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いつ見ても伴奏譜の作りって絶妙だなあ、とみそらは感心した。この場合は製本された楽譜のことではなく、伴奏時に使用する楽譜のことだ。必要な曲をコピーし、ひとりでも譜めくりがしやすいように、休符の位置やフレーズに合わせてテープでとめる位置や折り目を調整している。演奏会のように演奏時間が長いならば譜めくり担当をつけてもいいのだが、試験やコンクールといった曲数の少ないものにそんなリソースは割けない。こういうところも伴奏者の腕の見せどころ――どこまでソリスト側に配慮した動きができるかという意識のあらわれのひとつでもあった。
自分の持っている楽譜をしげしげと眺めているみそらに、
「――なんか気になる箇所でもある?」
「あ、ごめん、大丈夫。細やかだなあと思って」
「まぎらわしいな」
三谷は苦笑した。しかし、諸田はそこまで細かく書き込みとかしてなかったなあ、と遠目からでも細かい書き込みが見て取れる楽譜を認めてみそらは思った。ブレスの位置、溜め、演奏しやすい指番号などなど、思いついたような走り書きではあるものの、たくさんの情報がつめこまれている。
現在、舞台上ではみそらの二つ前の受験者が演奏中だ。聞こえてくるアリアは自分も候補に入れた曲なだけに、妥当なところだなあと感心しながらみそらはラジオ体操よろしく体を左右にひねった。
緊張はあまりしていない。ドレスを着るまでは若干気後れしていたが、いざ着てしまえば肚も座る。ワインレッド色をしたオフショルダーのドレスは、まさにトスカ仕様と言えた。
みそらはとなりに立って指のストレッチをしている同級生を見上げた。男子は楽だろうなといつもうらやましく思うのはこんな時だ。だいたいスーツで済んでしまう。自分はしっかり髪もアップにセットしているというのに、と、いつもより涼しいうなじをひと撫でしてみそらは思った。
今日の舞台はきれいだ。板の色が白く、ライトを透明に反射する。――ここにおいでと、そう言われている気がする。
先ほどの出演者が終わり、みそらの前の番号の人物が入れ違いに扉の向こう、舞台に歩いていく。床を蹴る特有の硬い音と、拍手の音が混ざる。閉まる扉から見える舞台の明るさと客席のほの暗さのコントラストが、どこか生死の境目――トスカのラストシーンに出てくる城壁のようにも思えた。
舞台袖はひんやりと冷たい。異空間のようで、どこかそっと守られるような独特の雰囲気がある。
演奏者の音が客席に届いているのを遠くに聞きながら、自分の中に、自分が求める音楽を引き寄せる。練習室でもレッスン室でもない、この舞台にしかない音を。
ドレスを着ること。髪をアップにすること。化粧を念入りに、とくに目元は濃くすること。
どれも暗示のようなものだ。自分の中に音楽を降ろし、それと一体化する。先月の発表会では集中できなかったことが、今は自然とできているのを感じる。感覚の懐かしさにふと胸が熱くなった。
ああ、わたし、本当にこうやって生きてきたなあ。
本格的に声楽をやり始めたのは高校からだが、中学の合唱部からこちら、ずっとこうやって舞台袖に立ち、舞台に立ち、ライトを浴びながら生きてきた気がする。
その中で、みそらが大切にしてきたことがある。それは先日の演奏会でも同じだった。
――技巧に頼らず、誠実に。
練習は一音ずつロングトーンから、それからアルペジオ、そういう基礎練をおろそかにせず。姿勢はいつも美しく、視線はつねに前に。鎖骨は高く、首筋も長く。指先ひとつにも気を配って。
そうやっていつも、体じゅうに音楽を集めて生きてきた気がする。――それをやっと体の中に取り戻せているように感じられた。
みそらの前の受験者の演奏が終わった。舞台袖の扉が開いて一度閉じられる。みそらはまっすぐに扉のほうへと体を向けた。胸が高鳴る。それは緊張ではなかった。――呼んでいる。そのことに体が震えるほどに歓喜している。
ドアの手前に立つ人が軽くうなずいてみそらをうながす。みそらは一歩踏み出した。
立ち位置まではまっすぐに一本、線が見えるようだった。ヒールが板を蹴ると床の下の空間――奈落を感じる。ドレスが床をこするさらさらという音を止めて客席を見るとホールの上のほうに視線が吸い込まれる。一拍を置いてお辞儀をし、顔を上げた。椅子の高さを合わせる音、楽譜を譜面台に広げる音が耳を撫でる。しかし、終わるまでは一切、うしろは振り返らない。タイミングがずれることはないと、それほどにみそらは伴奏者のことを信用している。
ほどなくして一度しんと空気が静寂に包まれる。すべての視線が舞台にいる二人に集まるのが矢のように感じられる――それを、明るいへ長調の和音がふわりと空気を包んだ。
レスピーギの『最後の陶酔』は、ピアノの前奏からはじまる、明るく、イタリア語独特の情熱が絡み合うロマンティックな歌曲だ。
息を吸うと、誘われるように一音めが体からこぼれた。
歌曲特有の、ピアノの和声の良さを活かした伴奏が映える。オーケストラを模したのではなく、ただ一対として歌を支え、歌をときに超えるのがピアノだ。シンコペーションの揺れるようなリズムに乗って、ソプラノのなめらかな高音が引き立てられる。
甘い愛の告白を続ける歌詞の中にかすかな不安が揺らめくと、それをやわらかに包むように、ピアノにしかない和声でもってゆるやかに収束する。さらにもう一度、冒頭とおなじピアノの動きが、メロディを誘う。音が先にあるのではなく、言葉が先にある。言葉に導かれるように次の音が生まれていく。音がどんどんと道をつくる。それを追いかけていくような、そんな心地がする。さらに語りかけるように、言葉を細やかに、リズミカルに、リリカルに紡いでいくと、どんどんと音楽が高揚していく。
声が空間に吸い込まれて消えると、ピアノの低音が愛撫するように動いて波をつくり、その上層で最後の第五音が空間を突き抜けるように響いた。
倍音が空気を震わせると、まるで空気は一遍の映画を見終わったような安堵の色を帯びた。甘やかな空気の襞がホールを包み込み、世界が紗を纏ったひそやかな色に染まる。甘い余韻。胸の高鳴りをそっと抱きしめるような時間だ。
だれもが甘美な夢にとらわれるような、時が止まったかのような時間は、どれほどの長さだったのだろうか。――静寂の音の向こうから、ピアノがそっと音を鳴らした。
ほそい糸のような、たったひとつの小さな和音。
これが、変容の合図。みそらがトスカという「ひとりの女性」になる瞬間だ。
一八〇〇年代のイタリア、ミラノ。星がまたたく夜明け前、まだ肌に冷たい空気がただよう景色の中で、トスカの歌う『歌に生き、愛に生き』は始まる。
わたしは歌に生き、神への愛に生きてきました――そうやって始まる歌は、悔いるような声音ではなくいっそ慈愛に満ち溢れている。
本来ならば弦楽器がつむぐ緊張をピアノが再現する。ひそやかに、哀しげに自分の肩を抱くトスカに寄り添うように。
敬虔なカトリック教徒であるトスカは、修道院で育ったこともあり、つねに困っている人には手を差し伸べてきたと告白する。それなのになぜ、と自分の運命を前に神に問うのだ。国は政治に揺れ、人々の生活は翻弄されていた。そんな中で自分の貞操とひきかえに恋人の命を助けようと取引きを持ちかけられ、どうしてわたしがこのような目に遭うのだろうか、と。毎日ただ愛しい人と過ごしていたいだけなのに、と。――これを歌う若いトスカは自分の最期をまだ知らない。
ふわりと伴奏の音が膨らむ。本来管楽器が合流する部分では、ピアノがまるでその楽器たちを内包するように、まろやかな音を奏でる。その音に軽やかに乗ると、言葉がその上を転がるようにつながっていくのがわかる。
こんなことを考えるのはおかしいと思われるだろうか。でも――、とみそらは思う。
歌詞があってこその歌だ。言葉を伝えるからこそ歌だ。いくら歌う技術が高くとも、言葉の意味が届かなくては歌だと言えない。しかし同時に、その「届かないもの」を補完するのがテクニックであり、音楽そのもの――言語ではない波長だ。
歌詞が聞き取れてもそこに真摯さがなければ、言葉も音も届く前に砕け散ってしまう。だからこそ、技巧に頼らず今あるテクニックを大事に、曲に誠実でありたい。
トスカの歌の言葉をすべて理解する者は、審査員や受験者以外にそうそういないだろう。それでもいいと思う。トスカがどんな運命を辿るのか、どんな状況下でこれを歌ったのかということではなく、ひとりの人間が――フローリア・トスカが歌っていたということが伝わればいい。そのための練習は尽くした。
日本語ではなくイタリア語であることは重々わかった上で、その言葉が通じないことを知った上で、それでも歌詞の意味を知り、イタリア語の発音を練り、つねに意味や物語を思い浮かべて、言葉と旋律を積み重ねて音にする。
言葉を理解せずに歌は歌えない。けれど、言葉を載せる音がなくても、歌にはならない。声楽とはなんと理不尽な学問だろう。
でももしその中から、架空の物語の中であろうと、神に祈りながら歌う人物がいたのだと、ほんの少しでも感じ取ってもらえたら。それだけでわたしはここに立った甲斐があったのではないか。――それこそ歌い手のエゴかもしれなくとも、みそらはそう思いたい。
ふたたび神への問いかけを挟むと、曲調は明るく、夜明けを待つように広がっていく。しかしトスカの胸中に広がるのはさらなる悲しみと主への問いだ。聖母マリアへ祈りを捧げ、星にも空にも祈りを捧げた思いが募るのに比例するように、曲が膨らんでいく。オーケストラを内包したピアノがどんどんと時間を押し流していく。ホールの上のほうへと上昇する声を支えて、ミラノの空へ向かう。問いを空に投げ、神に届けるように、トスカは繰り返すのだ。なぜ、なぜと。
そして、ほそい、ほそい糸を、そっと、必死に切らさないように、抱きしめるように。そしてそっと星空に手放すように。
Signore――神の名前を抱きしめた最高音を、みそらは歌った。
そこから一息も切らさずに、次の音、そして次の音へ。そこにそっと支えるようにオーケストラを内包したピアノが寄り添う。
ああ、そうだ。そうだった。音を追いながらみそらは思った。
たとえどんな絶望のただ中にあったとしても、わたしは歌うことを知っている。
だからトスカも歌うのだ。なぜと問いながら、この人生は神とともに、歌とともにあったと。歌う歓びを知っているから絶望の深さがわかるのだし、だからこそ絶望の淵で歌うことを選んだのだ。
切なる願いと救いを求めて、最後の問いかけが天高く吸い込まれていく。ホールに夜明けの星が散りばめられているような不思議な感覚。
空気の襞の最奥の一枚までが震える、そんな余韻が――消えた。
それまでを聞き届け、みそらは深く一礼した。赤いドレスの裾をひるがえして舞台袖へと向かう。伴奏者がドアを超え、その境が閉じられたのを背後で感じながら、みそらはそのまましばらく歩を進める。待機用の椅子の後列まで来て、そこでやっと息をついた。
「ちゃんとできた……」
ほっとして思わずこぼれたのはそんな言葉だった。と同時に、脳裏に蘇ってきたものがある。――あの時、林先輩のミミを聴いた時のあの感じ。
いや違う、あれだけではない。去年の夏にショパンを聴きに行ったこと、一緒にお茶したこと、練習したこと、こないだの後期試験、悔しくてしかたなかった特待生選抜試験、三谷の部屋で弾いたワルツ――あの、高校三年生の夏に見た舞台。
未来はまったくわからない。たとえば一年後、自分がどう考えているのか、就活に必死になっているのかもわからない。その未来の不透明さは恋人を失ったトスカの絶望にも似ていると、みそらは歌い終わった今、あらためて思った。
けれどもしかしたら。その中で歌うのは――音楽をやるのは、もしかしたら、そうやって生きていくよすがになるからではないだろうか。
いつかこんなふうに板の上に立てなくなったとしても、こうやって音に触れたこの記憶と、音と、体の感覚があればもう少し生きていける――それを忘れないために、わたしたちは歌っているのではないだろうか。
ねえトスカ。みそらは心の中で、ミラノの架空の歌姫に呼びかけた。どんな顔立ちでどんな声だったのかも本当は知らない、けれど、さっきまで一緒に歌った彼女。
物語の最後、トスカは城壁から飛び降りてみずから命を絶つ。命を助けると言ったスカルピアの言葉が嘘であり、恋人がすでに死んでいることに絶望して。
ねえトスカ、わたしは飛び降りないよ。あの生死の境目を踏み越えて、そっちに行くことはない。あなたが歌わなかった希望を、わたしはまだ捨てることができない。
もう一度、木村先生の声が聞こえたような気がした。――きみはあたらしい贈り物を受け取ったんだ。
本当にそうだ。この短い間に、わたしはどれほどの贈り物をもらったことだろう。そこまで思うと、自然と腰から力が抜けていった。
「――うん、良かったと思うよ、山岡らしくて」
へたり込むように椅子に腰をおろしたみそらに、三谷の言葉が降ってくる。それをみそらはもう一度見上げた。
「ちゃんと、山岡みそらの歌になってたかな」
「なってた。わがままで、炎みたいなのに愛されたくて、寂しくて仕方ないトスカだったと思う」
「どういうイメージよそれ……」
「山岡みそらは本当にソプラノだよね、って話」
軽くはぐらかすように笑ってから、三谷はしゃがみこんだ。高さが逆転して、みそらの視線が少し高いところにある。それをしっかりと見つめて三谷は言った。
「さっきのトスカなら、刺されてもいいんじゃないかと思った」
みそらは瞬いた。そういえば『私の名前はミミ』を歌う時にそんな話もしたのを思い出したのだ。
本当に色んなものを積み上げて、それぞれの色を抱えて、自分たちはここにいる。そんな瞬間を、みそらは本当に――心から――はじめて愛おしいと思った。
あの時「飛び降りるまで付き合う」と言ったけれど、きっと三谷なら、飛び降りる前に捕まえにくるんだろうな。なんだかそんなことを思ってしまって、みそらは祈るように合わせた手に頭を預けた。
「それなら、良かった……」
言うと、赤いドレスに丸いものが落ちていくのが見えた。はたはたとまつげが動くと、それに合わせていくつも粒が見える。この光景に似たものを、特待生選抜試験で見た――そう思った瞬間、今度こそ本当にみそらは顔を伏せた。
絶望したら、歌いなさい。木村先生の言葉が胸を貫く。
舞台の上の自分に失望したのはたった二ヶ月前だった。しかし今はあの時とはまったく違う。――まだ一年半、わたしの前には、時間がある。
「うん、――おつかれ」
とんとん、と軽く二回、ドレスの上から膝の上にリズムが刻まれたのがわかった。あの時と同じだなと思いながら、みそらはもう一度、世界が調律された感覚をただそっと抱きしめていた。
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