朝井リョウの『正欲』を読みました。
「ああ、これ、書きたかったやつだ」となりました。
書く人なら多かれ少なかれこの感覚はわかると思います。
私が私の内側で持っていたテーマが、かなり高精度で小説化されているわけです。
となれば、もうそれを書く理由がない。
多様性という言葉の背後に隠されているどす黒く汚れた醜い欲望というのは無数にあるわけです。
たとえば小児性愛、獣姦、近親相姦、など。
私たちの社会の多様性は、決してそうした欲望を受け入れることはありません
近親相姦あたりはそろそろ堂々と肯定的に主張する人たちが現れてもおかしくないかなと思います(もしかしたらもういる?)
小児性愛と獣姦が社会的に認められることは今後もおそらくないでしょう。(根本的に越え難い論理的障壁がある。倫理ではなく)
朝井リョウの『正欲』はめちゃくちゃ良い作品なのですが、あえて言いたい点が一つあります。
なんとなく綺麗にまとまっていること。です。
実際は怖気立つほどグロテスクな欲望をいくらでも描けるはずなのですが、あえて中心に置いた欲望の対象が「水」でした。
流れる清らかなものとしての水。あらゆるものを濯いでくれる水。それを欲望の中心に据えてしまっては、読者にはどうにも嫌悪感や憎悪は生まれません。
そうした感情が生まれてはいけないわけです。生まれてしまっては、社会の抱える葛藤を明示することができなくなってしまう。単なる嫌悪で終わってしまうから。
でも、ただ綺麗なものとして、透明なものとしてその欲望を書いてしまっては、そこに生まれるのは、共感や同情になってしまう。
マジョリティがマイノリティに与えるあまりに傲慢な寛容や、真に社会的に排除されるべきと判断されるような異分子が射程から外れているのです。
では、どうしたら良かったのかといえば……そんなの私にはわかりません。(わかってるなら自分で全部書く)
それにしてもプロの作家はすごい。こんなにわかりやすく「多様性」という言葉がはらむ気持ち悪さや不都合を日のもとにさらすのだから、すごい。
私はこうした欲望を悪(あるいは内的悪)と呼ぶことにしています。
現代は「虐げられていた悪」が「マジョリティの傲慢な寛容」によって一般化される時代という気がしています。
一般化された悪は、公に引き出されて悪として機能することができなくなります。
そうした一般化で許容可能だと考えられる人々は間違いなくマジョリティで、マジョリティは想像がまるでおよばない悪がどこかに存在していることを仮定することすらできません。
朝井リョウが水を用いた理由の一つは、欲望はあらゆる形を取りうるという暗喩かもしれません。
同時に、突飛というか、それこそ私たちの想像の及ぶような性欲の一つとして考えにくいというのもあるように思います。
小説の中で、登場人物たちはその内的悪を自給自足しようと試みます。
自給自足。ここがまた、一つの新しいテーマになるものかと思っています。自分でも掌編でいくつかそうしたものを書いたのですが、掌編ですら、朝井リョウのように洗練された作品を書くことができない……。
フィルターバブルという言葉があるように、私たちは私たちの好む情報しか次第に取らなくなってきています。
そうして行き着く最終形(あるいはデフォルメ)が内的欲望、悪の自給自足なのではないかと思います。
それは間違いなくおぞましいのですが、なぜおぞましいのか、それに上手な答えが出せないままです。
もう一つ鍵となる点に、他者と欲望を共有する、という点があります。これは、人の根幹なのかもしれない。
私のいちばんの欲望。
私が、私にとって良いと思うもの、思えるもの、納得できるものを、死ぬまでに一作品でも書き上げること。
これは私の悪です。仮に、人を殺さなければ書けないならば、殺すかもしれないから。
……あれ、なんの話だっけ。迷子。カオス。酩酊。
ええと、朝井リョウの『正欲』、読んでね。
今をとてもよく捉えた作品だと思います。眠い。。。