※このノートは戦争の暗い話なので、苦手な人は読まないでください。
学童疎開編の明朝更新分は中継ぎ回、あるいは前置き回となります。
昭和19年12月といえば、全体からは戦争の末期といえるかもしれませんが、銃後の生活が本当に悲惨になっていくのは昭和20年の3月ごろからのように思います。
この3月ごろから、敵軍の空襲が、それまでの精密爆撃(軍事拠点・工業地帯などを狙いにしていた)から無差別爆撃へと変化するからです。
芹沢清の『暗黒日記』の昭和20年1月11日には、
「『特攻精神』というのが毎日の新聞とラジオで高調している」
とあります。
また14日には、新聞の切り抜きとして、
「〝俺も散ろうぞ華やかに〟前線に空の特攻隊の歌生る」
とあります。
3月11日の条には、『中部日本』の切り貼りが張られ、そこには、
「一億総討死の決意を徹底」
と標題された記事があります。
こうして並べてみると、祖国のため、また愛する人々のために自らの命を1個の爆弾と変えていった、特別攻撃隊。回天、万朶、時宗、聖武、桜花等の人々が、逆に一億玉砕のお手本に祭り上げられていったように思えてなりません。
と、書いていて辛い気持ちの愚痴を書き連ねてしまいました。疎開学童の冬場の辛さと言えば、何と言っても食糧事情でしょうね。