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ハイボールは美味しいとは言えない

ただ酔うために呑んでいる。
毎晩毎晩それこそ呂律が回らなくなるぐらいに。

酔っているという感覚を得るために、美味しくもないこの安物のウィスキーと炭酸で割ったハイボールを何杯も。


今日は朝からやらねばならない事もこなし、日中は雨に降られつつも冒険ついでに子どもと自転車で外出した先では望外の成果も得られ、夜のこの時間に至るまで完璧な日だったはずだ。


なのに何故こんな気持ちになるのだろう。


おそらく自分という人間が生み出した、
何もかもが演技によって作られた私自身の虚像が映し出す、まるで責任から解放されたかのような、意識と心が切り離された状態までトリップしていなければ、
きっと自由だと感じられない何か強迫観念にも似たプレッシャーを感じながら生きているからなのかもしれない。

ここ最近過去を振り返る機会が何度かあったせいで、元々ストレス耐性のない私の精神が黄色信号を灯している。


物語を読み耽る事は、
私の精神状態を保つには、とても良い要素だと思った。

ただ、これで救われていない魂がある事を既に遥か昔に知っていた。

馬鹿みたいだ。

同じ事を何度も繰り返すなんて。


まるで成長していないようだ。

少しばかり世間の事を知ったぐらいで、それを何も生かせていないじゃないか。


生涯のパートナーは、私と出逢えた事と今ある生活を、『ただ私は幸運だっただけ』
子の年齢にして若い彼女に対して、邪推に掘り下げて聞きたがる誰しもにそうやってテンプレートのように返すそうだ。

果たしてそうだろうか。


実は私の方が関わると面倒くさい人間で、
まるで協調性がなく、物事のほとんどを損得でしか考えない、他人の気持ちを推し量る器量がないどころか、人間性が欠けているような奴と一緒になってしまったのは、
そちら側で見える景色とは裏腹に、幸運中の不幸であるようにも思える。

いつもぶつかる度に丸め込むのが得意な私だが、数年に一度本気の本気でもってそれを打ち返してくるパートナーの強さに少しずつ影響を受けていると思う。

全く我ながら呆れるような話だが、
年齢とその人の人としての成熟度というのは必ずしも比例したペースで重ね増えゆくものではないのだと気付かされる。

今この胸にある感情にぶつかる時に必ず浮かぶのがJUDY AND MARYの"そばかす"にある一節、

『こわして なおして わかってるのに
それがあたしの性格だから』

これが私の性格だから。

それは仕方がない事だから、また良い経験を重ねて、前を向いて歩いてゆこう、
そんな風にご都合主義だけを、見たくないものを避けて、進んでいく未来に真の幸せが待ち受けているとは思えない。
"そばかす"とはまた違うコンプレックスをかなり重度に持っているはずなのに、
それに対して乗り越えるのと目を背けるのとでは全く意味が違うのだから。



因果応報は絶対的に世の理だと信じているので、壊される側にもいつかなるはずなのだと思っている。


前回のノートはかなりこのニュアンスが入る予定で書いていたのだが、
思いの外、未来に期待するような終わり方になってしまったが為に、不十分な吐き出し方となってしまった。

私は過去を捨てる行為自体を厭わない。

それを重荷としてしか感じないから。

本来ならそこから学び成長すべきところを放棄するような、駄目な人間だと認識している。

その場凌ぎのスキルレベルだけが上がってしまった人間の痩せた魂に、
泡沫の夢でも魂が安らげる場所などどこにもないのだ。

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