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 はい、またおかしな事を書きます。

 小説を描いてる時、どの文字にルビを振るか、結構迷います。
 ぶっちゃけ要らない気もします。
 よく国語の漢字テストとかで「読みは簡単だけど書くのがむずい」みたいな愚痴、聞きません?
 文脈の流れで読み方は大体解るし、解らなくても話自体は理解できたりします。
 と、思うんですが、やっぱり必要。

 今日は「素振り」について書きましょう。

 この文字を皆さん、どう読みますか?
 そぶり? それとも、すぶり?
 はい、どちらとも正解です。
 この三文字だけならどっちでもオッケー。
 てゆーか、三文字だけじゃなくても、まだオッケー。

「素振りを見せる」
「素振りをする」

 コレだけだとまだ、どちらとも受け取れます。
 文脈で読み取って欲しい顕著な例だと感じます。

 ただ、文脈を描いても誤解しそうな人達がいるんじゃないかなぁ。僕のインターネット歴もそれなりに長くなって来たので、勘違いしそうな人達が頭に浮かびます。Twitterのリプ欄とかに出没する人とか。

 ちょっとセリフを書いてみましょうか?

「では何故魔力を使う素振りを見せたのですか?」

 というセリフがあったとします。
 
 普通に考えたら「そぶり」ですよね。魔力を使うかの様に振る舞う。

 でも、です。
 異世界ファンタジーを舞台にしたパークゴルフ小説だと、「すぶり」でも成立するんですよね。

「正確なアプローチをするには魔力に頼らない基本のフォームが重要なのに、何故初心者の彼に『魔力を使う素振りを見せたのですか』? まずは正しいフォームで素振りを繰り返す事が大切です」

 みたいな場合も考えられるワケです。
 上に書いたのはすごい極端な例ですが、僕は自分の描いた文章の「全て」を読んで貰えているとは思っていません。

 知ってますか? 人間が集中力を維持できる文字数は「およそ〇〇文字〜〇〇文字」みたいに決まっているそうです。小説作品は文字で勝負する分野ですので、高い確率で見逃しが起こる。見逃さない様にしようとしたら疲れてしまうのです。
 余談ですが刑務所に収監されてる人達に贈るオススメの差し入れの上位に「ミステリー小説」があります。時間に余裕があるからそういった創作物を楽しめるのでしょう。
 
 話を戻します。
 全ての文章を読まれずに言葉の端々を切り取って解釈されている事を前提にするならば、「こんなもん文脈で理解しろ」という考えはそれなりに乱暴なのかもしれません。「俺の作品を読む為に時間を用意しろ」なんて言えませんからね。

 更に、お話の途中から入ってきた読者さん達にも「本当は最初から読み直して欲しいけど面倒臭いよね? そのまま続きを読んでくれれば良い」くらいの気持ちもあって然るべきなのかも。

 また学生さんの例えで恐縮ですが、「来年は受験生だ! 今から沢山勉強しなければ!」的な感じで参考書とか問題集を数冊買う人がいるとします。
 でもそういう人って「最初の数ページ」ぐらいにしか手をつけなかったりします。やる気と集中力にギャップがある為です。
 やらないよりは良い?
 確かにそうかもしれませんが受験にはあんまり役に立たなそうです。
 だって最初の数ページって基本中の基本ですよね。そんなの入試問題で出るのでしょうか。

 むしろ「後ろのページから始めて、わからない部分があれば前半のページに戻って参考にする」みたいな勉強の仕方の方が効率が良さそうに思えます。

 小説なども同じであると考えており、途中から読んだ人はある意味「ネタバレをされた後」ですので初めに戻って読み直しても、物語に対する「未知」がありません。期待がない、と言い換えても良いかも。
 だって既に読んだ部分って確定してしまっているので期待する余地がないんですよね。段々と「わかり切った事」を苦痛に感じて飽きてしまい、読むのを辞める人も現れるでしょう。

 だから、初めから読み直そうとして挫折されるくらいなら、そんな事はせずにそのまま途中から続きを読んで欲しいなぁ、って思います。
 近年のエンタメってまず「出来事」からスタートするじゃないですか。そういう構成の作品として読んで貰えればそれで良い、的な?

 長くなりましたが、そういう人達の為にも「文脈で理解しろ」ではなくて、ルビとかそういうアレを工夫した方が良いよなぁ、と思う、今日この頃。

 ps.
 皆さん、「見逃し」ナシにこの文章、読めましたでしょうか?
 笑。

5件のコメント

  • 素振り(すぶり)って最初から正しい型でやらないといくらやっても
    鍛錬にならないのよね。
    そこを勘違いして「自己流で」いくらやっても強くもならないし
    型も身につかないので、基本だと思ってる馬鹿は
    考え直した方が良いかと。
  •  えーちゃん🤨
     同感です。
     素振りとかシャドーって「最適化された動き」を体に覚えさせる、忘れないようにする、みたいな意味が強いですからね。
     いくら技のバリエーションが増えても各駆動のタイミングがズレてたり、直前に出した技の意図と違う技出したりするなら確かに意味がないかなぁって思います。

     武道に限らずあらゆるスポーツでの「スランプ」ってそういう感じなんじゃないかなぁ。
     スポーツじゃなくてもそうか。
     キチンと練習を続けてないと変な癖がついておかしな事になる。
     なのに、おかしな事になってる意味がわからない。
     結果、ダメダメになる。
     あらゆる事に共通しますね。
     
  •  でも、なんていうかなぁ。
    「先人達の積み重ねと同等の研究をする覚悟と実際の行動」があるなら「自己流」もまた良し、とか思ってます。

     いや、洗練されてくると結局「既存の正しいフォーム」に近づいていく事の方が多いので、限りなく長い時間を無駄に消費するリスクは否めないとは思うんすけど。

     ちなみに、先人達の苦労を一代で乗り越えられる人っているのかな?
     人間の能力の限界を超えてる様な気がします。

     でもでも、そういう「独りガラパゴス状態」の人を見るとワクワクもするワケでして……。

     要するに、

     好きなようにやって!

     コレに尽きますね。
     その後どうなろうともその人の問題です。

     
     
     
  • Yっち
    先人の積み重ねは数百年のオーダなのでそれを一足飛びにと
    言うのはまず無理。武術と言うより身体操作の領域としてね。
    ましてや実戦の場がろくにない日本ではなおさら。
    戦時に数百年磨かれた技に1代で太刀打ちできるならそれは天才よ?
    下駄を履いた状態で奥義に至って、そこから戻るのが
    普通のルートだよね。

    スポーツは優劣だけの問題。実戦は命の問題。
    どちらがより真剣に取り組むかは火を見るより明らかだよね。
    メシの種が目減りしても死ぬわけじゃない。
    それを考えると流派の失伝は重いなぁと。
  •  安全性を何よりも大事にする「競技」と、効率を何よりも重視する「実戦」では確かにモチベーションに差がありますよね。
     明確にスピード感の違いが見て取れます。

     きっと失われた技術もいずれ、何らかのカタチで競技の中に復活するのでしょう。何十年か後に。

    「現在注目されているモノ」から外れたモノ達は小馬鹿にされがち、なんですけど、何かのキッカケでその「有益さ」が証明されたりなんかすると、途端に手の平を返されて賞賛される。
    「初めからそれをやってる人達」の存在は忘れられて。

     すげー遠回りに感じるのは僕だけ?

     
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