朝から卯月は『蝿の王』をひさしぶりに読み返しておりました。
前に読んだのはたぶん新潮文庫版の平井正穂訳だったはず、今回は黒原敏行の新訳版です。文章のことなんて覚えてはいないけど、ずいぶん読みやすい。(そうは言っても今どきの中高生にはどうかはわからない)
ノーベル文学賞作家、ウィリアム・ゴールディングの名作ですね。最近気づけば、ジャンルは違えどノーベル賞がらみのモノをよく読んでいる(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ「戦争は女の顔をしていない」、ガブリエル・ガルシア=マルケス「百年の孤独」、ハン・ガン「すべての、白いものたちの」)。
日本人なので母国語でニホンブンガクを読んでいればよいのでしょうけど、文章修行の目的以外ではあまり読まなくなった(ハルキのも)。
まあ、それはよいとして、「蝿の王」(1954年)は孤島漂着もの(ロビンゾナーデ)です。ロビンゾナーデはロビンソン・クルーソーものを意味するドイツ語。少年が出てくるのはジュール・ヴェルヌの「十五少年漂流記」(1888年)が日本ではおなじみですけど、あれの暗黒版って感じですかね。日本の漫画でいうと楳図かずおの「漂流教室」側。作者によれば『珊瑚島』という日本では馴染の薄い孤島漂着ものを元ネタにしている(少年たちが知恵と勇気で困難を乗り越える)のだとか。
読み終えて頭に浮かんだのは「性善説」「性悪説」の言葉。人の本性は善か悪かっていうアレですね。元ネタの孟子や荀子あたりで調べてみると、よく使われているこの言葉がズレていることが分かるのですけど長くなるのでやめておきます。
ここでの「性」は「生まれつき」の意味。性善説の孟子も性悪説の荀子も、人間には生まれつき善と悪があるってしたのは同じ。孟子は善なる心を広げていくことで悪の部分を減らしていこうとする。これに対して荀子は、礼(社会ルール)を徹底することで人間は教育されて良くなるって考えた。
孟子も荀子も中国の人ですから西洋はどうかというと、フランスのジャン=ジャック・ルソーが有名、あの「社会契約論」の人。彼の著書『エミール』が性善説でよく取り上げられる。その当時のフランスではカトリックの教えで、人間には原罪があり、日々悔い改めることで善くなるという、いわゆる性悪説が浸透していました。
それに反してルソーが唱えたのは、生まれながらの無垢な子どもの善さを大切にする温かいまなざしのある性善説の子ども観。「子どもの自主性や自発性を重視し、希望のある教育」というよく聞くあれの元ですね。「エミール」の冒頭文にはこうあります。「あらゆるものは物造主の手から出た時は善であるが、人間の手の中では悪になる」。性善説の立場ですね。
子どもを純粋な善なるモノとして捉えるのは良いことなのは間違いないのでしょうけど、まあ実際は「弱肉強食の過酷な野生の王国」だったりしますね。大人社会だと社会常識、法律、なんやかんやで善き人としてみんな振る舞いますけど、子ども社会にはいうほど適用されず。いじめも減らない(学校がアンケートなんかをとって状況把握しようとするあれにさほど意味はない。子どもはそんなものにひっかかるほどアホでもないし、教師にも期待していない)
ネットも性悪説に立たないと変な詐欺にひっかかったりする。一時期テレワークが流行ったときも企業によっては監視ソフトなんかでサボらずちゃんと働いているかこっそりやってたとか。SNSなんかでのどうでもいい他人のナニカにあんなに執拗に攻撃的になる大人たちをみていても性悪説に立ったほうが無難な気もしてくる。
この平和な日本は性善説をベースに構築された社会かと思います。
どんな人でも基本はいい人であって、誠実さを持っているはずだ。敵対する相手がいるとしてもきっと話し合えばわかるはずみたいな。物語だとそういう方向で問題が解決しちゃったりよくする。(現実世界では裏切られることのほうが多い? だからこその創作物)
次の小説の世界設定にも影響するなぁ、なんて『蝿の王』の内容よりそっちのほうを考えておりました。異世界モノでもハイファンの硬派なやつだと性悪説ベースでしょうか。ゆるい「ナーロッパ」モノだとほぼ雰囲気的には日本な性善説とか。
人族でもエルフでも魔族でも、生まれつき善と悪がある(0とか100じゃなく)って考えればどうともできることなのですけどね。おや? SFの人工知能モノはどうするのだろう、敵性地球外生命体も……。そもそもの善悪のとらえかたが違うし。
まだ、カクヨムコンに向けて何を書こうか決まらない卯月は、今日もどうでもよいことを妄想しているのでした。
ということで、曲も。
amazarashi 『性善説』
https://www.youtube.com/watch?v=ja3UA2lagAMでは。