪は、病院のベッドの上で呟いた。

 理、啓、創の死、そして統と樹が行方知れずになって、早三ヶ月が経っていた。

 少女はその間、眠り続けた。夢の中で何度も啓に会った。理にも会った。

 傍らに座る両親は娘の順調な回復に安堵しながらも、ある決意を秘めていた。

 これだけは伝えねばならないと、覚悟を決めていた。

「もう一つ、お前に話しておきたい事がある」

 沈痛な面持ちで父が語り出す。今にも泣き出してしまいそうな母を気にかけながらも、その一言一句を聞き漏らすまいと雪は集中する。

「私、お兄ちゃんがいたんだね……」

「黙っていてすまなかった」

 忠の言葉に首を振る。そして、やはり環は静かに涙を流していた。

「二人は……会っていたのよ……」

 啜り泣きながら何とか環は声を絞り出す。小さく戸惑う雪に忠が問う。

「儀式については知っているね?」

 儀式。統との縁談を受けた時、父から聞かされていた雪は頷きで返す。

「ずっと側で雪、あなたを見守ってくれていたのよ」

 その瞬間、何かが体の中で弾けた気がした。

「……理?」

 呟いた名は、あの日感じた違和感の答え。

 私を愛してくれたのは……そう、きっと。

 長年抱えていたであろう秘密を晒し、再びの悲しみにくれる両親の涙が何よりも真実を語る。

「そうか……そうだったんだ」

 雪は穏やかに目を閉じた。

 陶器のように白い頬に、涙が一筋伝った。


「私も、お母さんみたいになれるかな?」

 夕暮れの病室で一人、自分の中に芽生えた命を愛おしむ。

「この子は幸せ。だってお父さんが二人もいる」

 まだ膨らむ気配のない腹部を優しく優しく撫でる。

「だから、一人でも立派に育てるわ」

 啓を通して血の繋がった兄と結ばれてしまったとしても、雪は槙を憎めなかった。

 それに生物学的には啓の子供に他ならない。何の問題もないのだ。そう、何も。

 相手を思いやる余りに真実を告げない、それが罪を招いた。

 そして仕来たりを守る為、犠牲になった。

 許しがたいが、それだけの事なのだ。

 何もない。空っぽになった。その時、体の異変を感じた。

 嬉しかった。残酷な形で授かったとしても、啓の生きた証を残したかった。

 理との大切な思い出を忘れたくなかった。槙の思いを受け入れたかった。

「啓、理……お兄ちゃん……」

 もう我慢しない。今は泣きたいだけ泣こう。

 そう決めた雪の頬を幾筋もの涙が伝う。

 口に出して言わなければならない事がある。

 そうしなければいけない時がある。だから、そっと囁いた。

「ありがとう……私を……愛してくれて……」


 あれから三年の月日が経った。

「尊、おいで」

 美しい母の綺麗な手。幼子は嬉しくて飛び付いた。

「雪ちゃん、今帰りかい?」

 優しい青年は、いつも紺色の服を着ている。

 お巡りさんが着る制服なのだと、尊は教えてもらった。

「ええ、仁さん。ほら尊、御挨拶は?」

 すっかり母の顔になった雪は強い美しさを放ち、仁の胸を今でも痛める。

 あんな事さえなければ少女は普通に恋をし、結婚をして幸せな家庭を築いていただろう。

 あんな事……いや、それは違うと仁は思い直す。

 少なくとも尊を慈しむ雪は幸福に見えた。

 だから、その考えを直ぐに打ち消した。

「こんにちはっ!」

 元気よく仁に挨拶をすると、尊は雪を見上げる。

「はい。よくできました」

 にっこりと微笑まれると、本当に嬉しそうに母に纏わりついた。

 その笑顔に少年の面影を見た。

『先輩』

 啓の声が聞こえたような気がして、目を細めた。

 今はいない友を思い出した。


 村の子供達と遊ぶ尊を見つめながら、雪は新たに駐在所の入口横に設置された長椅子に腰かけた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 穏やかに告げ、手渡された茶を飲む。湯飲みを両手で抱えながら、我が子に注ぐ眼差しは限りなく優しい。

 わがままで勝ち気、でもそれが許された椿家の姫君も、今ではすっかり母親だ。三年しか経っていなくても確実に現実は過ぎている。

 一際はしゃぐ声に視線を向けると、通りかかったセーラー服の少女を尊が追いかけている。

「結ちゃん、来年は高校生ですね。早いなぁ」

 少女を眩しそうに見つめる雪の傍らで、仁は不思議な感覚に陥る。次いで、その輝かしい光景に穏やかに目を伏せた。

「雪ちゃん」

 何故そんな事を聞いてしまったのか、今でもわからない。

「はい?」

 雪は愛らしく小首を傾げる。

「その……結婚、しないのかい?」

 不意の問いに驚きで目を丸くするが、直ぐに微笑む。

「椿家は尊が継いでくれます。それに私……」

 仁の心配そうな目から華麗に逃げる。

「ずっと……一人でいいんです」

 今でも夢に見る。

 いなくなってしまった初恋の統と意地悪をしてしまった樹を。

 いつも気にかけてくれた理と側にいてくれた啓を。

 愛してくれた啓を……愛する啓を。

「でもね、仁さん」

 雪は続ける。

「それでも私はここにいるわ。そして尊と生きていく」

 凛とした横顔に揺るぎない決意を見た気がした。

「それに皇家の後継者なき今、村を支えられるのは残された私達であり、未来ある子供達だと思うの」

 もう悲劇は繰り返さない。新しい世代を創っていく。

「その為に統はいなくなったと思うの。愛する樹さんと共に」


「おかえり」

 自分を迎えてくれる声に心が温かくなった。

「ただいま、お婆様」

 今、仁は知と暮らしている。

 余所者でありながら、村の次の長となる筈だった統と駆け落ち同然でいなくなった樹を責める声は多かった。

 それでも気丈に振る舞う知の面倒を皇家は見たかったのだが、村人達の手前そうはいかなかった。だから。

「俺と暮らしませんか?」

 その申し出に知は驚いたが、快く受け入れてくれた。

「おっ、美味しそう」

 卓袱台の上に並べられた煮物や漬物に目を細めると、炊きたての御飯と香り立つ味噌汁が更に置かれた。

「沢山召し上がれ」

「いただきます」

 ほっとする笑顔に、仁は手を合わせる。誰かと食事をし、今日あった他愛もない事を話す。こんな幸せもあったのだと、久しぶりに思い出した。

「そう、結ちゃんが……本当に大きくなったねぇ」

 嬉しそうに顔を綻ばせると、食後のお茶を淹れてくれる。

 その表情は母だ。例え真実を告げる事が出来なくても、知は結を見守り続けるのだろう。

 仁は知っている。躊躇う孫娘の背をそっと押したのは、芽の分まで幸せになって欲しいという知の願いだったと。

 だからこそ口伝くでんを生業とする杠家の者として、この村にたった一人で残ったのだ。

「仁」

 視線を向けると小さな背中。

「もう……いいんだよ」

 厳かな空気に包まれる。

 ひとことたりとも逃してはならないと、仁は息をひそめる。

「器を探す必要はなくなったんだ」

 何もかも知ってくれている。それだけで救われた気がした。

 だけど、きっと。

「俺は生きていきます。ずっとずっと」

 そう言って、仁は穏やかに微笑んだ。


 蝉が鳴いている。

「いってらっしゃい」

「じぃじ、ばぁば。いってきまぁす!」

 玄関に佇む祖父母に、尊は元気よく手を振る。

 白い日傘が揺れる。手を繋ぎ、歩いて行く。

 その姿をいつまでも、忠と環は見送っていた。


「ママ」

 尊は傍らの母を見上げる。

「どこに行くの?」

 無垢な問いに、自然に笑みが溢れる。

「いつもの所よ」

 その言葉に、尊の顔が明るくなる。

「早く早くっ!」

 手を引きながら、尊が前へと一歩踏み出す。その小さな背中に愛する人が重なり、雪は再び笑みを浮かべた。

 昨日、仁に声をかけられる数時間前、二人はある場所に来ていた。

 月命日になると必ず訪れるそこは、かつて祠へと通じていた洞穴。

 三年前の秋の大雨で土砂崩れがあり、今は塞がっている。

 でも、ここに。

 手を合わせ、思いを馳せる。

 あなたが、いる。

 記憶の波が優しく雪を包む。

 時が経てば思い出すのは、楽しかった事ばかりなのだと知った。

『もう誰にも傷つけられない場所に埋葬した』

 やっと目覚めた時、そう教えてくれたのは。

「ありがとう……仁さん」

 隣で祈りを捧げる幼子を見つめる。

 いつか真実を告げなければならない日が来るのかもしれない。それでも、ゆっくりと顔を上げ、自分を見つめる尊を愛しく思う。

 どちらからともなく繋いだ指先に、幸せが宿る。

「パパ、またね」

 寂しそうに呟くと、小さな手を何度も振った。


「ここはママと尊だけの秘密の場所よ」

「ひみちゅ……?」

 初めて耳にする単語に対し、可愛らしく首を傾げる。

「まだわからないかな。そうね……」

 雪は思案する。

「誰にも言っては駄目って事。わかる?」

 すると尊は大きく頷き、太陽のように明るく照らす笑顔を雪に向けた。

「ひみちゅ! ママと僕とパパ、三人のひみちゅ!」

 秘密。抱えて生きるには辛い。

 でも甘んじて受け入れれば、覚悟が違う。

「わぁ~」

 歓喜の声が上がる。

「みんな、ちっちゃい~」

 眼下に広がる小さな小さな集落。そこに秘密がある。

 それでもここにいる。守りたい者がいるから。その為に命を賭した者がいるから。姿を消した者がいるから。

「私は……」

「ママ。どこか痛いの?」

 心配そうに自分を見つめる尊が愛しくて仕方ない。雪は目尻を拭う。

「大丈夫」

 安心させたくて、雪は尊の目線まで屈む。

「帰ろう。おじいちゃんとおばあちゃんが待ってるよ」

 両掌で包んだ柔らかな頬は温かい。

「今日、何食べたい?」

「う~んと……納豆巻きっ!」

「いい子ね。家計、大助かり」

 元気よく答えた尊に雪は笑う。好きな食べ物にすら、あの人の面影を見る。

『納豆が食えない? あんなに美味いのに?』

 そう言いながら笑ってくれた大切な人。微かに振り向き、山を仰ぐ。

「また来るね」

 だから、私はここにいる。あなたの側にいる。

 それが私の選んだ、一番の幸せのかたち。


 駐在所の前を掃除するのが、昼食後の日課だった。

「仁っ!」

 心臓が跳ねた。声が似ていた。

 振り返れば、幼い頃から見守り続けた少女が手を振りながら駆けて来る。

 弾けそうな笑顔で、溢れる若さで。

 ふと三年前の記憶が甦る。その時は、まだ赤いランドセルを揺らしていた。

「見て見てっ! どうかな?」

 あの日のように息を弾ませながら、結は仁の前で綺麗に一回転をする。

「うん。よく似合ってるよ」

 来年高校生になる結は、自分もかつて通った高校の制服に身を包んでいた。

「雪様が譲って下さったの」

 嬉しそうな声に、仁もつられて笑顔になる。

 子供達の間では代々制服を受け継ぐ習性があった。懐かしさが胸に迫る。

「仁」

 真剣な眼差しを注がれ、戸惑う。

「私、諦めないから」

「えっ?」

「仁の心に住んでる人に絶対絶対っ! いつか勝つからっ!」

 あどけなかった少女は、今はもういない。

「結ちゃん……」

「初恋なんだもの。この思いを貫くって決めたの」

「いや、俺もう30過ぎのおじさんだし……」

「見た目、20代だから大丈夫っ!」

 何を言っても頑として聞き入れてくれそうにない。

「それに私、今度の夏に16になる。いつでもお嫁さんになってあげるからね」

 大輪の向日葵のような明るい笑顔で告げると、結は仁の首に飛び付いた。

「えっ? えっ!」

 ぐいと体重をかけられ、そのまま傾く。左頬に柔らかな感触を感じる。

「覚悟しててね、仁君」

 仁君。そう呼ばれ、涙しそうになる。

「お婆様にも見せたいっ! 奥にいる?」

 惚けている仁の返事も待たずに、結は駐在所の中に姿を消した。

 知を呼ぶ声と、それに応える声に嗚咽が込み上げる。

 きっと知は零れんばかりの笑顔で結を迎えているのだろう。

 遅れて現れた純と目が合い、慌てて平静を装う。

 ゆっくりと近付いて来た婦人は、深々と一礼した。

「あ、お母さん」

「結。お団子を持って来たから、お茶にしましょう。知様、台所をお借りしても?」

「ええ、どうぞ」

 仲睦まじく話しながら、二人は所内へと消えて行く。

 何もかもが上手くいく、そう思えた。

「ほら、仁も早くっ!」

 繋がれた指先は本当に温かかった。




《ただ夢を見た・完》

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ただ夢を見た 深喜 @miki

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