第五章 ミント・シトラスティー
1
いつになってもこの坂には慣れないな、とみそらは思った。もしかしたら講習会や入試の記憶のせいかもしれない。ただでさえ心拍数が上がるイベントなのに、坂道を登るとそれに拍車がかかる。体が思い出に勝手に反応しているのかな、と髪をさらっていく風を横目で追いながら考えた。見上げた空は一ヶ月前よりも格段に高くなっていて、湿気た空気の中にも秋の色を思わせた。――三年の後期がはじまるのだ。
「山岡さん」
ぱっと耳に届く声がして、みそらは誰とも考えることなく顔を振り向けた。思わず一歩足が止まって、ふっと安堵の息がもれる。
「――先輩、おつかれさまです」
「おつかれー。そっちも一限からなんだ?」
数歩先にいてこちらを向いていたのは、一学年上の
「先輩もですか? 月曜じゃないだけましな気がしますけど」
「言えてる」
みそらが横に並んだと同時に先輩は歩き出した。
「聞いときたかったんだけど、後期もレッスン時間は同じ?」
「はい、コマがあんまり変わらなかったので」
みそらが言うと、よかった、と先輩が笑う。しばらくぶりに聞いても、やっぱり江藤先輩の声は専攻する楽器と同じような弾みとつやがあった。同じように坂道を歩いている他の生徒が、みそらたちを、――先輩をちらりと見て進んでいく。やっぱり有名人だな、とみそらは思った。隣は平々凡々な生徒ですけれども。
「俺、今日も合わせ入ってるけど、山岡さんは?」
「あ、わたしもです。四、五限が空いてるのでそのあたりで」
「そうなんだ、じゃあ俺が先だ。三限で――」
スマホのカレンダーを見ながら言いかけた先輩の言葉が途切れた。ふいに周りの生徒の話し声が大きくなった気がする。
「――今日、なしみたい」
「え?」
「みっちゃんから連絡きた。そっちもきてない?」
言われてポケットからスマホを取り出すと、たしかに画面に緑の通知があって『ごめん、今日は』という出だしの言葉が見えた。アプリを開くと、――何かにぶつかったのだろうか、視界が揺れた。けれどそんなことはどうでもよかった。耳鳴りがうるさい。
『ごめん、今日は合わせできなそう。ばあちゃんが入院するらしくて朝いちで実家戻ってる』
二度、三度と文面を見るけれど、文字は変わらないし続きも来ない。送信時刻はほんの数分前だった。見つめても画面は何も変わらず、そのまま黒くなった。
「山岡さん?」
言われてはっと顔を上げる。先輩が少しだけ自分を覗き込むようにしていたことに驚く。――気づいてなかった。
「――すみません、びっくりして」
みそらが取り繕えずにそのまま言うと、先輩は苦笑するみたいに表情をやわらげた。
「だよね。――まあ、みっちゃんのことだから何かしらの連絡はあるよ。待っとこ」
言うと先輩はみそらのバックパックをぽんぽんと二回、軽く叩くと歩き出した。その加減と「待っとこ」という言い方があまりにも優しくて、みそらは思わずぎゅっと下唇を吸い込む。
「夏休みに出たコンクール、結果よかったんだって?」
先輩はさっきのチャットの内容に、それ以上触れるつもりはないようだった。一歩先を行く先輩に追いつくように歩幅を大きくする。そうするとさっきまで涼しかった風がほんのすこし冬の冷たさを帯びたような気がした。
「いちおう、受賞だけは」
「一応じゃなくて受賞は受賞でしょ」
そうですが、という言葉をみそらは飲み込んだ。
学年も専攻楽器も違うみそらと江藤先輩の共通点は二つ。一つ目は、副科ピアノを同じ講師に習っていること。二つ目が、伴奏担当のピアノ専攻の生徒が同じ人物だということだ。おまけにそのピアノ専攻の生徒の担当講師まで二人の担当講師と同じ人なのだから、学年の違いはあれどこのくらいには打ち解けられるというものだった。
とはいえ、自分と江藤先輩は比べるべくもない。みそらは声楽専攻のただの三年生だけれど、先輩は違う。四年連続の管楽器の特待生、江藤颯太。特待生とは学費救済がメインのシステムだけれど、つまるところ学内の管楽器専攻、その学年トップなのだ。学外のコンクールでいくつもの受賞経験のある先輩とわたしの受賞ではレベルが違う――という言葉は飲み込んだ。
「
「みっちゃんの伴奏、いいもんね。俺が言ったとおりになったでしょ」
どこか自慢げな言い方に、みそらはきょとんとして先輩を見上げた。どれほど気の抜けた表情だったのか、先輩は小さく笑った。
「学年上がる前くらいじゃなかったっけ、話したの。『山岡さんとみっちゃん、合いそうだから』って」
言葉が音になって景色になった。ふわりと幕が引かれるように見えた記憶に、みそらはあっと小さく声を上げた。たしかに言われた。練習棟のロビーで、先輩と話したときに。でもすっかり忘れていた。あのときはそれよりももっと驚くようなことを言われたので――
おーいそうたー、という声がして、先輩がそれに「おはようー」と返す。
「じゃあ俺、あっちだから」
と講堂の方を指差し、「またね」と先輩は歩いていってしまった。このこだわりのなさもあのときと同じだな、とみそらは思った。こういうフラットさとかフットワークの軽さとかが演奏にも生きてくるのだと、江藤颯太を見ているとわかる。
みそらがめざすのはもう目の前に迫ってきた四号棟だ。手に持っていたままのスマホをもう一度見る。画面を起こすと、さっきのチャットのままだった。
みそらはしばらくじっとそれを見た。学校の生徒が横を通り過ぎていく。誰も気にしていないことが背中に冷たい違和感となってすべっていく。みそらは指を動かした。
『わかった。気をつけてね』
吹き出しが増えて文字が並ぶ。既読、という小さな文字は増えなかった。
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