葬送

 嘘をく。それが俺に出来る最大限の誠意にあたるから。

 真実を呑み込む。それで君が今は無理でも、いつか笑ってくれるかもしれないから。

 だから、共有する。この秘密を……自分の意志で。


 離れの庭は今日も美しい。

 司によって運び込まれた創を見た静は、真っ青になった。

 だが状況を瞬時に理解し、適切な行動を速やかに取る。両親に囲まれて眠る兄の横顔は、真っ白で血の気すらなかった。

「統」

 父に呼ばれ、はっと顔を上げる。

「書斎で待っていてくれ」

「わかりました」

 厳かな指示が下る。その時、静の視線が自分の腕に注がれていると気付く。

「統さん……あなた、怪我を……」

 不安で益々色を深めた瞳を振り切るように、統は離れから逃げ出した。


 黙々と書斎を目指す。辿り着き、中へと入る。

 後ろ手に閉じた扉に寄りかかると、背中からずるずると座り込んだ。

 右腕の傷よりも心が痛い。収拾しきれない情報と受け入れがたい事実に、脳が拒絶反応を示す。

「啓……」

 呟きは渦を巻き、統の体に重く伸しかかる。

 樹が既に屋敷に戻り、休んでいると聞いても、今は会いに行けなかった。まして創に対しては、どんな顔をすればいいのかすら見当もつかない。そして、啓が見付からなかったと告げられた時の喪失感。

 警察官という立場もあり、仁は自警団と合流が出来次第、再び捜索を行うと残った。その間に司は創と統を連れ帰り、警察へと連絡をした。来栖達にも一緒に捜してもらえればと考えての判断だった。

 それから、どれ位の時間が経ったのだろう? あの春の午後にも座っていた三人がけのソファに沈み込んでいると、ノックの音が響いた。

 どう返せばいいのかも思い付かない。そんな息子を察してか、司は無言で扉を開いた。後には静も続く。全員が向かい合ったのを確かめ、司は重い口を開いた。


 唇を震わせながらも気丈に振る舞う母が痛々しくて、統は視線を床に落とす。そして両拳を、膝の上で握り締めた。司の告げようとしている事が、悪い事以外に他ならないと気付いてしまった。

「昨夜の発作の際、創が吐血した」

 堪えきれずに、静が顔を背ける。

「体が大分衰弱している。ここ数日が山になるだろう」

 統は何も言えなかった。でも、もうこれ以上誰かを失うのは耐え難かった。

「それから樹だが……」

 司の表情は、以前厳しい。

「高熱が続いている。雨に濡れたせいもあるが、ショック性の可能性も高い」

 ショック性。樹は何かを見たのだろうか? 何かを知ってしまったのだろうか?

「一瞬だが目覚めた時、かなり混乱していた。もしかすると、また記憶障害を起こしているかもしれない」

 PTSDの再発。だが、統は思う。あの苦しみから逃れられるなら、それもいいかもしれないと。しかし直後、樹が記憶を失ったままでいて欲しいと願いそうになった自分に対し、反吐が出そうになる。

 でも、そうだろう? あの無垢な瞳で問われたら、逃れられない。きっとまた傷付けてしまう。

 真実を知る事が全てじゃない。知らなくて済むなら、そのままの方がいい事もある。そう言い訳をして、本当は自分自身が逃げていた。

「創は、どうして山に?」

 最もな問いを静はぶつける。

「静……」

 司は呻くように呟き、瞳を伏せた。沈黙が流れる。

「俺、樹の様子を見て来ます」

 嘘だったが、席を立った。ここから先は夫婦の……秘密を共有した二人の領域だと思った。

「統……」

 久し振りにそう呼ばれ、統は母を見た。何かを確信したのか、その目が大きく見開かれると、次第に表情が強張っていく。

「ああ……ああ……」

 泣き出した妻を司は支える。そっと部屋を出た足は、無意識に離れに向かっていた。


「二人共……知ってしまったのですね」

 震える涙声。静が一番恐れていた事。それが今、現実となって目の前にある。

「創が……統を殺めようとしたそうだ」

 淡々と話しながらも司の内側は嵐だった。何がどうして創を凶行に駆り立てたのか、ずっとずっと考えていた。

「創が? まさか……そんな……」

 ふるふると静はかぶりを振る。

「あの子が統を? 兄が……実の弟を?」

 最後はヒステリックな金切り声に近くなる。それでも司は感情を抑えさせようとは思わなかった。無理に捩じ伏せてしまえば、静という硝子細工が壊れてしまう。そんな気がした。

 20年間、彼女は秘密を呑み込み、母として妻として健気に努めてきた。その姿を誰よりも側で見ていた。

「桂の血のせいですっ!」

 その考えから未だに逃れられず、静は半ば叫ぶ。

「この体に流れる血を浄めようと、あなたとの縁組みが取り決められたというのに……! あの時、やはり……!」

 しかし、それ以上は言えなかった。それは嘘になってしまうから。

 自分の心を偽る事は出来ない。創を否定してはならない。

「創は自分が使いにされると信じている」

 使いと聞いた静の顔に、激しい動揺が走る。

「どうして……そんな訳ないのに……だって、使いならば、もう……!」

「実の息子ではないのに、この世に生を受けたのは統を守る為。だから私達が面倒を見てくれていたのだと思い込んでいる」

 交錯する思い。すれ違う心。

「創……」

 静は再び泣き崩れる。伝えなくてはいけない。心の底から強く思った。

「だから……あの子を……連れていかないで……」

 それは切なる母の願い。細くなってしまった肩をそっと抱き寄せると、腕の中で妻は小さく震え続ける。親として戦うべき問題が目前に迫っている。司は決意していた。


 視界から消えた後ろ姿。声を限りに叫んだのに届かなかった思い。後一歩でも身を乗り出せば、自らも落ちてしまいそうな程に手を伸ばす。

 何も見えない暗い底。鼓膜に刺さる激しい水音。思い出が沢山ある川。

 そこに……啓が吸い込まれてしまった。

 どれ位、泣いたのか。どれ位、叫んだのか。

 喉が切れかけているのか、痺れる痛みが声を霞ませる。

 動けなかった。ここから動いたら、その死を認めてしまいそうで怖かった。

 何もかもが夢で目覚めたらいつもの朝が始まる。そう信じたかった。


 真っ暗な闇の中に染み入るモノ。その一雫は波紋を広げる。

 ああ、誰かが呼んでる。

 生まれる前も生まれてからも、沢山沢山泣かせてしまった。

 お母さん……お母さんは幸せでしたか?

 望まれぬ子を授かり、苦しくなかったですか?

 秘密を抱えて、ずっと生きていくつもりでしたか?

 すうっと目を開けると、小さく深呼吸する。頭痛と倦怠感に吐き気が込み上げ、体は正直だと可笑しくなる。ほんのりと明るい室内。自分がいつもいる場所だと認識する。

「また……戻ってきてしまった」

 そう自覚してから周りを見渡せば、創の足元にある部屋へと続く襖の前に誰かがいた。

「……統?」

 寄りかかりながら眠る顔からは疲労が色濃く見え、胸を締め付ける。

 こんな感情を抱くなら、何故あんな事をしたのだろう? わからなくて、ただその姿を見つめていた。

「泣いていたのは、お母さんじゃなくて……統、お前だったんだね」

 わかっていた。自分に残された時間は、もう残り僅かだと。 

 託された思いがある。脳裏を過るのは自分のせいで関わってしまった人達。

 失われた命。救うべき命。自分の犯した罪は自ら償うべきだ。それでも、この体は言う事を聞いてくれそうにない。

「だから……もう少しだけ……」

 穏やかな眼差しを弟に注ぐ。そして、ゆっくりと目を閉じる。

「……伝えられなくてごめん」

 そのまま創は、深い眠りに落ちていく。

 その時が来るまで、今はまだ……夢の中へ。


 静かな葬儀だった。らしくないよ、と統は心の中で思う。

「こんなの……お前には似合わないよ」

 空っぽの棺。白い花の列。祭壇に置かれていたのは、笑顔の啓の遺影だった。

 捜索は大々的に行われた。しかし、二日経っても痕跡はおろか遺体すら探し出せなかった。結局啓は見つかず、その後、事件は被疑者死亡という形で締め括られたという。

 必ず再捜査に来ると告げ、来栖は去って行った。その顔は苦渋に満ちていて、統は心抉られた。

 相棒の死の真相を突き止めたいに違いない。それがわかるからこそ、辛かった。

 それから更に三日後。啓の葬儀を決めたのは司だった。異論を唱える村人はいなかったが、納得しているとは到底思い難かった。

 だが、司は絶対的存在だ。父が白だと言えば、黒すら白になる。

 そう考えて、自分もそれを受け入れた事に統は気付いた。

 それしか道はなかった。それしか。


 あの夜、理と啓は入れ替わった。

 揉み合いの末に啓が手にしたナイフが、理を傷付けたのだ。

 しかし理は……いや、理の姿をした槙は死を拒んだ。

 何が起こったのかは、当事者ではないから推測でしかない。だが多分、啓の体に自らの魂を植え付ける事が出来た。そして、啓の魂は消滅した。

 もしそれが、12年前の儀式のせいだとしたら言葉もない。

 魂だけが残る。そんな方法で永遠の命を手に入れて、どうするというのだろう?

 輪廻転生。体という器を失くしたとしても魂だけは天に還り、いつか姿を変えて新しく生を受ける。そのことわりを全く無視した禁忌。

 それを執り行える血が、己の体に流れていると思うだけで胸が焼け付く。吐き気をどうにか堪え、統は視線を巡らせる。

 それでは……あの人も? あの人も? あの人も? 皆、器を入れ替え、生き永らえてきたのか?

 儀式を甘んじて受け、慣れ親しんだ体を捨て去り、魂だけを新しい者に吹き込む。永遠に生き続ける道を選ぶ。全てはこの山を、この村を……守る為だけに……?

 曖昧な現実から逃避したくて、統は隣を見た。そこには悲しみに震える樹がいる。ぎゅっと握り締めた拳は白く輝き、痛々しい。

 樹は違う。樹だけは違う。だから司は、樹が後継者たる自分と結ばれるのを怖れた。何故ならば、この村が今までに築き上げてきたものを壊してしまうかもしれなかったからだ。

 村の人間ではない者の血を受け継いでいる彼女は、器にならない。人としての一生を当たり前に送れる、創が求めて止まなかったかけがえのない存在だったのだ。

 目覚めた樹は、やはり記憶が混乱していた。あの時、どうして黙って山に入ったのか問うと、こう答えた。

『啓さんを探しに行った』

 それ以上もそれ以下もない。何を見たのか、何を知ったのかは当の本人ですらわからない状態だった。

 訪ねて来てくれた来栖は事情聴取を諦め、帰っていった。というよりも、この事件が解決したとみなされた今、その権限は消滅していた。

 創は未だ床に伏せている。一時期に比べると症状は大分落ち着いたものの、回復の兆しは見えていなかった。

 統の中で尚更に募るのは、これからどうすべきかという思い。一連の事件に区切りをつける為に、この葬儀が執り行われたのだとしたら、その後にはきっと。

 そこまで考えて、統は思考を止めた。真っ直ぐに啓の遺影を見つめる。

 今は友の死を悼もう。理の墓にも行こう。雪にも会いに行こう。全てはそれからでも遅くはないと思った時、空気が揺れた。次いで人々のざわめき。動きがスローモーションで見える。

 視線を巡らせた先に……獣の匂い。

「なっ! ……狼?」

 ただならぬ気配。その瞳には……樹が宿されていた。


 けたたましい音を立てながら、パイプ椅子が倒れていく。激しいうねりの中、統は樹を庇った。その背に隠れながらも、樹は獣を見る。

 その姿は村人の発した言葉の如く、狼に近かった。しかし全身は白く光を放ち、瞳は蒼い。精悍な顔立ちは凛々しく、大型犬くらいの大きさだった。

 息を呑む気配に微かに振り向く。樹は大きく目を見開き、更にがたがたと震え出した。そして、小さな小さな呟き。

「……お兄……ちゃん……?」

 一瞬、何を言っているのかわからなかった。だが、すぐに統も閃く。

 もし、あの時……頭の中でカメラのシャッターを切るように、次々と映像が鮮明に過ぎていく。


 遺体の見付からなかった啓。その中にいたのは樹の兄、槙。

 そして、12年前の儀式によって生まれた……柾理。

 もしも……もしも……! あの夜、二人が入れ替わってしまったのと同じように、槙の魂が獣を喰ったのだとしたら?

 獣? 使い? 創の言葉が、司の言葉が、ぐるぐると統の頭の中を回っていく。同調するように、周囲も混乱を起こしていく。

 怒号。悲鳴。入り乱れる複数の足音。粛々とした雰囲気は一転、大きく覆ってしまった。

「そんな姿になってまで私を……私を守りたいのっ?」

 樹の悲痛な叫び。その時、獣の瞳が翳った気がした。

「山神様の使いじゃ……」

 誰かが呟く。その言葉を皮切りに、加速した狂乱が駆け抜けて行く。

 村を穏やかに保てないから、山に沢山の余所者が入ったから、山神様が怒って使いを村に寄越したのだと、村人達は怖れおののいた。

「樹っ! 落ち着けっ!」

 泣き叫ぶ声に我に返った統は、樹の細い肩を押さえ、自らに向かせる。

「あの娘がいるからよっ!」

 女の金切り声が響く。一斉に向けられた目。それらには狂気が宿り、統を貫き、樹を捕えた。

 狂ってる。彼らは樹に、いや余所者に原因を擦り付けて、自分達の苦しみから逃れようとしている。

 村人達が今にも二人に襲いかかろうかとした時、獣が身を翻し、威嚇した。低く唸る声が響き渡ると、山神様の使いだと信じて疑わない者達は怯む。

 すると一つの影が群衆の中から、一歩前に踏み出した。その存在は周囲を沈黙させる、圧倒的な力を持っていた。


「……兄貴?」

 床に伏している筈の創が立っていた。

「創っ!」

 一旦離席していた司が騒ぎに気付き、駆け付ける。共に現れた静が息を呑み、立ち止まる。

 創の手には猟銃があった。

「兄貴っ!」

 ゆらりと構えられた銃口は、真っ直ぐに獣に照準を合わせている。

「……い、や……」

 全てを察した樹は、統の背後から飛び出そうとした。

「危ないっ!」

「止めてっ! お兄ちゃんをこれ以上苦しめないでっ!」

 力ずくで引き止めると、統はそのまま樹を抱きしめた。その瞳に映る世界、全てを遮断する為に。

 耳に突き刺さる銃声。獣の小さな咆哮。

「いやあぁぁあぁぁっ!」

 腕の中で身を捩りながら、樹は絶叫する。真っ白な体を深紅に染められた獣は床に倒れる。

 その口元からも血を吐き出すと、呼吸が抜ける音と荒い息遣いを発する。致命傷を与えてしまった事は明らかだった。

 創は猟銃をだらりと下ろしたまま、立ち尽くしている。そんな息子の姿を目の当たりにした静は、その場に震えながら崩れ落ちてしまった。

「静っ!」

 振り返った司は妻を介抱する。しかし創は周りには一切見向きもせず、一歩ずつ確実に瀕死の獣に近付いていった。

 手前で立ち止まると見下ろす。獣も目だけを創に向ける。

 すると創は跪き、そっと獣の頭を撫でた。

「私は……使い魔殺しだ」

 全員が言葉を失う。だが創の発した意味を理解した村人達は、まるで蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。そして統と樹、司と静、仁と知だけが、その場に残っていた。

 細すぎる腕で獣を抱えると、どうにか創は立ち上がる。

「いこう」

 金縛りにあったように動けない統達を振り返る事なく、歩き出す。

「あ……ああ……」

 静の声にならない呟きを耳にし、統は叫んだ。

「兄貴っ!」

 その時、初めて創は振り返る。身に付けた着物は白く、獣の血で胸から下にかけ、赤く染まっている。

 死装束だった。手にしていた猟銃にばかり気を取られ、今頃気付く。

 創は最初から、全てを自分の手で終わらせるつもりだったのだ。

「統」

 目を細め、微笑む。

「どうか幸せに」


 その時、統は知った。いや、気付いてしまった。

「……兄貴?」

 違う。貴方は……

「……槙、さん?」

 だが、統の問いは樹の声に掻き消される。

「お兄ちゃんっ!」

『樹を頼む』

 あの夜の全てが過る。それが貴方の望みなら……俺は……! 統は樹を再び抱きしめた。

「もう嫌っ! 樹を一人にしないでっ! お兄ちゃん……槙お兄ちゃんっ!」

 その時、創は微かに樹を見た。腕の中の獣もまた、死にゆく瞳の奥に少女を映していた。

「樹……樹っ!」

 統の叫びに小さな嗚咽を洩らしながら、その場に崩れ落ちる。支えながら、統は兄が去って行く気配を感じた。

「は……じめ……創ぇ……っ!」

 取り乱した母の姿が視界の片隅に飛び込んで来る。今にも泣き出しそうな顔で、父が押さえる。そんな二人を見たのは、後にも先にもこのたった一度きりだった。

 やがて、残された者達の哀しみだけで彩られた部屋に残酷な音が届く。

「兄貴が……この村の仕来たりに終止符を打ったんだ……」

 統の頬を幾筋もの涙が伝った。

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