4

 水曜の三限前半は副科ピアノだ。三年に上がってからは必修科目ではなくなったけれど、みそらは四年の後期まで副科ピアノを履修する決意を固めている。

「みそらって今、ファンデどこの使ってる? 夏用から変えた?」

 付き合いも三年目になるピアノの担当講師である羽田はねだ葉子ようこ――つまりみそらと江藤先輩と三谷の担当講師――は、ピアノの横っ腹の位置に立ち、みそらの顔をじっと見ながら至極まじめに言った。

 三十をふたつだけ超えた葉子は、みそらの憧れでもあった。きれいに染めたつややかな茶色の髪は豊かに背中を流れ、秋色のトップスに足首まである上品なプリーツスカートがよく似合う。自分とは似合う色がまったく違う、やわらかくて芯の強い、「ピアノの先生」の理想のような姿。もちろん肌だって艶にあふれている。生徒に混じってもなんの遜色もない――というよりも、ひときわその美しさが際立つとさえ思う。

「まだ変えてないよ。坂でどろどろになるときもまだあるし」

「うっ、感想が若い。薄づきなのにほっぺたもおでこもつやつやだし……」

 葉子がしょげると髪が肩からこぼれていく。それがまたきれいで、舞台でも映えそうだとみそらはつい思う。けど、今話すことか、それ。

「葉子ちゃん、それ今がいい? わたしレッスンに来てるんだけど」

「え、うれしいこと言ってくれる……泣きそう」

 今度は本当に感銘を受けたようで、葉子は口元を手で覆った。

「せっかくワルツの譜読み頑張ったんだもの。聞いてもらわないと」

 みそらが気合を入れて言うと、葉子はとたんに嬉しそうにピアノの上に身を乗り出してきた。目がきらきらと輝いているし声も弾んでいる。

「どうだった、次の曲」

「もー、鬼。ほんっと二曲目であんなの出すの、鬼すぎ」

 前期が終わり、夏休みの間に出された宿題には、三年に入ってからやっているショパンのワルツの新しい曲、十五番が含まれていた。最初にやった十番に比べ、音域は広いし、そのぶん左右の体幹のバランスも格段に難しい。ワルツにありがちな繰り返し要素が多いとはいえ、レベルアップした「ショパンのワルツ」に、夏休みは本当に苦しめられた。

 そんな苦労がにじむみそらの目線でも、葉子はやっぱり嬉しそうだった。

「わたしたちにとっては褒め言葉だなあ」

 今度はふふふと満足そうにほほえむ。たしかに師匠が弟子に甘くてもなんの意味もない。

「ファンデの話は明日の昼休みに、学食でどうでしょうか」

「いいと思います」

「やった、じゃあ明日のお昼は葉子ちゃんのおごりね」

「五百円以内だからね」

「じゅうぶんです」

 にこりと笑って、みそらは前を向いた。譜面台にあるのは、柔軟性を忘れないようにとわざと取り入れたバーナム、基本の基本であるハノン、楽譜の構造を読み解くバッハのシンフォニア、そして、クリーム色の装丁がやわらかな、でも曲はとても易しいとは言えないショパンのワルツ集。手を伸ばしてページを開く。もうこのままショパンにいくつもりだ。

 ピアノの横から離れ、隣の椅子に座った葉子を見ると、葉子もまたにっこりとほほえむ。どうぞ、という合図だ。それを確かめて、みそらは背筋を伸ばし、脚のバランスを整え、息を吐き、吸い、腹部を声楽で鍛えた腹筋で締め上げる。白と黒のコントラストが鮮やかな鍵盤に手をのせる。体重を体の中から引きずり出して、その重さごと鍵盤に載せる――

 出だしは矢印が円形に跳ね上がるような左右のユニゾン。そこから一転、やわらかく愛らしいメロディが続く。高音で鳥がさえずるようなトリル、レガートでつないでもう一度主題へ。重さと軽さが同居した、縦横無尽なショパンらしい円環の動き。またユニゾンで線を描くと、主題へと戻る。そうしてふいに、さみしげな和声へと変わった。トリルなどの要素は変わらないけれど、伴奏を担当する左手の中で対旋律が歌うと、いっそう世界に深みが増す。

『華麗なる大円舞曲』などのような華やかさは、この十五番にはあまりない。まだポーランドにいた頃の朴訥ぼくとつとした青年が描いたのだとわかる――緑の野原で少女が春を喜びながらくるくると花といっしょに回っているような、そんな短い物語。

 軽やかに音が消える。――それでもみそらは終わると、大きく息を吐き出した。

「――うん、いいじゃない」

 葉子の声がぱっと部屋に広がる。みそらはもう一度肩から大きく力を抜いて葉子を見た。

「ほんと? いっぱい間違えたよー」

 思わず本音が漏れる。どう考えても「悪戦苦闘のすえ、とにかく止まらずに弾ききった」という、小学生が最初に教わるようなことをどうにかやり遂げたようなものなのに。

 けれど葉子はやっぱり嬉しそうだった。目を細め、口紅を引いた唇がきゅっと弓を描く。

「いいよいいよ。他のこともやりながら自分だけでここまで持ってきたのはかなり上出来。ていうかやっぱり声楽科だなと思うなあ。歌がうまい。ピアノ科だったら照れくささであっさりいきそうなところをたっぷり歌えるのは、声楽の強みだね」

 これなんだよなあ、とみそらは思って思わずきゅっと唇を吸い込んだ。葉子のレッスンを好きなのは、ピアノ専攻じゃないからうまくなくていいとか、そういうことじゃなくて、みそらが何を素地にしているのかを大切にしてくれるところだった。そしてきっとこれこそが、他の専攻楽器を練習する大きな理由のひとつなのだとも思う。

「何よりメロディラインがみそらに合ってる。いやーわたしの見立て、間違いなかったなあ」

 最後に葉子の自画自賛が交じる。それも当然のことだ。先生たちが生徒に曲を渡すとき、どれほどのことを考えていることか。

 夏休みの宿題かー。とりあえず試験曲はいったん忘れたいでしょ? だよね、試験終わったんだし。うーん、こないだのワルツよかったよね。次にはシューマンもいいかなと思ってたんだけど、あとドビュッシーとか。でもなー、印象派だと輪郭がぼやけちゃうかなまだ。それにあれだけ体の左右を使えるようになったんだからそれを維持したいんだよね。となるとやっぱワルツだよなあ。何番にしようか。みそらだもんね。みそら……そうだなあ、『ミミ』を歌ってるみそらの感じだと、これがいいかも。

 これだけのことを一気に喋って指定されたのが、この十五番だ。「可愛い田舎娘のようなふりをして、誰ひとり手を握らせない高潔な女性を演じてみて」――最後にそんな言葉をそえて。

 葉子の言葉はいつも示唆に富んでいて、その言葉を紐解く作業は声楽曲の歌詞の解釈にも通じるものがある。何より昨年やった『ミミ』――プッチーニの『私の名前はミミ』――をみそらの持ち曲だと葉子が認めていると思える言葉が嬉しかった。うまく乗せられたな、とも思うけれど、それでモチベーションが上がる――曲を好きになれるのならみそらは構わなかった。

「みそらだと、ちゃんとポーランドの土着のままに聞こえるね。本当にみそらはソプラノの人種だと思うわ」

 嫌味のない葉子の言い方に、思わず言葉がこぼれる。

「それ、三谷にも言われる」

「そうなの? みっちゃんもよくわかってるなあ」

 ふふっと笑いこぼし、葉子は右耳に髪を流した。さらりと音がするようなきれいな所作だった。

「学内選抜の合わせも進んでる?」

「うん、順調」

「喧嘩、できてる?」

「うん」

「そう」

 短い返事だったけれど、その音に深い愛情を感じて、みそらの奥がきゅっとなる。本当に――葉子ちゃんも木村先生も、どうして先生たちって、いつもこうなんだろう。

「来年になればもっと時間が厳しくなるから、今のうちにペースを掴んどかないとね。まあ颯太そうたがいなくなるぶん、みそらに集中できるって部分もあるけど」

「院だとやっぱり伴奏者も変わるんだよね」

 江藤先輩と三谷のコンビは、はたから見ていてもうらやましいものがあった。年齢差を超えて音楽で理解しあう、そういう何か、他の場所では得られないものがあると思えるのだ。

「――院じゃないよ、聞いてなかった?」

「え?」

 葉子の言葉にきょとんとした。

「江藤先輩だよね?」

「今年に入ったあたりから決めたって言ってたのよ。院じゃなくてうちのディプロマ・コースにするって。だから正確には外部生になるわね。昨日、願書出したって言ってた」

「そうなんだ……」

 大学にはいくつかプロ向けのコースがあって、ディプロマ・コースはそのひとつだった。そうか、外部生になるのか――とぼんやりと思い、昨日、という言葉が脳内で何かアラートを出す。

 昨日、――そうだ、そういえば――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る