こんばんは、山本です。こんな時間なのに蓬大福を食べてしまって後悔しています。
というわけで「恋するハンマーフリューゲル」、第四章「花束をきみに」の11話を、公開しました。
▶第四章「花束をきみに」11話
https://kakuyomu.jp/works/16816452219510476706/episodes/16816452220475183367表示されている文字量、6,063文字ですよw もうなんか笑っちゃいますが、このシーンってどうにも分割するところが見つからなくてそのままアップしました。
直しもほとんどないかな?(2年半くらい前に書いた頃と比べて、という意味です)
この話を考えているときのことは覚えているんですが、この話を書いているときのことはあまり覚えてないです。たぶんみそらと同じ心境だったから、だと思います。
これまたすげーネット受けしなさそうな内容なのですが、それこそもうほんと、読まれなくていいから書かせてくれ、と思ってる内容です。
「でももしその中から、架空の物語の中であろうと、神に祈りながら歌う人物がいたのだと、ほんの少しでも感じ取ってもらえたら。それだけでわたしはここに立った甲斐があったのではないか。」
という文脈が作中にあるのですが、そういうことじゃないかなと思ってます。
たぶんこれはわたしがあるジャンルのおたくだからかな、とも思うのです。わたし(と友人たち)にとって彼らのエンタメは最高のものですが、それが他の全員に最高だと思われるとはつゆほども思っていないんです。そういう自由もあるし、それを好きだと叫ぶことは尊重されるエゴだとも思っています。エゴについても作中にちょっと出てきてますから、やっぱりそういうことなんだと思う。
このプッチーニの「トスカ」ですが、わりとオペラの中でも1・2位を争うくらいに好きで。何がいいのかなと思えば、たぶんですが、いずれのキャラクターも生きることに必死だという点じゃないかなと。
トスカも、カヴァラドッシも、スカルピアも、それぞれに正義があって、それに懸命なんですよね。まあスカルピアはただのエロオヤジって言われたらそれまでなんですけど、仕事の反動じゃないですかね。「体を差し出せ」は許せん、けど悪役としてはかっこいい! と先輩と当時はしゃいでいたことをいまだに覚えていたりしますw
そんな彼らですけど、まあ、揃いも揃って死にキャラです。プッチーニそういうところあるよね! と思いますけど、まあ、観客受けするんでしょうね(身も蓋もない)。
でもみそらとしてはこうなんだよなと、書いてて自分でもびっくりしたところはここでした。
「ねえトスカ、わたしは飛び降りないよ。あの生死の境目を踏み越えて、そっちに行くことはない。あなたが歌わなかった希望を、わたしはまだ捨てることができない。」
よくもまあこんなモノローグ出てきたな! 自分でびっくりするわ。
しかもつぎのモノローグを書いたときを書いたときって、まだ第三章の特待生試験は書いてなかったときだったので。
「たとえどんな絶望のただ中にあったとしても、わたしは歌うことを知っている。」
でもこれがあったから、第三章が、逆算というよりも、たんに時間を巻き戻すように書けたのかも知れないと思っています。
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何度夢に敗れ 夢にはぐれ ここまで来ただろう
生きていく 一度きりの物語が きみのSTORY
……という、自軍のとある歌のサビがあって、この1年、ほんとうに公演がないことやその他のことで苦しかったんですが。
この曲そのものが彼らの人生――物語だな、と思って聞いて乗り越えてきました。
それが昨日、千穐楽を迎えて。
どれほど彼らがファンに、スタッフに、後輩に、愛されているのか、そしてメンバー同士で愛し合っているのか。それを目の当たりにして、自分もその物語の中を照らすちいさな星屑くらいにはなれたような気がしていたところ、わたしの一番の推しが最後に言ったのがこちらの言葉でした。
「生きて、また会おう」
しぬことすらできない、と絶望した瞬間でした。彼はもともと生命力の塊のような人ですけど、それでも死を知らないひとではないので。
そんな人に「生きてまた」と言われたら、それはもうほとんど呪いです。呆然として、苦しくて、言葉を繰り返してしまうほどに苦しかった。生きる枷をくれたことに、感謝でも恨みでもない、ただ愛ばかりがあって、どうしようもなかった。
でも、きっと、音楽って、エンタメって、人を愛することって、そういうものじゃないかと、呆然としながらも思いました。
知ってるよ。いつも自分も思っていたよ。舞台上に行くのは一度死ににいくようなものだって。でもそれを超えて、もう一度舞台袖に還ってこないといけない。そのためには自分に勝たなくちゃいけない。それを端的に表した言葉のようにも思えて。
たぶん、みそらも、そしてみっちゃんも、葉子ちゃんも颯太も、そういうことを胸に抱えて生きている――そういうことをどうしても書きたくて、その大きな発露のひとつが、このシーンだったのだと思います。
理解されなくても構わない。これは嘘ではないです。
でももし、同じように生きている人がいれば、出会うことはなくても、一緒にがんばろうという言葉の代わりに、この“花束”を贈りたいです。