㊾[終]

 有沢が指定した場所を見て、肩を落とした。それから日付を見て、愕然とした。

 場所は横浜の郊外にある墓地。日付は、野崎悠介の命日だった。無視するわけにはいかなかった。

 当日、道哉はZ900RSに跨り現地へ向かった。都心を抜ければ後は空いている道を軽やかに飛ばす。だが心は軽やかとはいかなかった。自分が彼に会いたいのか、会いたくないのかわからなかったのだ。

 道哉が漂着した御前崎に、真っ先に駆けつけたのは有沢だった。使えるものは全部使えという道哉の言葉を忠実に実行した紅子が、WIREのパブリックラインへの投稿を発見した直後に彼に連絡し、そして彼はやってきた。道哉が、いつかこれに乗りたいと思っていたバイクを走らせて。

 誰かの後ろでバイクに乗ったのは、教習所を除けば後にも先にもあの帰路だけだった。あの時、張り合わなくてもいい、身近で、年上の存在を自分は求めていたのだと、道哉は思い知った。勝ちたい相手とか、越えたい相手ではなく、漠然と、将来は彼のようになりたいと思える男。もしかすると多くの人は、そういう存在を父と呼んでいるのかもしれない。

 だがそれ以来、彼と会うことはなかった。

 紅子がメッセンジャーとして遣わされたと知っても、何を今更、という思いが拭えなかった。

 これまでずっと放っておいたのに、今更呼びつけてなんの話があるというのか。担任でもなかったくせに――。

 そんな苛立ちからスロットルを開けば、並列四気筒は素直に応える。厚みのある排気音が、苛立ちに共感したように騒ぎ立てる。

 だが、現地に到着し、駐輪場へとZ900RSを低速走行させていた道哉は、先に停まっていたバイクを見て思わずエンストさせてしまった。あの日と同じCB1100EXだった。メッキパーツに錆が浮き、タンクの艶が薄れても、それは間違いなく有沢のバイクだった。

 エンジンはまだ熱を帯びていた。

 道を忘れたかもしれない、と思ったが、バイクを降りて少し歩けば、以前訪れた時の記憶が一気に蘇った。道哉は、野崎悠介の墓のあるところまで、迷わずに歩を進めた。待っているだろう男のことを思えば、むしろ迷いたかった。

 前に来た時は、片瀬怜奈が一緒だった。あの時は、ペットを埋葬する場所があることとか、往路の電車内で読んでいた本のこととか、下らない話ばかりしていた。確か、父の書庫から拾い上げた、ハードボイルド小説だった。

 友を殺された探偵の男。彼は女依頼人と共に、事件の裏にある陰謀を追う。すると全ての元凶はある一体の彫像であることが明らかになる。犯罪組織との戦いを経て、探偵はその彫像を手に入れる。だが彫像は偽物だった。それを巡って多くの血が流れたにもかかわらず。そして虚ろだったと判明した像の正体を、何も知らない警官に問われた探偵はこう答える。

 「夢が詰まっているのさ」と。

 そしてふと、最寄り駅に着いた時、怜奈から食事に誘われたことを思い出した。当時の彼女は、人前で食事をしない主義だと公言していた。だからあの時は、妙な気まぐれとしか思えなかった。今ならば、彼女が心を許してくれていた貴重な一瞬だったのだとわかった。

 男は、待ちかねていたかのように、姿が見えたときからじっとこちらを見ていた。

「久し振りだな、憂井」

「……老けましたね。なんです、そのヒゲ」

「お前にも不評か。やめようかな」ライダースジャケット姿の有沢は、口髭を撫でつつ応じる。

 有沢が持参していた花を供え、墓石を清める。親だろうか、誰かが定期的に訪れているらしく、汚れは苦もなく落ちた。

 線香を上げ、手を合わせた。何を祈ればいいのかわからなかった。野崎に胸を張って報告できるようなことなど何もなかった。

 上がる煙をじっと見る。遠くで鳥が鳴く。もうすぐセミの合唱に置き換わる季節だった。

 線香の長さが半分になった頃、道哉は言った。

「なんの用ですか。わざわざ羽原を遣いに寄越して。あいつ怒ったでしょう。他人のために一肌脱ぐなんて柄じゃない」

「別に用事はない。でも、年に一度会うくらいはいいだろう」有沢は墓石に目を向ける。「彼を口実に使っているようで、少し罪悪感はあるけど」

「年に一度、年賀状のように」

「お前は彼の魂を救った。でも、それは、本当は俺の仕事だった。お前が教育学部に進んだと聞いて、嬉しかったよ」

「男は真似されると喜ぶ生き物です」

「まあそれもあるが」有沢は鼻先で笑う。「お前なら俺よりもいい教師になる。俺ができなかったことをきっとしてくれる。そう思った。教職課程は取ったんだろう。ならどうして……」

「教員採用試験を受けてまで教師になりたくはなかった。それだけです」

「向いてると思うぞ。成果が曖昧で、多くの人のために滅私奉公して、それでも多くの人に責められ憎まれる仕事だから。まるで覆面のクライムファイターのように」

「ならもう二度とごめんですよ。親の遺産も、正式に俺が相続しました。生活には困ってませんから。道場のお陰で、一応、社会との接点もあります。誰かに何かを教える喜びも」

「そうか」

「俺のことより、先生はどうなんですか。もういい歳でしょ」

 すると、有沢は急に相好を崩した。「今年四歳になるんだ。息子がね」

 へえ、と応じながらも、道哉は自分の中の熱が急に冷めていくのを感じた。

 つまらない男になったな、と思った。

「結婚したんですか。いつの間に」

「職場の元同僚でね。今は独立を考えてる」

「それは……凄いですね。お仕事は何を?」

「しがない塾講師。結局、教える職しか肌に馴染まなくて」

「じゃあ自分で、塾を持つんですか。ますます凄いな。うちの門弟、紹介しましょうか」

 心にもない世辞がすらすらと口をついて出た。それで自分も、つまらない男になったと思った。

「それは嬉しいな。生徒集めが何より肝心だからな」

「開業したら教えて下さいよ」

「そのことなんだが」有沢は、首筋に片手を当てて言った。「講師を探してるんだ。お前、教える気はないか」

 線香から灰の塊が落ちた。

「……俺が? そういうのは、実務経験がある人がいいでしょ」

「厚かましいかもしれないが、俺はお前に、機会をあげたいんだ。お前には、何も返せなかったから」

「何も?」道哉は思わず、有沢を睨み据えた。「俺の身代わりになった人が、何言ってんですか」

「お前が困っているなら……」

「困ってないって、言いましたよね」道哉は踵を返した。

 待て、と言って追ってくる有沢に構わず、来た道を戻る。

 そして駐輪場まで戻って、足を止めた。

 駐輪場のすぐ横には藤棚があり、スタンド灰皿が置かれていた。

 そしてその灰皿の横に立って煙草を吹かす女がいた。

「……怜奈」

「よっ、道哉」片瀬怜奈が片手を上げた。

 ごくシンプルなデニムにジャケット。黒髪は学生時代より随分短くなったが、艶やかさは当時のままだった。

 彼女がいつから煙草を吸うようになったか、思い出せなかった。

「そんなのやめろって言ったろ。早死するから」

「バイクの方が早死すると思うけど」

「今日は電車?」

 怜奈は頷くと、煙を吸って、吐いた。「それに、喫煙よりも、孤独やストレスの方が人の寿命を縮める。つまりあたしが早死したら、あんたのせい」

 追いついてきた有沢が言った。「自分が誘ったらお前は来ないだろうって、彼女が羽原さん経由で俺に」

「……回りくどいことを」

「それにしても、画になるね、片瀬さん」

「画になりたいだけですよ。そういうところ、俗物ですから」

「聴こえてるんだけど」怜奈は煙草を押し消した。「ちゃんと話せた?」

 とても、と有沢が応じ、それなりに、と道哉が応じた。

 すると有沢が、道哉の肩を叩いて言った。「それじゃ、講師の話、考えといてくれ」

「俺は何も困ってないって、言ったでしょ」

「でも苦しんでいるから」

 それで道哉は、何も言えなくなった。

 有沢は微笑むと、バイクに荷物を詰めた。そして、何かを投げて寄越した。

 訝しみつつも受け取る。

 ハーフヘルメットだった。何かのステッカーがべたべたと貼られ、地色がほとんど見えなくなっていた。

 戸惑っている間に有沢はヘルメットとグローブを着け、押し出したバイクに跨っていた。

「先生、なんのつもり……」

 有沢は応じることなく、片手を上げて走り去った。

 残された道哉は、致し方なく怜奈と顔を見合わせる。

「やっぱり気障だよね、有沢先生」

「だね」遠ざかる車影を見送りつつ道哉は言った。「俺にリッターはまだ早いよ」

「何話したの?」

「つまらない話を、色々」

「ふぅん」あまり興味はなさそうだった。彼女の目線は道哉の手元に向いていた。「……それは?」

 排気音が遠ざかっていく。

 温かい南風が吹き、木々の葉を揺らした。ようやく、薄着でもバイクに乗れる季節だった。

 そして手元を見て、道哉は思い出した。

 一七歳の夏に、電話越しに交わした約束を。

「ごめん。遅くなった」と道哉は言った。

「なんのこと?」

「俺にリッターはまだ早いけど、タンデムシートとステップはついてるから」

「タンデムって……」

 怜奈は眉をひそめて、それから目を見開いた。

 道哉はハーフヘルメットを差し出した。

「行こうよ、江ノ島」



 [終]

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