• 恋愛
  • 現代ドラマ

主人公

 読者としての自分と、作者としての自分とで分裂していると感じる今日このごろです。

 読者として、なんの責任もない私は主人公の物語よりも、サブキャラのほうに惹かれます。
 主人公ばかりが活躍する話よりも、他のキャラも華を持たせてくれる作品のほうが好きです。
 だから群像劇を好むのです。なにしろ、そちらのほうが好きなキャラが活躍してくれるかもしれないから。

 だけど、作者としては基本的に主人公重視です。
 そうしたほうがいいと、セオリーとして分かっているため。
 純粋に思い入れもできやすいですし。
 以前、バッドエンドをこの主人公は幸せにならなきゃ駄目だろうと思い、ハッピーエンドに変えた事例もあります。
 主人公というのはそれくらいの力を持っていなきゃ、駄目なのです。
 主観、主人公一人のために捧げられた物語のほうが美しいと感じます。

 さて、ここからは本題なのですが。
 私としてはあるキャラが刺さり切らない(好きになり切れない)理由を求めていまして。
 キャラそのものに問題はないのです。分かりやすいヒーロー的な活躍シーン・見せ場がないくらいで。
 それでも好きになるには十分な描写でした。ではなにが足りなかったかというと、直感ではこうです。
 ぶっちゃけ思い入れの差じゃないかと。
 このキャラの描き方は、いわゆる独り舞台です。個人がつむぐ物語に他者は介入する余地がないし、裏側を誰も知らない。
 だからこそ個人の描写に集中できるのですが、相乗効果も生まれない。
 他の作品(というかキャラなんですけど)は、掘り下げるときは主人公を介するのです。対話の中で本心を見せたり、対立することで解像度を上げたり。答えを得るのも主人公との邂逅がきっかけだったり。
 このキャラはそれがなかった。だから、こちらとの距離が縮まらないままだったのではないかと。
 秘め隠すことがキャラクターとしての構造上重要であったとしても、覆い隠していたことが露見したり、秘密を主人公と共有する関係性を築いたほうが、インパクトは出るのです。

 掘り下げるにしても見せ場を作るにしても、主人公を介在させないとなと思う感じです。
 主人公はただそこにいるだけで役割を果たします。主人公への好意や感情は、そのままこちら側へ転換されます。近づいてくれればくれるほど、本当に距離が近くなるし、思い入れが出るものなのです。
 いうなれば、サブキャラたちが主人公に好意的に接してくれる・メインストーリー上で問題に対して共に立ち向かってくれるだけで、勝手に好感度が上がるし、仲間意識が勝手に芽生えるわけです。これが思い入れです。

 主人公の役割はカメラ役になるだけでなく、当事者意識をこちら側に芽生えさせることにあると感じます。
 そこに立っているだけで、実際に物語の世界にいるような気がする。体験したこと、思い出などを共有できる。
 感情移入・自己投影できるかの問題ではありません。ただ、存在するだけでピントが合う。そこに自分の意識を投影できる。それだけが重要なのです。
 傍観者になるだけでも効果を発揮します。各、サブキャラたちが主役の物語は、主人公が観測しているからこそ意味を持ちます。そこに立ち会ったという認識があるから、メインストーリーとして成立するのです。
 逆に、主人公がいない話となると、認識がぼやけます。なんのためにこれをやっているのか分からない・ただ関係のない話を延々と見させられているといった感じになるのです。
 まあ、最初から群像劇・多主人公と明言されているのなら、話は別ですが。

 よく、ストーリーでの批判内容として、「主人公が傍観者のままだった」というのがあります。
 プレイヤー視点の私だと、そこはどうでもいいのです。サブキャラのほうが好きですし。
 ただ、創作者目線だと違います。主人公が物語に介入する効果は思いっているよりも、大きい。目立つのがサブキャラになろうが、関係ない。
 主人公が中心となる物語という視点は、ソシャゲ媒体こそ重要かもしれません。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する