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「早いよねえ」
思わずしみじみとみそらは言った。重い防音扉を開けて入ってきたばかりの
三谷が来たのは、次の部屋に移った頃だった。都内の端っこにある大学から電車を乗り継いで隣県まで、ドアツードアで二時間ほどなので、学内の生徒としては実家が近い部類だ。みそらならその三倍はかかるので、すぐに地元に行けるのは正直うらやましくもあった。
見慣れた手提げ袋から、見慣れた白いカップを三谷が差し出す。ありがとう、と言いながら受け取ると、慣れ親しんだコーヒーの香りがほっと胸に落ちていく。三谷が持っているのは透明なカップで、どうやら色味からティーメニューのようだった。またせたお詫び、というたてまえで、駅前にある店で買ってきてくれたものだった。
「……ほんと大丈夫?」
ほとんど意識しないままに言葉がこぼれ、思わずカップを握る手に力が入る。他人が軽々しく言う言葉ではなかった。けれど三谷は気にしたようすもなく、「うん」と軽く答えた。
「ごめん、心配かけて」
ストレートな言葉にみそらは首を横に振った。手のひらがじんと熱い。
「先輩にも連絡した?」
「うん。そういえば朝、一緒だったんだって?」
「坂で会ったところでチャットが来たの。先輩も今日、一限あったみたい」
へえ、と三谷はパイプ椅子に腰掛けながら軽く眉を上げた。
「もうとっくに単位足りてそうなのに、学校好きだよね、あの人」
「それは……」
みそらももう一度ピアノ椅子に座り直した。そして軽く首をかしげる。
「三谷もじゃない? とんぼ返りで学校来るなんて」
「あー……」
しばらく三谷は黙った。右手に持っているカップをくるくる回すと、ころころという軽い音をまといながら薄い金色の液体がゆらめく。
「うん、まあ、落ち着くし」
わかるな、と思った。自分が歌うことがそうであるように、三谷も弾くことが気持ちを落ち着かせる儀式みたいなものなのだろう。ここに通っている人たちはみんな、どこかしらそういう危なっかしさと清廉さの両方を抱えているように思えた。
「じゃあ、ふつうに合わせ、やっても大丈夫?」
みそらが伺うように言うと、「もちろん」と軽やかな返事が返ってくる。
「どれからやる?」
「ベッリーニかな。さっきちょっと歌詞読んでたから」
カップを床に置いて、譜面台の横に寝かせておいた楽譜を取る。と、その下にいた楽譜に三谷が気づいた。
「――日本歌曲も?」
「ううん、これは自主練」
三谷はカップを床に置いて立ち上がり、数歩の距離を詰めて楽譜を手にとった。きれいだなと思う。ピアノ――専攻楽器の隣にいる三谷夕季は本当にきれいだ。磨かれた黒い筐体にすっきりとした雰囲気が映える。三谷は目次を見て、それからゆっくりと、丁寧に楽譜をめくっていく。
「北原
「林先輩の時にやらなかった?」
「『城ヶ島の雨』なら。他は何やったかな……先輩、あんまり日本歌曲は多くなかったから」
日本歌曲は学年が上がらないとやらせてもらえないものだった。林先輩は昨年度に卒業した、みそらと同じ木村門下の生徒だが、日本歌曲は声楽の主流となるイタリア歌曲とまた発声や歌い方も違うものなので、好みもあるのかもしれない。
「山岡は?」
「やる気はあるけど、先生次第かな。やれる技量がないって思われたら宿題さえ出してもらえないだろうし」
みそらは唇を引き結んだ。木村先生はそういう人だ。
「でも、できればたくさんやりたいとは思ってるよ。伴奏はめんどいかもしれないけど」
「それ、なし」
かぶせるような言い方は三谷にしてはめずらしかった。ちょっとびっくりしていると、「前も言ったけど」と三谷は続けた。
「伴奏の難易度で曲、選ばなくていいから」
そうだった、と、みそらの中にあのときの温度がよみがえる。まだほんの数ヵ月前、――春の頃、夕焼けの、坂の下のいつもの店で、こうやって飲み物を手にして。
「……言われたね」
苦笑してみそらが言うと、三谷はどこか満足そうに笑って床からカップを取った。
「個人的には難しいほうが燃えるんだけど」
「かなちゃんだったら絶対言わなそう」
思わずくすくすと笑うと、三谷は不服そうな表情を一瞬だけしたように見えた。
「諸田さんみたいに従順な伴奏者がよかった?」
「まっさかあ。喧嘩できない練習なんてつまんないもん」
みそらの最初の伴奏者である諸田加奈子は、今は就活の情報収集にかかりきりのようだった。伴奏の担当を外れてもらう際に強気に出たので、しばらくは挨拶をしてもびくつかれているような気がしていたけれど、夏休みを挟んだおかげか、最近は諸田の態度も以前に近しいものになってきている――たぶん。
三谷は「喧嘩ね」とちょっと笑うと、一口、そのきれいな色をした飲み物を口に含んだ。
「山岡ほど喧嘩のしがいがある人っていないよね」
「……褒め言葉だよね?」
「褒めてるよ。
「三谷でもそう思うんだ?」
「山岡は俺のことなんだと思ってんの?」
「準バケモノ? 子バケモノ? うまい言い方が見つからないんだけど、ともかくそういうやつ」
「なんだそれ」
心底呆れたように言われたけれど、みそらに撤回する気はない。すましてラテを飲んでいると三谷は追及するのを早々にやめたようだった。
沈黙、というよりも、休符のようだった。ふたりが黙っても、どこかから誰かの音楽がする。自分たちはいつも、大きな曲の中にいる小さな音符のようだ。
「北原白秋って、ばあちゃんが好きなんだよ」
その言い方がとてもやわらかくて、みそらはほんの少し三谷に見とれた。三谷の手にはまだ日本歌曲集があって、三谷だと自分以外の人が自分の楽譜を持っても少しも嫌な感じがしないからふしぎだった。
「昔から読み聞かせとかで読んだりしてたらしくて、詩集も家にあって」
三谷の口ぶりからして、「大丈夫」と言っていたのは本当なのだろうと今度こそ思えた。それくらいに三谷の雰囲気はいつもどおりに澄んでいて、みそらはもう一度、体の奥がほぐれていくのを感じる。
「じゃあ歌詞――っていうか詩か。その解釈もできてらっしゃるんだろうね」
言ってから気づく。――そう、日本歌曲は日本人でも聞いたら意味がすべてわかるのだ。イタリア語やフランス語、ドイツ語でできたヨーロッパの歌ではなく、日本語なのだから。
僕たちは、日本人の心を歌っているんだ。いつかの木村先生の言葉が体の中で文字になる。――聞いてみたい、と思った。三谷のおばあさんに聞いてみたい。『からたちの花』を、『城ヶ島の雨』を、『金魚』を、どんな日本語だと思うのか。それが歌になることをどう思っているのか――
「聞いたら喜ぶよ」
「――わたしの歌のこと?」
「そう。来年の学内選抜とかに日本歌曲もいいんじゃないかと思うけど、……それこそ木村先生次第か」
「というかわたしの出来次第……って、そんなプレッシャーかけないでくれる……?」
やや及び腰になっているみそらに三谷は笑った。あ、またいつもどおり、と、みそらは思った。ここに着いた頃より、雰囲気がやわらかくなってきてる。
「学内選抜っていえば、先輩とは? 今日、合わせしなくてよかったの」
「大丈夫。今日は他にもやることがあるって言ってたし」
そう言って三谷は窓のほうを向いた。みそらもつられて見る。やっぱりここが休符になっても、他のところの音は途切れない。窓の外はさっきよりも光が薄く、季節のうつろいというきれいな楽譜のような色だった。――その休符の、ちょっとした違和感。
なんだろう、と思った。でも形もわからないし言葉でもつかまえきれない。不思議な浮遊感のようなものを感じていると、三谷がみそらのほうを向いた。
「じゃ、今日も喧嘩しますか」
その言い方に思わずふふっと笑い漏らす。これだから合わせはいい。
姿勢を正す。胸を開いて、頭は天井から吊られたようにまっすぐ、首はバレエのように高く。そして――自分がとびきり魅力的だと知っている声で。
「うん、よろしくおねがいします」
さあ、はじめよう。――音楽は、ひとりじゃない。
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