12

 いつものコーヒーショップは会場近くにもあった。ソイラテの最初の一口をみそらが飲み込んだ時、スマホが着信を知らせた。カップを置き、スマホを取り上げる。

「木村先生だ」

「先生、なんだって?」

 隣に座る三谷が聞くと、みそらは数秒黙って、そして呆れたように息をついた。

「……見に行くのやめといて良かったって」

 それに、思わずといった様子で三谷がふきだす。こぼさないようにだろうか、カップをテーブルに置いた。

「それだけ聞くと紛らわしいよな。木村先生らしいと言えばそうだけど」

「素直にほめてもらえないんだよね」

 みそらはカップの横にスマホを放ると息をついた。

 本選に行けると思っていたから予選は見に行かなかったけど、予想通りになって嬉しいよ――これが先生の本当の言葉だ。だがこれが先生のユーモアなのだ、とみそらは理解している。

 今日は予定があって来れないと言ったのも、先生なりのエールであり、信頼の証なのだ。もしかするとこっそり見に来ていた可能性も捨てきれない、とソイラテを口に含みながらみそらは思った。

 結果は全員の演奏が終わった約一時間後に掲示され、みそらは無事予選を通過していた。次は一ヶ月後の本選だ。

 その頃は夏休みかあ、とぼんやり空を見上げた。夕暮れ時になり、空が茜に染まり始めた。日差しは酷暑を予感させるものの、テラス席には気持ちのよい風が吹いていた。下ろして自由になった髪が風にさらわれると、なんとも言えない解放感がある。

 本選ではアリアが一曲増える。予選の選曲に足す形でもいいし、全曲変えてもいいというのが規定だ。どうしようかなと考えていると、いつのまにか隣の席からイヤホンが差し出された。

「はい」

「うん?」

 戸惑いながらも差し出された白いイヤホンを耳につける。今日の録音だろうか、と思ったが、そんな余裕はなかったはずだと思い直したところで、音が聞こえた。

 オーケストラの音をバックに、低く響く女性の声がする。あれ、とみそらは思った。この曲、日本語だけど、これは――

「みそら」

 はっとして顔を上げると、三谷と目があった。

「――ひばりの、『歌に生き、愛に生き』」

 一瞬の空白。だが次の瞬間、みそらはイヤホンを押さえて一気に音に集中した。

 この声、間違いない。リアルタイムで見たことはなくとも、歌を歌っている姿はテレビ番組などで何度も見たことがある。この独特な深みと奥行きのある声、抒情的な歌い回し――昭和の歌姫と言われる、美空ひばりだ。

 キーは低くしてある。さらにイタリア語ではなく日本語であり、節回しに演歌の要素も感じられる。しかしこれは間違いなく、美空ひばりだけが歌えるトスカだ。

 食い入るように聴いていると、情景が浮かぶようだった。そういえば自分の中の美空ひばりのイメージも真紅のドレスだ。大きなリボンと、勝気な瞳と、そして誰にも真似できない声。

 最後の一音が消えるまで微動だにできなかった。雑踏のざわめきもまったく聞こえず、終わったのだとやっと理解して、みそらはイヤホンを外した。

「ありがとう。……なんかすごいの聴いた」

「うん」

 三谷はうなずいた。どこか嬉しそうだった。

「うちのばあちゃん、ずっと美空ひばりが好きで、昔撮ってたビデオテープをよく見てたんだよ。こっちだと見れないから、これはネットで音を拾ってきたんだけど」

「知らなかった……」

 呆然としてみそらは呟いた。オペラアリアを歌っていたなんて、ぜんぜん知らなかったし――このように生きて、歌える人はほんのひと握りであることをみそらは理解している。そして自分がそういう人間でなく、来年の今頃、本当に歌っているかもわからないことも。

 けれど、用意してあった舞台。そして、自分の中の熱量。――今日の音は、確実にわたしのものだ。わたしの色と三谷の色が混ざってつくりだした熱だ。

「山岡?」

 黙り込んだみそらに、正面の三谷が軽く首を傾げた。日に透けた髪が茶色に輝く。それをどこかまぶしく思いながら、みそらは言った。

「トスカの口づけじゃなくて、ふつうのにするから。もうちょっと付き合ってくれない?」

 相手が二度、三度とまたたいた。星が瞬くとはこういうことだろうかとみそらが頭の片隅で考えていると、ふいに三谷は笑い出した。イヤホンを返す途中のままの手が、相手の笑いを感じて震える。みそらは眉根を寄せた。

「ちょっと……そんなに笑う?」

「いや、それ、あの歌の後に言うんだなと思って」

 トスカがスカルピアを刺すシーンは、『歌に生き、愛に生き』を歌った直後になる。それを正確に汲み取ってくれる相手の感性に感謝しつつも、そこまで笑うことだろうかとみそらは首をひねった。

「まあ、山岡らしいよね」

 イヤホンを持たない手で三谷が目元を押さえる。どうやら笑いすぎて涙が出たらしい。二ヶ月前となんだか逆だなと思いながらみそらは返事を待った。

「うん、付き合うよ、よろこんで」

 断られるとは、もう露ほども思わなかった。けれどその返事に、やっとみそらはほほえんだ。――絶望は、たぶんもう、あそこに置いてきた。わたしはまだ、歌ってみようと思う。

 風に乗って、夏のにおいが駆け抜ける。空は星を待ちながら、その身を赤く染めていた。



[花束をきみに 了]

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