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 弾いていると体の中からいらないものが全部振り落とされていくようだ。朝見た母親からの連絡と内容の衝撃、病院で聞いたこと、移動の疲れ、コーヒーショップでの店員さんとのやりとり――一日の間に頭からかぶったあらゆる塵芥ちりあくたのようなものが落ちて、ただ体だけになって音と一体化する。自分自身が宇宙とかピアノそのものになったような、自分が空っぽになるような。体は熱くて、思考回路も熱帯夜みたいに渦巻いてて、でもそれをどこか冷静な自分が見ている。

 しばらくぶりにショパンのスケルツォ二番を弾く。両手を広げるという動作による最後の音はこの曲の最難関とも言えるが、今日も外れることなく正解の音に届いた。ああ、この曲も自分を裏切らないな、と思いながら倍音が伸びていくさまを眺めていると、時計が目に入った。マンションの練習時間である二十三時を十分ほど過ぎていた。――今日はここまでだ。

 大きく息が体から吐きでた。みそらとの合わせからほとんどぶっ続けで弾いてきたけれど、体じゅうが満たされた心地でいっぱいだった。――一緒に安心してくれて、一緒に音楽をやってくれる人がいたおかげもあるし、楽器と音楽そのもののおかげでもある。音楽に頼って立ち直れる自分のことを、三谷みたに夕季ゆうきは嫌いではなかった。

 立ち上がり、練習中はマナーモードにしていたテーブルのスマホを手にすると、ちょうど着信を報せて画面が色づく。そこに江藤えとう先輩の名前を見つけて、すぐに通話に切り替えた。

「もしもし」

「あ、みっちゃん、今もう大丈夫?」

「はい」

 先輩は当然ながらこのマンションの練習時間も把握している。なのでこの「もう大丈夫」は、本当に練習が終わっているか、という意味だ。

「山岡さん、どうだった?」

 先輩はどうやら自分のことはもう心配していないらしい。それくらいに信用されているということだろう。

「夕方の合わせの間はいつもどおりでしたよ」

「そう、よかった」

 朝、連絡を送ったときに一緒にいたからか、と口には出さずに納得する。そういう心くばりと、ある一定のドライさが矛盾なく同居しているのがこの先輩だった。

「なんか山岡さんって、葉子ようこ先生に似てるよね」

「先生ですか?」

 葉子とは羽田はねだ葉子のことで、三谷の担当講師であり、先輩とみそらの副科ピアノの担当講師でもある。年齢は三谷たちと一回りほどしか離れておらず、姉のような感覚は三谷も何度も感じたことがあった。

 スピーカーモードにして、その間にワイヤレスイヤホンと同期させる。右耳に入れたイヤホンのずれを軽く直しながら三谷は首をかしげた。

「姉妹っぽいなっていうやつなら……夏生まれと秋生まれみたいな」

「あー、服装とか肌の色とかそうだもんね」

 これはどっちがどっちだって通じてるな、と三谷は思った。こういう打てば響くような返事も、江藤颯太そうたならではの観察眼だ。

「あのふたりって、ロジカルなわりに感情的なんだよね。習ってるうちに性格が似るってのはあるかな。――ってことは、木村先生にも似てんのかな」

「どうだろ……肝が据わってるな、とは思うかも」

「そういうやりとり、やっぱレッスン中にしてる?」

「けっこうバチバチ火花散らしてますよ、山岡と木村先生。なんていうか、――オペラ座の怪人みたいな。クリスティーヌとファントム、わかります?」

「わかるわかる。木村先生ってファントムみたいな役ハマりそうだし。めっちゃおもしろそうじゃん」

 ひとしきり笑うと、ふいに先輩はすこし黙った。田舎にある学校の防音マンションなだけに、楽器の音がしないとほんとうに静かだ。

「今日、願書、出してきたよ」

 一瞬、返事が遅れた。

「そうですか」

「ネットだったからすぐ終わったんだけど、あれ便利だよね」

 いつもの調子の先輩の声に、なんとなくほっとするような、意外とそうでもないような気がして、三谷は窓際に移動した。カーテンの重なる部分がすこしずれているのを直す。

「来月また試験になるけど、よろしくね」

「はい」

 それからいくつか他愛のない話をして通話を切る。耳からイヤホンを外しながらチャットアプリを見ると、先輩のすぐ下にあるのはみそらの名前だった。三谷はそれをしばらく見つめ、――振り切るようにすばやくスワイプしてアプリを終了させる。放り投げると、ベッドの上で軽く、ぼすん、という音がした。

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