終焉

 遠くに煙が見える。

 それを見つめる少女は山の中にいた。

 大木に手を付き、ぼんやりと遠い眼差しをして。

 かつて仲睦まじい幼なじみ達が遊んでいた秘密の隠れ家の側、目を閉じれば彼らの笑い声が聞こえてきそうな気がした。

「槙お兄ちゃん……創お兄ちゃん……」

 樹は一人きり、実の兄と兄のように慕った存在の死を悼んでいた。


 さわさわと木立がざわめくも、警戒する必要はなかった。

 誰が来てくれたのか、振り向かなくてもわかった。

「ここにいたのか」

 愛しい人の声に胸が疼く。息を切らしているのは、急にいなくなった自分を探してくれたからなのだろう。

「……ごめんなさい」

 それでも樹は、統を直視出来なかった。

 槙が自分を守る為にしてくれた全てが、愛する人を……統を傷付けていたのだ。

 どうして気付けなかったのだろう? いつも何かを思い出そうとすると、無理をしない方がいいと言ってくれたのは理だった。理の姿をした槙だった。

 真実を告げもせず、ずっと一人で抱えて。なのに自分は思い出そうと努力もせず、残酷な記憶を封じ込めて。

『樹ちゃんは、そのままでいいんだよ』

 理の笑顔に、槙の優しさに甘えてしまっていた。逃げてもいいのだと自己肯定した。そうやって見ない振りをして生きてきてしまった……!

 槙と理の願いを、創の気持ちを、啓と雪の事を、そして何よりも統を思うだけで、樹は息が止まりそうな位に辛かった。

 育ててくれた知や、息子を失い憔悴しきっている静を見る度に消えてしまいたかった。司や仁に労わられると、大声で泣き出してしまいそうだった。


 目の前で苦悩する少女が何を考え、自身を責めているか、統には手に取るようにわかった。だが、どうしても確かめたい事が一つだけあった。

「樹」

 返事はいらない。

「あの日……樹は知ったんだね?」

 だからこそ彼女は呟いたのだ。

 獣を見て、『お兄ちゃん』と。

「目覚めた時は本当に記憶が混乱していたの」

 やっと振り向いてくれた少女は瞳を伏せる。

「でも、あの姿を見た瞬間……何もかも思い出したの」

 それは、あの洞穴で知った遠い真実。

「私は……」

 後は言葉にならない。

 その小さな体に沢山の秘密を封じ込め、これからを生きていくつもりだったのかと思うと、胸を締め付けられた。

 そんな樹を統は黙ったまま見つめる。

 不謹慎な考えを抱いているのは百も承知だった。しかし喪服に身を包んでいる少女は美しかった。

 樹を失わずに済んだ事実が統の救いだった。同時に決意した事がある。

「樹」

 統は愛する者の名を呼んだ。

 もう迷わない。もう離れない。

 樹の視界に映ったのは……差し伸べられた手。

「行こう」

 とうとう泣き出してしまった樹は頷き、自らの手を重ねる。

 そして統と共に駆け出した。


 村の仕来たりからも、二人を隔てる世界からも。

 忌まわしい過去からも、永い間培われた呪縛からも。

 何もかもから逃げる。それが……導き出した答え。

 ただ夢を見た。それだけだった。

 二人で幸せになる夢を。


「そうですか」

 受話器を握りしめたまま、仁は呟いた。他にかける言葉が見付からなかった。

『綾部の無念を思うと……自分の無力さが情けないよ』

 来栖らしからぬ弱気な発言だった。心が痛む。

 痛む? そんな良心の欠片が自分にまだ残っていたのかと、仁は自嘲した。

 捜査報告として残されたものは関わった人間達にとって、決して納得のゆくものではなかった。

 最初に杠樹が襲われた。次に柾理が殺された。その次には椿雪が意識不明で発見された。

 犯人として有力視されていた榊啓は遺体が見付からぬまま、被疑者死亡で送検された。そして、その葬儀の時に野犬のような獣が現れ、退治しようとした皇創が銃の暴発により死亡した。

 短い間に三人の若く尊い命が消えていった。唯一の救いといえば雪の意識が戻り、回復しつつあるという事だけだった。

 だが、失われたのはそれだけではない。綾部の死についても謎に包まれたまま、真実はわからなかった。

『榊啓に襲われたのか? それとも……獣に?』

 悔しさが伝わって来ても、仁には何も出来なかった。例え、全てを知っていたとしても。

 無言のままの仁に対し、我に返った来栖は弱々しく呟く。

『すまない。橘にあたるなんて……どうかしてたな』

「いえ」

 どうする事も出来ない。もう自分を縛る者はいないのに。

 絶対的な存在だった創は、自ら命を絶った。司が検死をし、銃の暴発による死亡事故だと報告したのは他ならぬ自分だった。

 それが仁に出来た最後の誠意だった。主として仕えた青年に示せる敬意だった。友と親しんだ創に対する思いだった。

『橘は……』

 名を呼ばれ、仁の意識は再び受話器に集中する。

『本庁に戻らないのか? 以前、誘われていただろう?』

 そんな事もあったなと懐かしくなる。それもいいかもしれない。でも。

「俺は、この村で最後まで警察官でいようと思います」

 暫しの沈黙の後、はっきりと仁は答えた。

『そうか』

 優しい声からは、自分の行く末を心配してくれている思いが滲んでいる。

 来栖さん。俺も……古い仕来たりに捕らわれている一人なんです。

『じゃあ』

 受話器の向こうは、いたかった世界。

「はい」

 そう告げて、仁は未練を今度こそ断ち切った。


「仁~っ」

 声が聞こえ、仁は駐在所から顔を出した。

「結ちゃん、どうしたの?」

 急いで走って来たのか、息が弾んでいる。少しだけ身を屈めると、少女の目線に近付けた。

「今日こそ聞かせてっ! 結との約束の返事っ!」

 突然一気に放つと、結は恥ずかしそうに俯く。両手でランドセルのベルトを、ぎゅっと握っている姿がいじらしかった。

「約束? えっと」

 本当はわかっていた。でも、それを仁の口から伝える事は許されない。

「何だったっけ?」

 すると結は顔を赤らめたまま、頬をこれでもかと膨らませる。

「もう知らないっ!」

 拗ねた口調で舌を出すと、そのまま背をくるりと向け、走り去る。赤いランドセルが大きく揺れている。

「憶えてるよ……芽さん」

 結の中に眠る存在、杠芽は仁の初恋だった。

 見守るだけでいい。だから、どうか覚醒めないで。

「その為なら……何だってするよ」


 皇邸は静まり返っていた。例年、使用人達には夏休みを与えていたが、今年は少し早目に暇を取ってもらった。

 あんな事があったのだ。それ位はしてやりたいと、この屋敷の主は思っていた。

 離れに辿り着いた司は目を細める。

「創……」

 今も到る所に気配が残っているのに、もう会えないなんて。

「いつから……お前と槙は共存していたんだ?」

 何度も息子に触れた自らの掌を見つめる。

「御館様……」

 ひっそりと、小さな庭に現れた老婆に司は驚く。

「申し訳ありませんっ!」

「知様っ!」

 だが突然、地に頭を擦り付けられる。慌てて降り立つと、体を起こさせた。

「統坊っちゃんがいなくなってしまっては……もう……」

 心の支えだった樹もいなくなり辛い筈なのに、それでも村を心配してくれる姿が痛々しかった。

「お詫びしなければならないのは私です」

 涙を浮かべる知を、ゆっくりと立たせる。

「大事なお孫さんを……あなたが大切に育ててくれた芽の忘れ形見を……」

 知を庇えば庇う程、村人達は責める。余所者など最初から受け入れるべきではなかったと。限られた世界で、限られた人々だけでいいのだと。

「連れ出したのは統……私の息子です。本当に申し訳ありませんでした」

「そんな……どうぞ仰らないで下さい」

 知の言いたい事が、痛い程にわかる。

「そうですね……いや、そうかもしれません」

 この村を存続させる為だけに繰り返されてきた儀式。それを執り行えるのは皇の血を受け継ぐ者だけ。

 統はわかっていない。この村を出て行くという事の重大性を。そして樹と結ばれれば、統の中にも眠る何かが彼を壊してしまうかもしれないという事を。

 それだけを司は、最も懸念していた。けれども……例え、そうだとしても。

「もしかしたら……」

 穏やかに司は目を閉じる。

「この日が来る事を私は……ずっと待っていたのかもしれません」

 一人の父親の独白に、知は複雑な面持ちを浮かべる。

「そうですなぁ……私も……待っていたのかもしれませぬなぁ……」

 そして消え入りそうな声で思いを紡ぐと、小さな肩を震わせた。


 知が去った後、司は離れと続き間になっている奥の部屋へと向かった。そこは創を看病する時などに夫婦で使っていた場所だった。

 その片隅に静がいた。あの日から目を離すと、静はいつの間にかここにいた。

 大切なものを失い、心が壊れてしまった妻に近付く。

 虚ろな瞳で司を認めると、くしゃくしゃの顔で泣き出した。自分を責め続ける華奢な体をそっと抱き寄せる。そうしてやる事しか出来ない。

「もういいんだ」

 ずっと伝えたかった。

「君は私ではなく本当は和様を愛していた」

 長年連れ添った夫の言葉に、静は身を固くする。

「でも、それを認めてしまうのが怖かった。そうだろう?」

「御館様……」

 誰に抱かれ、誰を慕っていたとしても。

「それでもよかった。私の気持ちは変わらなかった」

 許されぬ思いを断ち切ろうと、妻として母として努める静を司は見ていた。

「統が生まれた時は本当に嬉しかった」

 これで完全な家族になれる。そう信じたから。

「なのに……何が足りなかった?」

 司の声は震える。

 創を救うつもりが、追い詰めていた。

 統を育てているつもりが、空回りしていた。

 静を愛しく思うのに、いつの間にか遠ざけていた。

「でも……もう何もかも終わったんだ」

 ひぐらしが鳴いている。もうすぐ夏も終わる。後はただ。

「出来る限りの事をしよう。それが、この村の最後の長としての務めだ」

 司の腕の中で何度も静は頷く。その手元に広げられたアルバムからは、あの写真は無くなっていた。


『次のニュースです』

 ざわめく食堂の一角にある古びたテレビから、途切れ途切れに音声が流れてくる。

『本日未明××県〇〇村近くの□□において、若い男性の遺体が発見されました。男性には目立った外傷はなく、争った形跡もありませんでしたが、身元を証明するものを何も所持していないという点から、警察は事件と事故の両面から捜査を継続しています』

 だが誰もが、そんな放送を気にも止めなかった。


「捜査打ち切り?」

 驚きの声を上げ、来栖は目の前に座る赤井を見る。

「そうだ」

 まるで苦虫を噛み潰したような顔だった。

「何故ですか? 結局あの村での事件も綾部の死の真相も、何一つ解決していないのにっ!」

 重厚な書斎机を力任せに両掌で叩く。それでも全く動じる事なく、赤井は来栖を真っ直ぐ見た。

「上層部からの命令だ。この件には、これ以上関与しないという方針が下された」

「上層部?」

 全身に冷水を浴びせられた錯覚に陥りそうになる。

「警察は……仲間の死を見過ごせと言うんですか?」

 圧倒的な絶望だった。自分でも、らしくない程に感情的になっている自覚はあったが、この事に関してだけは譲る訳にはいかなかった。

『来栖さん』

 綾部が後を付いて来る。

『俺、いつか必ず警視庁に行きます。それまで尊敬する先輩の下で、沢山学ばせて下さい』

 聞いているこちらが恥ずかしくなりそうな言葉を、臆面もなく告げた、そんな未来ある若者の死を、忘れる訳にはいかなかった。

 沈痛な面持ち。赤井も納得がいかないようだが、彼が上からの通達を拒める筈もなく、その下にいる来栖が何を言っても決定が覆る可能性は無に等しかった。

「失礼します」

 どうしようもない現実から逃れたくて、部屋から退出した。これ以上共にいては、赤井に何を言ってしまうか自分でもわからなかった。

 赤井は悪くない。寧ろ、辛い筈。だって、あんなにも綾部の死を悼んでいたのだから。

 薄暗い廊下を物凄い勢いで歩いて行く。途中すれ違い様に誰かとぶつかりそうになったが、相手が軽やかに避けてくれた。

 普段の来栖なら謝罪しただろう。しかし今は、頭に血が上った状態だった。

 署内の階段を駆け上がり、屋上に続く扉を勢いよく開け放つ。目の前に広がる青い空、張り巡らされたフェンスに近付くと口汚く吐き出した。

「くそっ!」

 ぐるぐると渦巻く感情。激しい音を立てフェンスを掴むと、擦るように額を押し付けていた。

「何故だ? 何故だ? 何故だ?」

 繰り返しても答えなどわかる訳がない。でも、一つだけ確かな事がある。

「警察官は……」

 喉の奥から絞り出される呻き。

「絶対に……仲間殺しを許さない……!」

 歯を食い縛りながら仰ぐ。その目には確固たる決意があった。


 扉をノックする音が耳に届き、赤井は来栖が戻ったのだと思った。

「どうぞ」

 告げると、意外な人物が部屋に入って来る。初めて会うけれども、多分よく知っている存在。

「名演技、でしたね」

 神経を逆撫でされ、思わず立ち上がる。何かを言いかけるも紡げず、再び椅子に座った。

「仕方ないだろう」

 嘆息しながら、机上で組んだ拳に顔を埋める。項垂れる姿は赦しを請うているようにも見えた。しかし青年は全く気にもとめず、優雅に微笑みかける。

「それでいいんですよ、赤井さん。いえ、旧姓は……」

 ばさりと放り投げられたA4サイズの封筒が、中身をばらまかせる。

「楠さん、でしたね?」

 それらを一瞥し、目を逸らした赤井に、青年は心の底から残念そうに続ける。

「彼は真実に近付きすぎました」

 ぴくりと赤井の眉が動く。青年は既に踵を返している。

「全てを守る為です。多少の犠牲は仕方ありません。これからも警察内部で何か問題があった時は、よろしくお願いしますね」

 腸が煮えくり返るとはこういう事かと、赤井は歯を食い縛り、耐える。

「そういえば……」

 思い出したように立ち止まると、こちらを顧みる。

「妹さんにお会いしましたよ」

 瞬間、赤井の顔が明らかに強張る。

『あの娘がいるからよっ!』

 あの時の叫びは、青年にとっても記憶に新しい。

 結の母は娘が全てを思い出してしまうのを、最も怖れていた。やっと授かった我が子を再び失う位ならば、狂気の先導者となる事もいとわなかった。

 だからこそ樹に冷たくあたっていたのではないだろうか? そうでなければ普段は穏和な彼女が、村人を煽動するような発言をするとは到底思えなかった。

「では失礼します」

 一人になった赤井は、目の前に広がる紙の中から一枚を手に取った。その目には、彼が○○村の楠家から赤井家に養子に出されたという事実が記されている戸籍謄本が映った。

 友と呼べた存在と将来を期待していた若者を思う。

「……すまない」

 変えられようのない現実をシュレッダーにかけ、粉砕する。そして他の書類だけを元通りに丁寧に封筒にしまうと、左側にある一番下の引き出しを開ける。

 指紋認証システムになっている金庫に秘密を封じ込めると、革製のフォトフレームが視界に入る。そこには楠純が生まれたばかりの赤子を幸せそうに抱いている写真が収められていた。


 屋上を出て階段を降りきると、薄暗い廊下に佇む青年と目が合った。面識はなかったが相手から目礼をされたので、それに合わせる。

 変な表現だとは思ったが美しい、そして儚いと思った。

 この印象は以前も何処かで抱いた事がある。記憶を思い巡らそうとした時、青年がすっと動いた。

 出口に向かい、真っ直ぐに歩いて行く。外から入り込む陽光に、その身が吸い込まれていく。

 暫し佇み見送ると、来栖は署内にある一室の扉を開けた。

『次のニュースです』

 部屋に備え付けられているテレビから流れて来る。

「来栖さん、届いてましたよ」

「ありがとう」

 まるで彼が戻るのを待ちわびていたかのように、一人の刑事が一枚の紙を差し出す。受け取ると、用紙に印刷されている送信元の名を確かめた。

「橘からか」

 それは数日前、〇〇村の近くで発見された身元不明の遺体について記されたものだった。

 最終的には現場の状況などから、事故と断定されるだろうと聞いている。しかし来栖は何かが引っかかっていた。

 そこで捜査にも協力し、担当した所轄署とも密接に関わりのある仁に、報告書を送ってもらえないかと頼んだのだ。

「あ、もう一枚来ましたね」

 古びたファックスから、耳障りな機械音と共に情報が吐き出される。

 その時、けたたましく電話が鳴り響いた。急いで駆け寄ろうとした若い刑事を制し、受話器を取る。

「はい。刑事課強行犯係、来栖です」

 同時に新しく届いた用紙を手渡される。

『□□署から御電話です』

 オペレーターからの伝達に、噂をすればかと思う抜群のタイミングで連絡が入る。

「繋いで下さい」

 そう告げると数秒の後に切り替わり、担当刑事の声が届く。挨拶もそこそこになってしまったのは、緊迫した空気を瞬時に察したからだ。

「はい……はい……え?」

 思わず声を上げる。

「遺体が……消えた?」


 話を聞き終えた来栖は右手に握られた受話器を戻そうとして、左手に視線を落とす。その瞬間、全てが止まった。

『臨時ニュースです』

 次いで急にはっきりと、テレビから聞こえるアナウンサーの正確な声を脳が受け入れた。そのまま、ゆっくりと振り返る。

『身元不明で発見された遺体でしたが……』

 来栖が目にした情報と画面に映し出された写真。

 それは先程会った青年に、とてもよく似ていた。

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