こんばんは。山本です。
一昨日の更新で第四章「花束をきみに」が終わり、昨日から第五章「ミント・シトラスティー」が始まりました。
▶第四章「花束をきみに」最終話
https://kakuyomu.jp/works/16816452219510476706/episodes/16816452220475198860▶第五章「ミント・シトラスティー」第一話
https://kakuyomu.jp/works/16816452219510476706/episodes/16816452220475225791「花束をきみに」を書いていたのは、たしか2018年の年末だったと記憶しています。
まだコロナのことなんて、ぜんぜん予想もしていなかった時期ですね。平和でした。
第四章の更新頻度を高くしたのは、古い内容だから、というのもありました。言ってみればこの章こそが、わたしとみそら、みっちゃんとのファーストコンタクトだったので、それ以外の付き合いのほうがやたらと多いのです。笑
第四章を大事にしたいと同時に、ここにばっかりかかずらわってる段階じゃないよね、というのが、「今書いてるところにいる二人」からのメッセージだし、「当時の二人」にしてみれば、そんなにもったいつけることでもないんじゃない、ということなんだろうなと思っていました。
そうそう、裏話っぽいことをしますと。
みそらの名前と三谷のおばあさんの「好きな人」の歌などがリンクする点……などなどについては、当初はまったく予定していなかったことでした。『歌に生き、愛に生き』について調べているときにたまたま見つけて、「まじかよ!」ってなったのです。(わたしも歌姫についてはいちおう現役世代ではない……と言っていいかな、とにかくそこまで現役での記憶がないので)
タイトルと引っ掛けているとしたら、それはトスカの名前「フローリア」だったんですが、まさかのところでうまいことつながって、これはみそらにしてよかったなと思ったことを、冬の暖房の熱とともに憶えています。
当時はこの話で本当に二人のエピソードは終わるつもりだったんですが、うっかりその年明けに「番外編」という名目で別のエピソードを書いてしまったところが、けっきょく今につながっている気がします。
以前、ライティングを習った人(ちゃんと費用が発生する講座の先生。小説の講座ではない)から「背景がしっかりしていないと共感できない。この二人はどんな人?」みたいなことを言われた、とここでも書いた気がしますが。
第五章、そして今やっている第六章を書きながら、「そうか、きみらってこういう育ちをしてたんだね」と自分でもへえボタンを押すことが多いです。
とはいえ、その背景を作っているのもわたしなので、わたしの背景がにじんでいるのだとは理解しています。
好きな作家さんのエッセイにこんな言葉があって、ああ、そうだよなあと思ったことを、今、まじで今思い出しました。以下引用。
「外側から内に向けてめくっていく作業というのは、物を書く行為そのものだ。ミルクレープを一枚ずつ剥がしていくようにじっくりと内面に迫り、自分の見せたくない、隠したい場所を見つけて刺激しなくてはいけない。」
まあこれは音楽も同じだな、と思っていますが、たしかにこの話を書くときって、昔の嫌な記憶とも向き合う瞬間もあって、ある種の自己セラピーなのかもしれない、と思うこともままあります。
できなかったことをわざわざ掘り返してそれを託すとか、みそらもみっちゃんも「めんどくさ」って言うかな。それとも「いいよ」と言うかな……と一秒ほど考えてみたところ、たぶん「いいよ」って言ってくれそうだな、と思うのです。わたしと性格が似てるのでw
実を言うと、この話をどこまで書くかを迷っていたりもします。
本来の「最後のシーン」はあるのですが、それ以降のシーンだってすでに書いてるわけですし(「色彩と律動」のことです)。そこまでぎっちぎちに縛り付けなくてもいいかもしれない、とも思ったり。
ただ同時に、葉子と颯太のこと、そして最初に出会った、一夏と六花のこと――「序」に出てくるあの二人のこと――もあるので、そのあたりも自分と相談しながら進めていこうかな、というのが現状です。
って言ってもなーーーほんとなーーーーーみそらとみっちゃんってめっちゃ書きやすいんよなーーーーーー
それはつまり、背景がしっかりとしているから、もしくはしてきたから、なのかもしれないなあと思ったり。
相変わらずカテゴリーエラーしてんなあ、と思いながら日々過ごしていますが、ちまちまと更新するたびに増えるPVに助けられている点は、大いにあります。
見てくださっている方へ、この場を借りて御礼申し上げます。これからもみそらと三谷のことを見守ってくださるとうれしいです。