針と糸

阿井上夫

針と糸

 玉羊羹たまようかんという名のお菓子がある。

 福島県の和菓子店が最初に考案した、例の「ゴム風船の中に丸い羊羹を入れたやつ」のことだ。

 その、ぷちぷちとした張りのあるゴム風船の表面に、爪楊枝をちくりとつき刺すと、ゴム風船がつるりとめくれあがって、中からつやつやとした羊羹がころりと転がり出る――オノマトペを多用したつたない表現で誠に恐縮だが、こうするとその瞬間の気持ち良さを、より理解して頂けるのではないだろうか。

 実際問題、その瞬間に脳の快感中枢が刺激されてエンドルフィンが大量分泌されるものだから、中毒になる者が後を絶たない。大変に危険な食べ物だ。


  *


 朝、目が覚めたら彼の右手親指の先に、ふっくらとした水膨みずぶくれができていた。

 昨日は泥酔して家に帰ったものの、誤って熱いものに触れたという覚えはない。だから、この水膨れは火傷やけどによるものではないし、火傷と違って痛くもかゆくもなかった。

 ただ、体液が充満して内側からパンパンに張りつめたその緊張感のある存在が、どうにも鬱陶うっとうしくて仕方がない。満員電車の中で遭遇した「座席で足を組むサラリーマン、遠足往路の小学生集団、秘密がダダ漏れな甲高い女子高生の会話」並みの不愉快さである。微妙に間延びした指紋が表面をいまわっているのも、実に腹立たしい。

 ともかくつぶしてしまおうと思い、左手の爪先で水膨れの表面をつまみ上げて一気にえいっと――


 やろうとした寸前で思いとどまる。


 やはり、こういうものは針でついて中身だけを出した方がよかろう。変に大きな傷になったら雑菌が入りやすくなる。

 しかし、彼は裁縫さいほうを一切しないので、家の中には針がなかった。

 他に何か先のとがったものがないか探していると、高校の時のネームプレートが出てくる。裏が安全ピンになっているので、実に具合がよい。

 そこで、安全ピンの針をむき出しにして、水膨れの丸くなった頂点付近にぷすりと――


 やろうとした寸前で思い留まる。


「そういえば、古いものだから針も相当汚れているだろうなあ」

 と気づいたからだ。危ない、危ない。

 彼はライターを持ってきて、念入りに針先を火であぶった。

 ライターの炎で赤くなる針を眺めながら、

「そういえば、最近のライターはむやみに着火ボタンが重くなっていることがあるよなあ」

 と、彼は考えた。

 子供が悪戯いたずらをして火災を引き起こさないように配慮したらしいが、最初にそのことを知った時、

「えっ、気にするところって、そこなの?」

 と彼は思った。

 ボタンが重すぎて指で押し下げる勢いがつかず、簡単に着火できないライターというのは、点火用具としてどうなのだろうか。むしろ、注意書きを読まない、読めない者の失敗は自己責任だろう。子供が心配ならば親が注意深く保管すればよい。

 横着者がさらに横着できるようになる解決策でいいのだろうか。

 世間をうれえながら、彼はしっかりと熱消毒した安全ピンの針をぷりぷりとした水膨れの先にあてて、ちくりと――


 やろうとした寸前で、玄関のチャイムにさまたげられた。


 玄関の扉を開けてみると、箱を持った宅配便の配達員が立っている。配達員から箱を受け取ってから、彼は、

「そういえば、ネットのお取り寄せで玉羊羹を注文したなあ」

 と思い出した。

「まあ、とりあえず食べようか」

 と、独り言を言いながら包装紙をやぶいて箱を開ける。すると、中にはつやつやとした見事な玉羊羹が、ちんまりと八つ並んでいた。

 ひとつ取り出して爪楊枝を持とうとしたが、そういえば右手親指が不自由である。仕方なく左手に爪楊枝を持ち、玉羊羹の表面にその鋭利な切っ先を押し込もうとしたところで、予想以上に張りのある表面に不慣れな左手がはじき返され――


 添えていた右手親指の水膨れに、爪楊枝を突き刺してしまった。


 まあ、それで彼の体表面がつるりと裏返ったとしたらこの手の話としては面白いのだが、現実ではそんなことは勿論起こらない。パンパンにつまっていた体液が、ちょろりと漏れ出ただけである。ただ、思った以上に大きな穴になってしまったので、ティッシュペーパーで体液を吸い取った。

 すると、水膨れが裂けたところから何やら糸のようなものがひょろりと出ており、その先端に、

「引くな」

 と注意書きがある。それに特に注意を払うことなく、糸をぐいと引っ張ってみると――


 思ったよりも長い。


 同時に、ずるりと何か身体の奥のほうから芯のようなものが抜けてしまう感じがした。次第に指先から繊維状に身体が崩れてゆく。

 彼が最後に知覚したのは、まるで最も重要な糸を抜き取ってしまったがために形が崩れた編み物のような、全身がそんなぐずぐずした状態になる感覚と、

「ああ、俺は注意書きを無視して、やってはいけないことをやってしまった」

 という後悔だった。


( 終り )

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針と糸 阿井上夫 @Aiueo

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