冬が終わり、春が訪れる。

 憂井道哉は三年生に進級。だが始業式からいきなり一週間も欠席し、担任教師の頭を悩ませた。保護者、ということになっている道場主の榑林一真は担任教師が何を言ってもはぐらかすばかり。別の保護者、ということになっている榑林一夫に連絡を取っても、『彼のしたいようにさせてあげてください』という答えだけだった。

 そして一週間後にようやく登校した憂井道哉は、なぜか坊主頭だった。生徒指導室で面談するも、言うことはやはりあからさまなはぐらかしばかりだった。

「お前、大丈夫か?」と教師は訊いた。憂井道哉は、なぜかずっと息切れしているかのように、浅い呼吸を繰り返していたのだ。

「大丈夫です」とだけ彼は応じた。

 そんな事件のために担任は彼のことを気にかけざるを得なかったが、一学期の中間試験の成績は悪くなかった。むしろ、二年の時より格段によくなっていた。国公立大学も狙える水準だった。

 やがて、担任教師の男にとって、憂井道哉は家庭環境が少し特殊なだけの、普通の生徒となっていき、それ以上の強い印象は残らなかった。

 だが、ごく少ない友人たちにとって、三年に進学してからの彼の変化は驚くほどだった。

 まず、真面目に授業を聴くようになった。いつも教室にない何かのために焦っているようだった彼が、黒板を見てノートを取っている。時々質問までするようになった。補習に引っかからないぎりぎりか、あるいは引っかかるような成績だったのに、クラスでも上位の成績を収めるようになる。

 昼休みにふらりと校外へ出ていくこともなく、もちろん、喧嘩などするはずがない。バイク通学は続けていたが、遅刻寸前にけたたましい排気音を鳴らして駐輪場に滑り込むような走り方は滅多にしなくなった。それどころか、校門を通る前に降りて、押して歩いてくる。

 そして、友人やクラスメイトにとって、何よりも大きな変化は、片瀬怜奈との関係だった。

 いつもというわけではないが、気づけば廊下や中庭の片隅で、ふたりにだけ通じるようなことを話していた彼ら。特に片瀬怜奈の方が目立つ存在だったため、彼女が目的があるのかないのかわからないような態度で憂井道哉の教室を訪れるたび、ちょっとした事件のようなざわつきが部屋中に広がっていた。

 そんな彼らが言葉を交わす姿を、誰も見なくなった。

 あまりにも突然だったため、最初は、ちょっとした喧嘩なのだろうと察し、誰も敢えて触れようとしなかった。だが一ヶ月経ち、二ヶ月経ち、夏になっても様子が変わらないため、友人らのひとりが思い切って憂井道哉へ問い質した。すると彼は笑って「別れた」と答えた。

 理由を訊いてもはぐらかすばかりだった。その笑顔の裏には他人を決して寄せつけない決意のようなものがあった。はぐらかしてやっているうちに黙れ、という静かな怒りが突きつけられているようだった。それでいつしか、誰も訊かなくなった。友人らやクラスメイトの間には、恐れが芽生えていた。二年の時に起こした喧嘩騒ぎのことを、記憶している者も多かったのだ。

 夏が過ぎ、秋が訪れた頃、理系進学クラスの羽原紅子という生徒が、何かのプログラミングの大会で賞を獲ったことが報じられた。それは高速かつ正確な画像処理とドローンおよび連動したメカトロニクス機構による倉庫内在庫管理システムの提案であり、主催は公的機関ではなく世界的なネット通販企業だった。高校生がそれを受賞するのはまさに青天の霹靂であり、ある分野では彼女は天才の名を恣にした。だが、彼女の業績の偉大さを理解する者は、同じ学校の生徒、教職員、その親まで含めても五人といなかった。

 同じ頃、片瀬怜奈のスナップが載ったファッション雑誌が教室の話題となった。その後彼女は読者モデルとして数度に渡り紙面を飾った。芸能事務所の人間が学校付近で目撃されることも増えた。だが当の片瀬怜奈自身はあまりこだわりがないようで、制服が冬服に切り替わった頃にはその手の活動からすっかり手を引いてしまった。

 そしてまた冬になった。

 憂井道哉は都内の公立大学の教育学部を受験し、無事合格した。片瀬怜奈は名門私大の建築・都市デザイン系学科。羽原紅子は国内最高峰の理工系総合大学へ進学した。

 高校在学中、彼らが一堂に会することは一度もなかった。



 二〇二〇年代が無人化の時代であったように、二〇三〇年代は省機械の時代になりつつあった。IIoTやAIの旗印の元に高度な自動化が推し進められた結果肥大化したメンテナンスコストと不必要な業務の高度化は、シンプル化を目的としたはずの世界に却って冗長の嵐を呼んだ。いかにシンプルでエラガントでメンテナンスフリーであるかが評価点となり、ミニマルであることの価値が見直された。

 そんな世の流れの大きな原動力が、老人に仕事を与えなければならないという、強く抗い難い要求だった。彼らは高度さを求めなかった。わかるものを望んだ。そして高度であることよりも楽であることを望んだ。

 雇用を維持するとは無駄を許容するということでもあった。即ち労働生産性を敢えて低下させることで雇用を増やし、見かけ上の就労人口を増やして税収が安定しているように見せかけるための施策が数多く行われた。

 一方で、高度さを求めない人間たちにこそ最も高度な道具が必要であるという全く皮肉な現実とともに、少数の労働力に多量の労働が集中する歪み構造はますます強まっていた。改革された働き方は労働量の二極化を生むばかりだった。

 そんな現代において、若者たちはより高性能で自分たちだけに通用する道具を求めた。零細の端末メーカーが多数勃興し、掌の上のコンピュータは年々そのマシンパワーを高めていった。メーカーの零細化はウェアラブル端末にオシャレの波をももたらした。個性的な端末を次々と乗り換えていく人々が絶えず、かつてのハードと回線が紐付いたキャリア制度は完全に終焉を迎えた。ここ数年では体内埋込み型の端末が流行の兆しを見せていた。

 東京を騒がせた一連の〈ブギーマン〉事件から五年の歳月が流れていた。


 二三歳。

 大学を卒業した憂井道哉は、結局職に就くことはなかった。教育学部を選んだのは少なからず高校時代に世話になった教師の影響であり、学校の先生になりたいという思いがないわけではなかった。だが、新たな場所へ進もうとする度、足が竦んだ。殴り倒してきた全ての人から、お前にそんな生活は与えないと言われているような気がした。

 高校生や大学生の頃は、まだその思いから目を逸らすことができた。だが、二〇を過ぎた頃から、巨大な後悔と心残り、自責に襲われるようになった。普通の生活。普通の日常。そこから浮遊している自分を好きでいられる時間はもう終わっていた。

 そして、〈スペクター・ツインズ〉のこと。

 夢の中で、「私たちを忘れないでね」と入江幻は言っていた。もしも普通の人のように忙しい日常を送っていたら、いつか彼女たちのことなど忘れてしまうに違いなかった。忘れないでいる今の自分に怒りと憎しみを覚えると同時に、忘れて前に進むこともできない自分にどうしようもなく苛立った。

 ならいっそ、また戦うかとマスクを被る。すると、辺りは暗闇に包まれている。

 太平洋の漂流から生還して以降、道哉は閉じた目で世界を見る力を失っていた。今の道哉は少し格闘術に覚えがあるだけのただの人だった。

 見かねた一真の勧めで、最近は時々、榑林道場で師範代として格闘術を教えていた。一真も考え方を改めたらしく、最近は門弟を取るようになっていたのだ。

 有り余る時間で大型免許を取り、バイクを乗り換えた。かの名車Z1の遺伝子を色濃く受け継ぐ二〇一〇年代の名車、Z900RSである。最新のモデルを買う気になれなかったのは、少なからず、自分がもう最新の存在ではないという意識があったからだった。

 バイクを走らせている時は、生きた心地がした。だが時々、そのまま不幸な事故で命を落としてしまいたくなった。

 思い出すのは、死の間際の首狩りゾエルとのやり取りだった。

 幸福になる権利。他人の幸福を奪うため、あるいは、他人の不幸を阻むために人ではなくなった時点で、その者は幸福になる権利を失う。

 かつての戦いの日々に縛られている今の自分を見れば、ゾエルの言葉が正しかったことを思い知らされる。

 そして入江幻の今際の言葉。

「忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」

 口に出す。肌寒いが日差しの麗らかな憂井邸の庭に、言葉が溶けていく。

 だがその日は、応じる者があった。

「下らん品のないメロドラマの文句に、何を感じ入っているんだ。随分変わったな、憂井よ」

「……羽原か?」

「ああそうだ。久しぶりだな」

 羽原紅子。

 季節感のない黒い薄手のコートを羽織った彼女は、学生時代には見たことがない、パンツのビジネスカジュアル姿だった。眼鏡と腕輪がウェアラブル端末。顎下に音声入力用のデバイスを埋め込んでいるようだった。髪は往時よりも短めだったが、相変わらずぼさぼさで、相変わらず無理矢理後ろで束ねられて、ポニーテールになり損なっていた。

 紅子は停まったバイクに目を向けて言った。

「……相変わらずカワサキ党か。変わらないのはそれくらいかな」

「なんの用だ」

「そう急くな。もちろん用がなければ来ない。私も忙しいからな。だが、君とは〈ファンタズマ〉との一件以来、ロクに口も聞いていない。少し話したいと思ってもいいだろう。……あの人のいい老人は?」

「去年死んだよ」

「そうか。惜しい人を亡くした。それで君は、日がな一日屋敷の草むしりか。いやあ、昔から思っていたが、いいご身分だな」

「変わらねえな。口が悪い」

「君の前だとな。どうしても口が悪くなる」

 紅子は唇の端で笑った。一七歳の彼女が宿っていた。

 蔵を望む縁側に案内し、有り合わせのインスタントコーヒーを出す。「日本茶じゃないのか、台無しだ」などと不平を並べながらも、紅子は口をつけた。

「最近、どうしてるんだ」

「人生様々さ。葛西のやつは、例の元教え子と子供が産まれたそうだ。灰村は今やプロのトレーサーだ」

「お前は。忙しいってのは」

「私か? まさに私こそ、高度労働集約化の被害者だな。こんなはずではなかったのだが、世が私の才能を求めて離してくれないのさ」

「もう少し具体的に」

「学生の頃に教育機関向けのプログラマブルなロボットキットを開発してな。小学生にもできるようにして、バビルのしもべのごとき拡張性をもたせたら実に売れた。で、会社ごと売った」

「よくわからない世界だ」

「ロデムロプロスポセイドンも知らんのか。陸海空、つまり歩行飛行潜行への改造可能性をキットに持たせたってことだよ。……次に少しAIに手を出した。路車連携なしに雪道走行できる自動運転プログラムを開発してな。追い込みでは真冬の青森に三ヶ月缶詰になったんだ。で、これはグーグルに売った」

「今は?」

「フリーで画像処理ソリューションを提供する仕事だな。今は注文から三時間で届ける生鮮品の自動配送システムだ。お陰様で久しぶりに都内にいられる。どんな照明条件でもランダムに積まれたキャベツとレタスを正確に見分けて傷をつけずにピッキング、などと個別の作業を言えば馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれないが……」

「立派だってことはわかるよ。ハッキングより何倍もな」

「大雑把さも相変わらずだな」

「本質を見てるって言ってくれ」

「……体調は、大丈夫なのか」

 昔を思い起こす言葉を使ったのは失敗だったかと後悔した、が時既に遅かった。

「騙し騙しだ。死んでないし、今のところガンも見つかってない。血球のバランスも正常だ」

「そうか。よかった。直後の症状は、あまりにも典型的な急性被曝だったからな。後遺症が残るんじゃないかと」

「体力は落ちたが、日常生活には困ってない」

「含んだ言い方だな。ご家族は?」

「察しながらも黙ってくれてる。優しいよ、一花ちゃんも、一真さんも」

「怜奈くんは。君を心配しているだろう。きっと私の何倍も」

「まあ、ね」

「その後、君らはどうしたんだ。まだ連絡は取ってるのか」

 それが最大の問題だった。

 道哉は立ち上がると、書庫の方へ紅子を案内する。

「高校の時は、一言も話さなかった。大学に入ってしばらくして連絡があって、それから一応、定期的に会ってる」

「そうか。よかった」紅子は顔を綻ばせる。「いいことだ。この前の彼女の主演作、観たか? ネット配信のドラマだ。まさに怪演だったよ。あれは今後の我が国を背負って立つ大女優になるぞ。私はこう見えて彼女のファンでな。雑誌も買ってる。彼女の写っているところ以外は読まないが」

「院を出たらやめようかって、この前言ってたよ。女優」

「それは惜しいな。我が国の損失だ」

「やっぱり、都市デザインだのなんだのに興味があるんだってさ。高校生の時は、工業デザインとか言ってたけど……もっとスケールが大きい方がいいとか、なんとか」

「そうかそうか。将来の話もしているのか」

 埃の匂いがここ数年で濃くなった気がする書庫へ入り、座布団を紅子に勧めて自分も腰を下ろす。

 馬鹿言え、と応じた。

「どうしてそんなに嬉しそうなんだよ」

「何もかもが失われたわけではないんだ。嬉しいに決っているだろう」紅子は遠慮がちな笑みを浮かべた。「私は君という最良の友を失った。君は大きな健康の不安を抱えることになった。その上怜奈くんが君を失ったとしたら、私たちは報われないじゃないか。報われてもいいと、最近はとみに思うんだよ」

 道哉は深呼吸した。

 机の引き出しを開けて、言った。

「これを見ても、同じことが言えるか」

 紅子は腰を浮かしてその中を覗き込んだ。そして彼女の表情が凍った。「なんだこれは」

「一八歳になった時から、毎月一通送られてくる。婚姻届だよ。彼女の署名捺印済みの」

 片瀬怜奈、片瀬怜奈、片瀬怜奈――几帳面な字で名が書かれ、実印の押された役所の用紙。それが一枚や二枚ではなく、五〇枚以上あった。引き出しは婚姻届で溢れ返っていた。

 紅子がこめかみを押さえて数歩後退った。

「どういうことだ。なぜこんなものを?」

「相続するためだ。この家を」

 何、と応じて戸惑ったのはひと呼吸だけ。紅子の目が鋭くなる。「秘密を守るつもりか」

「そうだ。あの蔵には、地下に通じる入口がある。俺はいつ死ぬかわからない。だから結婚して、仮に俺が死んだら配偶者として相続して、自分が死ぬまで秘密を守るつもりだ」

「なぜ君は提出しない?」

「自分の人生を、俺のために投げ打たせるようなこと、できない」

「だが……」

「それに、俺には幸福になる権利がない。彼女たちからそれを奪ったから」

「彼女たち?」

「お前には関係ない」

「……〈スペクター・ツインズ〉か。あの船の上で、何があったんだ」

「関係ないと言った」

「話せ」

「お前でも、話せない。それに、俺は長くない。怜奈の幸福を妨げる」

「それを決めるのは君じゃない。彼女だ」

「俺は署名しない」

 そうか、と応じて紅子は嘆息。座布団の上へ力なく腰を下ろした。

「一応言っておくが、長くないと覚悟を決めることと、投げやりに生きることは違うぞ。残る人生が短いのなら、全力で生きるべきだ。それとも君の心はまだ、あの船の上にいるのか」

「そうかもしれない。俺はまだ、忘却を誓うことができないんだよ」

「忘れようと言ったのは君だぞ」

「そうだったか」と応じてから、御前崎から帰る車中のことを思い出した。「そうだったな」

 しばらく沈黙が降りた。紅子は、コーヒーの入ったマグカップを片手に持ったままだった。

 道哉は、婚姻届を束ね直して、引き出しを閉じた。

 それが合図であったかのように、紅子は顔を上げて言った。

「ひとつ訊くが……定期的に会っている、と言ったな」

「ああ」

「その定期的とは、もしや一ヶ月より少しだけ短い定期的じゃあなかろうな」

「……やっぱお前、冴えてるよ」と道哉は肩を竦めた。

「ふざけるな。君はそれでも男か! 彼女はなぜ子供を欲しがる。君がこの世に執着する理由を産むためだ。必死に生きさせるためだ。そうだろ。彼女にそこまでの思いを……」

「出来ないんだよ」

「……何?」

「今わかっている後遺症のひとつだ。俺は極端に精子の量が少ない。確かに放射性物質は足元にあったし、下半身に多く被曝した。たぶんそのせいで、俺の身体は不妊を患っている。排卵日の度に、怜奈はここに来る。それでセックスする。避妊はしない。でもできない。する度に彼女は少し泣いている。俺はこれ以上、彼女を不幸にしたくない。それでも届を出せと言うか、お前は」

 いつの間にか紅子が落としたマグカップから冷めたコーヒーが溢れ、板張りの床に染み込んでいた。

 その紅子はしばし絶句してから、目線を伏せて言った。

「何もかも失われたということか」

「残ったのは、顔のない男の伝説だけだ」

「そうだな。伝説だけだ」コーヒーを目で追いながら紅子は言った。「テクノロジーの進歩にセキュリティの進歩や人の意識が追いついていなかったあの時代だから、私はブギーマンを演出することができた。個人と紐付いた顔の見えないSNSがあんなに幅を利かせていたのも、今となっては信じられん。今、あの頃と同じことをやれと言われても無理だ。時々、模倣犯のようなアホが逮捕されているが、年々数は減っている」

「俺ももう、顔を隠しては戦えない。やれと言われても無理だな」

「そうか」

「もう一度はない。顔のない男はもういないんだ」

「そうだな」

「用があるんじゃなかったのか」

 紅子は深々と溜息をついて言った。「そうだ。伝言を頼まれてな」

「お前に?」

「君は携帯端末の類を一切持っていないと聞いてな。ついでに久しぶりに顔を見てきたらと勧められたわけだ」

「誰に」

「有沢修人」紅子はメモを差し出して言った。「話したいことがあるんじゃないのか、君は」

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