空を飛ぶのも、ポケモンと一緒に暮らすのも、かめはめ波を打つことだって、難しいことではなかった。
日常のどこにだってファンタジーが息づいていて、あらゆる物語は勝手気ままに動き出していた。
毎日が新しくて、キラキラしていて、新鮮で、見たことのない空や色や人や街はどこにもで溢れていた。
……はずなのに。
はて、あの頃の魔法はどこに消えてしまったのだろう?
最近、年齢を重ねるというのは、得る以上に失うものの方が多いのかもしれない、と思うようになりました。
幼少期に未分化だった世界は知を得るごとに線が引かれていき、また、その線の引き方も多様であって、それらがぐちゃぐちゃ絡み合うなかで、もがきながらなんとか息し、生きています。
自由のための知識が、桎梏となって私を動けなくすることがあるだなんて、好奇心にしたがってひたすらに新しいものを探していた日々には、想像すらできませんでした。
かつて見た空、道端を這う小さな虫、ラムネ瓶から取り出したビー玉、夏の花火に蝉の声、にわか雨、汚れたサッカーボール、隣町の小さな公園。
美しかったはずのそれらは、いつのまにか「多くのもののなかに一つ」に過ぎなくなってしまいました。
大きな時を経て、経験はおおきく膨らんだふるいとなって、類型を言葉の網で絡めとってしまう。
経験の向こう側にある世界はどこかくすんで見える。
でも、もしかしたら。
世界がつまらなく見えるのは、結局、それを映し出す私自身がつまらない人間だからなのかもしれません。
思考を突き詰めていくと、日常にある無数の出来事を過去に経験した類型に落としこんで細かな差異を無視してしまうことが、いつの間にか癖になっています。
普通に生活していると、無駄が省かれ、洗練されていきます。
たとえば、駅までの途中の道に咲いている花の日々の変化に、意識を向けることなどありません。
咲いた、萎れた、散った、という言葉で表現可能な枠組みに連続的な変化はすべて落とし込まれてしまう。
でも、その細かな差異こそが、きっと生の意味なのに。
本当は、昨日と今日とで同じ花などこの世界には存在しません。人も同じ。昨日と今日とでまったく同じ人なんてどこにもいない。もっといえば、自分も同じ。
昨日と今日とで異なるはずなのに、意識をそこに向けないと、細かな差異がどんどんこぼれ落ちてしまう。
成長の過程で人間の脳が効率化していき、問いに対してほとんど反射のように答えを導き出してしまうようになるのは、進化の過程でとても有用だったのでしょう。
人類は作物や家畜を増やすために、奴隷のように生き、文明と呼ばれるものを肥大化させてきました。
効率化、という悪魔的な呪いが、歴史の背景で渦巻いていて、今でもそれは、人間の欲望のままぶくぶくと太り続けているのでしょう。
そうして、
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
などとついつい問うてみたくなります。
遠い過去の、知識もなにも持っていなかったあの頃の、あの純粋な感動や喜びは、やはり、魔法の力なのでしょうね。
私がとうに失ってしまったなにかを、きっと今も持ち続けている人がいます。
そして、そうした人たちが、ときどき私に魔法をかけてくれます。
境界線のない、連続した、喜びや悲しみや恐怖や感動が混ざり合ったあの世界を、言葉の網の目をくぐって感じさせてくれる、そんな作品が、世の中にはたくさんあります。
ただそれを、受け取るだけの人間で、自分の人生を終わらせたくはない。
折り返しも近くなって、強くそう思うようになりました。
良い作品を書きたい。
自分が心の底から納得できる、言葉や知、類型の網の目をかいくぐって、人の心に届く作品が書きたい。
そのために、ちょっと真面目にならなきゃならんな、と思っています。
というわけで、しばらくカクヨムから離脱します。
定期的に皆さんの作品にお邪魔するとは思いますが、読むだけで、カクヨムでは基本的には書かないつもりです。
というわけで、『名のない人々』は今あるもので完結とします。そのうち書き直したり、消したりすると思います。
『小説を書くにあたっての覚え書き』に関しては、作品ノートのような形で、時々は書くかもしれません。未定。
今後書いた小説は適当な文学賞に送ることにします。
人に読んでもらい、コメントをもらうことはとても嬉しいです。
でも、ただ嬉しいだけで終わりたくない。
私が書くもの、書いたものを、知らない誰かに届けたい。
そして、もう一度あの頃の魔法を思い出したい。
書くことが、きっとそのための手段だから。
さあ、書くぞ。