• 異世界ファンタジー
  • 歴史・時代・伝奇

49「学童来たる」~53「面会日」補足

49「学童来たる」補足

1.隣組の歌
 最近では『この世界の片隅に』で知った人も多いんじゃないでしょうか。マキノ正博監督の『ハナ子さん』の冒頭でも、この歌が歌われています。

 ここでは紹介しませんでしたが、替え歌(作者不詳)があります。

 ドンドンドンガラリとドナリ組
 あれこれ面倒 味噌・しょう油
 回してちょうだい買いだめ品
 ああ情けない 腹減った
(『戦下のレシピ』p102)



2.学童疎開について

 最初は文京区と書いていましたが、これは戦後に合併して誕生した区でしたので本郷区に変更してあります。

 空襲の危険が近づいて来ましたが、子供たちを疎開させるのは敵前逃亡と見る風潮がありました。
 しかし、昭和19年の1月28日から30日まで、野上弥生子さんが「人口疎開と学童の問題」という論文? 評言を朝日新聞に掲載しました。その論文の中で、疎開は卑怯でも臆病でもなく必要で利益のあることと述べました。やがて戦局の悪化とともに、政府内部でも学童疎開の具体的な調査・検討へと動いていきます。

 また防衛計画上、建物が密集していると大火災になるため、建物疎開といって建物を間引きしました。

 学童疎開には2種類あり、1つは地方の親戚を頼る縁故疎開、もう1つは都市圏の学童を集団で田舎の寺院や温泉宿に疎開させる学童疎開です。

 こうした経緯については、次の書を参考にしました。
 山川長林寺資料調査会『集団疎開学寮の記録 足利郡毛野村長林寺と麻生区南山国民学校』(随想社)


 行った先によって、かなり待遇に差があったらしく、その体験談も辛かったというものから、地元に感謝しているものなどに分かれているようです。

 集団疎開した学童は、軍隊を模して、中隊や班を形成していました。
 岩城基之『学童集団疎開 記録と記憶を綴る』には小石川区林町国民学校の記録として、第1中隊から第6中隊までの名簿が掲載されています。

 それを見ると、各中隊に4つの班があり、1・2班が男子、3・4班が女子となっています。各班は3・4・5・6年生が各1名から2名いて、1班につき6~7名。1中隊は27名から31名の編成です。

 なお、静岡に集団で疎開した子供たちは、静岡も空襲されるようになったために、東北に再疎開になっています。

 また東京大空襲後、学校は停止となり、疎開していなかった1・2年生も疎開となります。

 本作で出てきた、森山第六国民学校は架空の学校です。登場人物もすべて架空です。

 他に参考にした資料には次があります。
 島田雅『泣くもんか 疎開学童たちの記録』
 逸見勝亮『写真・絵画集成 学童疎開』
 『別冊1億人の昭和史 学童疎開 国民学校から青空教室まで』
 地域雑誌『谷中根津千駄木』其36 集団学童疎開



2.寮母について
 人員については、作中で書いたように、学童50人に先生1人、25人に寮母1人の割合だったようです。
 寮母は東京から来る場合に加え、地元で寮母を募集しました。

 体験談を見ると寮母さんを○○先生と呼んでいるケースがあります。また手紙では○○様となっていて、普段は名前に先生をつけて呼んでいたと思われます。

 またこの先に出てきますが、寮母にとって、担当する25人は自分の担当という意識があったらしく、担当している子供が他の寮母を頼ると気分を害した場合もあるようです。

3.給料等
 経費一覧が『集団疎開学寮の記録 足利郡毛野村長林寺と麻生区南山国民学校』p34に出ています。知りたい方はどうぞ。


50「学童との生活」補足

1.学童の一日
島田雅『泣くもんか 疎開学童たちの記録』(p118)によれば

5:00 起床(指導員・寮母)
5:30 起床(学童)
6:00 点呼
7:00 朝礼(遙拝・訓辞・指示・体操・歌唱)
7:30 朝食
8:00 自習
8:30-11:30 学習(4時限)
12:00 昼食
13:30 錬成
15:30 清掃作業
16:00 入浴
17:30 夕食
18:30 自習
19:30 点検
20:00 消灯
20:30 指導員、寮母、打合せ
21:30 研修(指導員)
13:00 巡検

 実際は学寮によって、時間帯は異なっていたと思われますが、概ね午前中に授業があったようですね。


2.おねしょ
 作中にあるように、夜中にトイレに行くのが怖くて行けなかった子が多く、おねしょも多かったようです。
 1つの布団を2人で使っている場合、「○○ちゃん、ごめんね。トイレ怖くて行けなくて」「うん。わかった」とおねしょをする子もいたようです。

 それから作中で書いていませんが、洗濯場はポンプで水をくみ上げる形式です。



3.昼寝の子供

 次の写真をどうぞ

https://blogs.yahoo.co.jp/w1919taka/26938494.html



4.五ヵ条
 元は海軍でやっていた反省で、「至誠にもとるなかりしか」等と言っていたようです。
 作中では「もとること」と「こと」の二文字を足していますが、これは逸見勝亮『写真・絵画集成 学童疎開』に拠っています。


5.親の思い
 疎開していく子供たちの服を新調したりする。
 これが最後になるかもしれない。こういった親の思いは次の書を参考にしました。

 島田雅『泣くもんか 疎開学童たちの記録』

 同書は寮母側、子供側、先生側の記事もあり、他にも参考になっています。

 シーツの敷き方云々は、前に子供たちの合宿のお手伝いをした時の体験からです。



51「いなくなった兄妹」

1.逃亡する子供
 このように逃げ出す子供もいました。駅で捕まって先生を呼び出される子や、なかには線路を伝ったはいいものの、鉄橋を渡れずにまごまごしているところを捕まった子などいます。

 やはり寂しいというのが一番だと思いますが、学寮生活が貧しくて厳しいというのも、子供を逃亡させた理由と思います。
 ただ、貧しくて厳しいのは、学寮側にも理由があって、物資、特に食料の確保に苦労していたと思われます。

2.昭和19年秋
 秋は収穫の時期ということもあり、山盛りのカボチャを笑顔で収穫している子供の写真などが残されています。
 またイナゴを捕って、それを佃煮にした体験談もありますが、本作では書きませんでした。
 あとは幼虫食ですね。貴重なタンパク源だったと思います。

 疎開学童と面会した親からの指摘として、肌がパサパサしてきたというのがあります。
 食料のタンパク質も確保が難しかったでしょうが、脂質も少なかったのでしょう。

 ともあれ、秋はまだしも、この後の冬、春はかなり食糧事情が厳しかったと思われます。



3.捜索活動
 ぶっちゃけ「トトロ」をイメージしていますが、当時の村では同じように山狩りをしただろうと思います。

 春香が山に入る、拒否されるという下りは、一度、作中で春香を山に入れたいという作者の執念ですが(笑)、どうもそういうシーンは書くことなく終わりそうです。

 これから古代の続き、中世を描くときの伏線にと、アルテミスの弓や、元始天尊から剣をもらうシーンを描いたのですが、今のところほとんど活躍しておらず、無駄な設定になっています(泣)


4.学童内のヒエラルキー

 今でもスクールカーストってあるんでしょうか?

 このころは、子供たちの中で親分と取り巻きができて、火鉢を独占したり、お菓子を独占したりしていたとか。
 それが戦後、親分は恨みをかっている場合も多いようです。



52「秋の夜」

1.竹槍訓練
 この年、本格的に夫人の竹槍訓練が始まりました。
 年配も、赤子を背負った人もやったようです。

 なお役に立ったかどうかですが、私の住んでいるところの近くでB29が落ちて、アメリカ兵を竹槍で殺し、生き残りを憲兵が連れて行ったことがあると聞いています。

 なお、インパール作戦で、ビジェンプールの後方にいった作間連隊では、鉄条網もなくなり、竹槍を集めて陣地を囲って竹矢来を作ったそうですね。


2.散髪、しらみ、おしゃれ
 体験談には必ずと言っていいほど、しらみ退治が書かれています。
 散髪も寮母さんや互いに髪を切ったようですね。

 また戦時中とはいえ、女の子達はできる範囲でお洒落をしていたようです。
 ワンポイントの刺繍、防空頭巾を赤のメリケンで作るとか。涙ぐましいというか、いじましいと思いました。


3.雑炊食堂等
 配給切符がなくても食べられたということもあって、かなりの人が並んだようですね。
 新聞の記事は清沢洌の『暗黒日記』からの孫引きです。
 戦局はどんどん悪くなっていきます。が、春香の情報は新聞からが主なので、その真偽はつかみにくくなっています。
 とくに大本営発表も、このころから嘘ばかりになりますので。


 また東京などの大都市と、地方農村の格差というか、緊迫感などがどうも違っているように思います。
 戦後世代なのでよくわからないところですが……。『この世界の片隅に』を見ても、軍人の家であり、主人公の性格もあって、あまり生活苦があるようには見えないし。
 本格的な飢えは、もしかしたら終戦後の方がひどかったのかもしれません。


4.昭和万葉集
 春香が7話「夏樹からの手紙」でちらと書きましたが、自分のノートに和歌を書き付けています。章タイトルになっているわけですが、それをここで挙げています。

 またコーヒーなどの嗜好品は入手できなかったのではないかという指摘がありました。
 その通りですので、たんぽぽコーヒーに変更しました。
 wikiによれば、戦中の代用としてたんぽぽコーヒーはドイツで、どんぐりコーヒーは日本とドイツで飲まれていたようです。
 私は子供がいるので、たんぽぽコーヒーは飲んだ事がありますが、どんぐりコーヒーはないんですよね。
 それでよくわからなかったので、作中ではたんぽぽコーヒーにしてあります。


53「面会日」

 面会が始まったころは、各学期に1度という制限がありましたが、受け入れ側の学寮にとっては結構な頻度で面会が行われたようです。


 面会時は食べ物は禁止ですが、隠れて食べている子が多く、終了後にお腹を壊す子が多かったとか。

 面会に備えて、配給のパンやキャラメルを確保したり、自分たちで揚げ菓子を作ってそれにハチミツや砂糖をまぶしたりとしたようです。
 が、作中でも書いたように、おそらく痛んでいたものもあったでしょう。親心はわかりますけど。

 また小包に隠したお菓子は、先生が没収。子供たちに分配されずに、先生と寮母で分けて食べた事も非常に多かったようです。
 それで子供たちに逆襲されて、先生の部屋を襲撃した子供たちがお菓子を奪い返すなんて学寮もありました。

 作中の舞台は内陸部の農村です。きっと水産物が少なかったと思っています。お昆布とか、干し魚とかがあれば、もっと料理のバリエーションもできただろうなって思います。
 特にお昆布ね。お出汁に使うやつ。書いてないけど、作中では干し椎茸などをつかっていると想定しています。

 政府では生臭い魚粉の利用を検討していたようです。実際のその魚粉を口にしたことはないのですが、例えば日本酒を使ったりして生臭さを軽減できなかったんですかね。
 カラカラに炒っても無理か……。物を見たことがないだけに、なんとも。



○盲腸について
 吉田洋一・吉田克巳「日本の虫垂切除率について」によれば、
 1915年~42年の平均虫垂炎患者数を58,800人。虫垂炎手術致命率は、約4.87%という報告があり、また終戦後、昭和23年の箱館の中・女学校生徒と家族の統計では、切除手術は全体の4.35%であったようです。

 全体として薬で散らすが多かったようですが、手術もあり、ご承知のように術後が問題であったようです。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する