こないだ書いたノートと真逆な事書きます。
極端にやらないと成果を上げられない人達です。
簡単に言えば「平凡から脱しよう」とする人達でしょうか。
勿論平凡から脱する必要はありません。リスクばっかりです。平凡に生きる事こそが何よりも堅実で、誠実で、実りのある生き方だと思います。
デッカい一つの成果を出すよりも、ちょこちょこ得る細かで小さな成果の方がトータルの価値は高いです。
ですが、それができない人もいますよね。
そのお話をする前に「善人」を語りますか。
善人とは、良い事をしたり目指したりする善良な人達の事です。ですが、善人が何か大きな事を成し遂げようとした時、良い事を貫かねばなりません。とても難しい。
あ、別に聖人君子であったり清廉潔白である必要もなく、多少の小狡さもあってしかるべきなんですが、その場合、やって来た事全てを暴露されると他人から見たその人は善人ではなくなります。どんなに人柄の良い人であっても不倫や脱税や賭け麻雀とかすると炎上するのです。
だから、自他共に認める善人のまま何かを成し遂げようとするには徹底して正しい事を貫かねばならない。
人間って正義の為に戦争するじゃないですか。アレって正しい事を貫けなかった結果だと思うんすよね。
でもそれじゃあ悪人認定されるので「正義」って言葉を使って良い人アピールするという。
叱責に対して口答えする人達や、口答えに対して頭ごなしに怒鳴りつける人達と似た様なもん。
平凡です。
他の意見を受け入れる準備ができてない的な。
じゃあ悪い事で何か大きな事を成そうと思ったら?
こちらも「狡さ」を貫かねば難しいと考えます。
ただ、善人も悪人も誰かのおこぼれをもらう事ができますので、そういう場合は中途半端な人であっても身の丈に合わない成果を手にできます。そういう例外もあるんすけど、それは除外。
なんでこんな事考えるのかというと、人間、生きていれば、色んな人達と関わる様になります。
「元」反社。「前」科者など、僕の知り合いにも何人かそういう人達がいます。
とはいえ、皆さんが想像する様な人達とはちょっと違うかも。
ちょいちょい取材とか受けて小遣いを稼いでる人達は現役時に「それなりの事」をやってきた人達だと考えます。僕の知り合いはそういう人達にすら到達できなかった人達。たぶん。
なんで「たぶん」なのかというと、決して現役時代のお話をしない人もいるからです。そういう人ほど怪しい。
ま、良いや。取り敢えず皆んな、「極端になれなかった人達」として考えます。
そういう人って大抵、昔の自慢話をします。
ヤンキーだった頃の悪事を武勇伝の様に話したり、良からぬ薬を捌いてた時の話だったり、誰かをボコボコにしてうっかり◯してしまった時の話だったりを笑顔で喋って自慢します。
はい、クソです。クソ野郎どもですね。
ですが、完璧なクソ野郎じゃないから「元」とか「前」なんですよね。表に戻ってそこそこの生活をしているのが何よりの証です。
どういうトコロが完璧じゃないのか。
彼らは「他人に対する思いやり」を持っています。
例えば保険料を滞納しまくって給料差押えを食らってた後輩を立て替えてあげた人がいます。なんでそんな事したのかというと「知人に惨めな暮らしを送って欲しくないから」だそう。
んで、その後輩が突然「飛んだ」そうです。その後輩もクソですが、立て替えた方もマヌケ。
勿論居所を突き止めてその後輩を詰めたそうなんですが、やっぱり親身に話を聞いてあげて後のお仕事の世話までしてあげちゃった。
裏切られたのに、優しすぎない?
だから「駄目」だったのでしょう。
他の人達もそれと同じくらい面倒見の良い人達ばかり。そして、だからこそ現在、質素な暮らしをしています。それが彼らにとって幸せなんでしょうね。
ちなみに上に書いた「悪事の武勇伝」を、僕はクソだと申しました。だってクソじゃん?
でも全然反省していないのかというと、そうじゃないんですよね。一応、彼らなりに悪い事をした認識もあるし、もう悪い事なんてしたくないらしいです。
要するに「悪事の武勇伝」とはただの強がり。
若い頃の自分が志した未来とかけ離れた生活をしている現在の自分を、より大きく見せたいという願望です。
蔑まれる様な肩書きを「すげえモノ」として認識させたい、今はショボイけど昔は凄かったんだぜ、的なアピールだと考えています。
悪人になりきれなかった人の、強がりです。
善人にしろ、悪人にしろ、極端でないと貫けない。そういう事なのでしょうね。
だから皆んな「生き難い」と感じながらも平凡の中に身を置き、極端を避けるのでしょう。
そしてたまにリスクの低い「ショボイ極端」を爆発させてスッキリする感じ? 実際は平凡の域から脱してませんが。
それで良いんですけど。つーか、それが良い。
平凡な僕らにとって、完全に極端な人は邪魔者でしかありませんから。
と、するならば。
完全な善、完全な悪、そのどちらを貫いたとしてもそれを達成できたなら、その人は多くの大きな障壁を乗り越えた「覚者」なのかもしれません。
何書いてんだ俺?
終わり。