18.〇ミリーの部屋 / 午後七時ぐらい (終)
バタン、背後で玄関のドアが閉まる音がした。
「も、戻った?」
ようやく視界が回復するまで体感で数分かかった。
相棒が両目を瞬いて言う。
そこはまたもリビングだが俺たちのサイズは元と同じ。
俺の傍の観葉植物は倒れて土をぶちまけている。あの崩壊寸前のムービーの後だろう。
しかし、リビングには誰もいなかった。ペーパーナイフも電話の子機も床に転がっている。ガラス戸は割れていないが日は完全に沈んでいた。灯りはついていないので薄暗い。
生命の気配は。
「……」
マリウスの表情が曇る。奴も半分くらいは勘付いたのだろう。
俺たちは無言でリビングを出てそこに行く。
「オウチ君」
「はい。ラスボスはこの先です」
ミリーの部屋の前で俺はブランチ氏に応じる。ブランチ氏ははっと眉を八の字にした。
ドアの向こうからごそごそと人の動く物音がする。
俺は包丁を抜いた。相棒はどっかに消えたスコップの代わりにアイスピックを持ち直し、空いている方の手でドアノブを握る。鍵のついていないはずのドアはギチッと音を立て開かない。
「何かあるな、ばーん」
メキメキッ!
とはいえ、マリウスが魔力を込めて無理やり引っ張ると何ということもない。内側から打ち付けられていたらしい板は折れた。
相棒がそのままドアを開けようとしたら、ブランチ氏が口を挟んだ。
「待ってくれないか」
彼は息を深く吸ってから俺たちに提案をする。
「このドアは、私に開けさせて欲しい」
俺は相棒と目を見合せる。
「またわがままを言って申し訳ないと思っている。でも、ミリーとはどうしても向き合いたいんだ。あんな奴でも、大事な妹なんでね」
「かまいません」
マリウスを目で促してどかす。俺の予想が正しければ危険はない。
ブランチ氏はノブを握ると少し躊躇し、開ける時は一瞬で引いた。
ギイィ……
『おいっ! 早くしろ!』
部屋の主は携帯に向けて怒鳴り声を上げていた。
顔を腫らしたミリーの眼は吊り上がって、あまりお近づきになりたくない感じだ。
『速く! マジでヤバいんだよ!』
彼女の視線は、寄り添う窓とドアを右往左往していた。電話を切るとドアの方に全力ダッッシュ。俺たちを掻き分け、すでに破られているのもお構いなしに、有る態でそこに耳を当てる。
必死にドアの向こう側の音を拾おうと耳を澄まし、怯えきった声が断続的に零れる。
『殺される……絶対アイツらに殺される……来てない……まだ来てない……』
物音がしないことを確認すると、ミリーはばね仕掛けの人形のように跳ね起きて部屋中をぐるぐるうろつく。
『クソッ、クソッ』
悪態を吐きながら彼女は部屋中のものひっくり返している。探し物をしているようにも八つ当たりをしているようにも見えた。
しばらくすると、携帯に着信。マッハで出ながら窓に貼りついた。
『来た!? ちゃんと裏か?』
どうやら窓の外に仲間を呼んでいるらしい。
ベッドの上にはパンパンのボストンバッグがあった。家出の準備は万端、しかしそれを窓際に引き摺る彼女の顔には、まだ余裕が無かった。
彼女は往年のオニババを思わせる形相で窓を怒鳴りつけた。
『クッソ! 鍵はどこなんだよ!?』
「鍵?」
ブランチ氏が驚いて俺の方に向き直る。
ジャケットのポケットに入れていた小さな鍵を摘まみだす。
恐る恐ると言った感じで依頼人がそれを見つめてくるので、俺はなんとなく彼に渡すことにした。
「どうぞ」
「え……」
ブランチ氏は指先をプルプルさせながら取り、フラフラしながらミリーに近づき、それを差しのべた。
〈NPC〉は自動的に鍵を受け取る。
そして。
『あった! これで』
陽気なファンファーレが鳴った。
ラスボス戦、終了。
途端、ダンジョン内の魔法が解けていくのを感じた。外の空間がしぼみ、十年ぶりに元の3LDKへと復帰していく。
「あ、イベント戦闘……」
阿呆のように口をあんぐり開けていた相棒が、正気に返って言う。
『よしっ』
ファンファーレが止むと彼女は受け取ったそれを窓の鍵穴に差し込む。
夜の窓が開かれ、白いカーテンが風に吹かれてはためき、外の電柱にはカラス。
『おら』
ミリーはボストンバッグを放り投げる。ポスッと軽い音がする。
窓の下を覗いてみると、ミリーの作った売春グループの面子と、どこから盗んできたのか分厚いマットが用意されていた。
それから、彼女は窓の桟に足を掛け、こちらを振り向いた。
強く噛んだ唇から血の滴が落ち、最後の言葉を紡ぐ。
『ごめんね、お兄ちゃん』
ボスッ
彼女は飛び降り、マットに受け止められた。
それから仲間たちとここを立ち去る。もう二度と振り向かなかった。
「ミリー……」
俺は呆然と立ち尽くす依頼人に言葉を掛ける。
「あ、これで攻略は終わりです」
オーケストラがエンディングの〈BGM〉を演奏し始める。
曲はハバネラ。歌手はミリー・ブランチ。
下手くそなフランス語で、優雅なメロディを朗らかに歌いあげる。
作られた夜の闇色が抜け、午後の濃い青空に変わっていく。
遠くに咲き終わりの桜の木が見えた。ランスレーの桜は咲くのも散るのも早い。
「……あの鍵。まだミリーが小さいころ、遊んで落ちたら危ないからって隠しておいて……部屋が変わったら、どこにやったか忘れてしまって……言いだせなくて……」
それきり、ブランチ氏はその場に膝をついてしまった。
「……なんでだ?」
マリウスは突然ドアから飛び出して、しかし、すぐ戻ってくる。
この家のどこにも死体が無いのを確かめた相棒は俺に問う。
「なんで、誰も死んでないんだよ!?」
「俺たちはずっと勘違いしていた」
「何を?」
「生存者がいないからと言って、絶対に死者がいるわけじゃない」
俺たちは生命の魔術師であって、霊魂の専門家ではない。あと大馬鹿だ。
だから、こんな簡単なことにも気付けなかった。
「そんな……」
「ここに惨劇なんて無かった」
誰も誰かを殺してなんかいなかったのだ。
でも、辛くて一緒にいたくなくなってしまったから、
「みんな逃げ出して二度と戻らなかっただけだ」
身元を隠し過去を偽り、きっとこの世界のどこかで生きているのだろう。
相棒は絞り出すような声で最後の質問をした。
「どうして、こんなことに」
それはこの家の哀しみの本質。
「恋は野の鳥、誰にも懐かない」
少し胸が苦しくなる。少しだけ、続きを言いたくない気がした。
だけど、止めてはいけない。俺は推して言葉を紡ぐ。
「この家の人たちはみんな家族に恋していたけど、自分の家族は愛せなかったんだ」
寝室で夫婦は幸せを誓い合っていた。
公園で兄妹は絆を信じていた。
どこにも憎しみなんて――
「こんなのってないや」
マリウスがポツリと呟く。前髪をぐしゃぐしゃ揉んで、どうにかもう一言喋った。
「こんなお話、ひどすぎるよ」
その声はブランチ氏の背中に吸い込まれるようにして消える。
ところが彼は、思いの外明るい調子で答えた。
「いや、いいんだ。何も私を待っていなかったとわかっただけで満足だよ」
ミリーは無邪気にハバネラを歌い続ける。
ブランチ氏はそれを聞いていて、僅かに見える横顔は仄かな笑みだった。
「ここはもうとっくに私の家じゃなかった……」
俺たちは何か彼に言葉を掛けたかったのに、やっぱり適切なものが思いつかない。
ただただ黙りこくっていると、うろ覚えの訳詩が頭に浮かぶ。
ミリーが歌う恋の歌。
捕えた鳥は
羽ばたき すり抜け 籠の外
焦がれるまでは 待ちぼうけ
あきらめたころ 降りてくる
四月の風が部屋に吹き込んでくる。
「あの、ブランチさん。帰りの電車の時間が」
「大丈夫、すぐに立てる」
彼は右手を挙げて、何でもないように軽く振る。
「確かに今はキツくて何も考えられないけど、どうせまた欲しくなるんだから」
くるくると
近づき 離れて もう一踊り
手にはいるとでも 思ったの?
羽さえ のこさず 消えてやる
「これで私もやっと前に進める。
オウチ君、レポリッドさん、本当にありがとう……」
逃げられるとでも 思ったの?
お前を 死ぬまで はなさない
そう言いながらもブランチ氏は結局、日が暮れるまで立つことができなかった。
恋は野の家 しのびかに黒髪の子の泣く音きこゆる @hailingwang
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