【読書】
雨の降る日は学校に行かない(2017年発行の文庫版)
【著者】
相沢 沙呼さん
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【興味を惹かれた要素】
書店にたくさんの本が並ぶ中、この本を手にとった理由はいくつかあります。率直に意味の伝わるタイトル、予感させる物語のジャンルが明確であった点です。続けて表紙絵、教室の中でビニール傘をさして佇む制服姿の少女が、とても印象的であったからです。
その他にも、裏表紙の作品紹介欄に「現役の中高生たちへ」という一文があったことや、時間をかけずに読み進められる連作短編集であったことが理由になります。
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最初の短編『ねぇ、卵の殻が付いている』
最初の一行目で「ねぇ、卵の殻が付いているよ」とセリフで始まるのが良い。制服のニットにこびり付いていたので、誰かが意図的にくっつけたのかな? これがイジメの原因かな? と思いました。
話の大筋としては、登校拒否の女子中学生が二人、保健室に通って何かしているというものです。やがて一人は教室に復帰し、おいてけぼりにされた主人公が嫉妬します。
ようするに、ひきこもり体質の女子生徒たちの友情と、社会復帰の話であるように見られました。
正直な感想をあげると、この短編を読み終えた時点で抱いた感想は「微妙」でした。1000字だけを読んで、続きを読むかどうかを決めるなら、間違いなくここで切ります。以下に理由をあげます。
1.主要キャラクターの動機が薄い。行動理由がわからない。
二人がどうして登校拒否になっているのか正直わかりません。何かイジメのような出来事があり、二人は学校にいけなくなりました。だけど保健室登校はできます。という理由がイマイチ掴めませんでした。
2.二人の理解者である、保健室の先生の言動や行動に疑問。
生徒の二人には味方がいます。保健室登校を容認している『保健室の先生』です。しかしこの先生もまた、基本的には『社会復帰』(本書の場合だと教室復帰かも)を促している行動や言動が見受けられます。
私的な意見になりますが、現在進行形で『登校拒否』をしている生徒に対して、社会復帰を促すのは悪手だと感じられます。
社会に馴染めない人間に、少し休んでから、また元の環境に戻れといったところで、99%ロクでもない結果になります。
学校という環境に通うよりも優先すべきことは、登校拒否をする生徒に対して、具体的な夢や目標が見える手段を模索する。あるいはそれが持てるようになるには、どんな手段があるか。時間をかけて一緒に考えるのが、一番の近道ではないでしょうか。
少なくともわたしの場合はそうでした。
初対面の方に「はじめまして。おはようございます。本日はよろしくお願いいたします」と、噛まずにまともな挨拶ができるまで、5年ぐらいかかりました。
フッ……真のコミュ障を舐めてもらっては困るぜ……?
(当時の方々、たいへんなご迷惑をかけてまことに申し訳ございませんでした。今は二次元の嫁とまっとうに未来を見据えて生きております。感想に戻ります)
3.物語の結末が弱い。
上記2点(キャラクターの動機が見えない、サブキャラクターの言動に正当性が感じられない)で、少女の一人が登校を再開するようになった理由がやっぱりわかりません。
理由は、父親の仕事の都合でべつの学校に行くようになったから。というものです。
……えっと、なんで?
イジメにあってた女の子が、来月にはべつの学校に通うことになったから、それをキッカケにイジメのあった教室に戻ることができました。
どうして? もうずっと嫌なところに通う必要がなくなったから?
でも、たった一人の友達に隠す必要もなくない?
わたしがこの女の子の立場なら、転校までに残された時間を、保健室で出来た唯一の友達と過ごします。たいせつな時間を、改善される見込みのない環境の中で過ごすって、それこそ無意味だと思います。
以上のような理由から、登場人物の行動や思考が、わたしには上手くトレースできませんでした。
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2番目の短編『好きな人のいない教室』
化粧品よりも文房具が好きな女の子と、イラストが上手に書ける男子の話です。二人は「世間一般の普通」に馴染めず、折り合いがつけられず、つけられない故に「お似合いだよ。付き合っちゃえよー」と囃したてられ、恋人のレッテルを張り付けられる、という話です。
このお話の動機はわかります。
「あるある」と頷きました。
世間から、言われもないレッテルを貼られた人間はどうするか。笑って受け流せるのが「一般的な感性」なのでしょうが、それが難しい、できない人間も大勢いるわけです。
ですが、中には「なんとでも言え。わたしは、わたしだ」と、きつ然と立ち向かえる人間がいます。
女の子の最後のセリフ「ねぇ、ノートを見せてよ」に、男前だなぁと笑いました。ちなみに解説者のあとがきにも、〝思わず拍手したくなるほどカッコイイ〟と書かれていて、また笑いました。
タフなイケメン(女子)を求める方は、ぜひ一読ください。
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3番目の短編『死にたいノート』
作者さんの筆が勢いよく、楽しげに踊っているなぁ。と思えた短編がこちらです。
どうもわたしは、作品の中で〝理屈を超越した熱量〟を感じられる箇所が特別に好きなようで、短編の中ではこれが一番好きです。
話の大筋としては、中二病をわずらっている女子中学生(14歳)が、自分の手帳を『死にたいノート』と名付け、遺書の話を書き連ねています。それがクラスメイトの女子に見つかって、手帳の持ち主を探すことになってしまう。という話です。
ストーリー、キャラクター、設定の各要素が高い水準でまとまっています。物語の結末も「探し求めた答えは、身近なところにあった」という形で、綺麗に終わりました。
ところで、この死にたいノートを書き連ねる女子の価値観はものすごく狭いのです。お葬式の時に、どれぐらいの人が来てくれるかで人間の価値観は決まる。とか言っていたりします。
けど、その感じ方はよく分かります。これは、わたしが常々思っている事ですが、現代の人間は等しく【呪い】にかかっていると感じます。
それが、
【〝目に見える数字〟が、大きい方が、偉い、すごい、強い】
ということです。
物事を客観的に見るには【数字の大小】は欠かせません。数字が大きくなると嬉しいし、少なくなると悲しいものです。
しかし死んでしまい、風化して灰になってしまった人間は、そもそも死んだ本人たちからすれば、等しくゼロで無価値なはずです。
ですが少女の視点は、死んだ自分ではなくて、死んだ人間を見つめる眼差しに存在しています。だから、お葬式に来てくれる人の数で、その人間の価値がわかる。という見方をしてしまうのです。
それが【目に見える数字の呪い】にかかった人間の真実です。
わたしが思うのは「死にたい」は「生きたい」と同義だということです。夢や目標が見つけられない人は、自分が【呪い】にかかっていないかを、改めてさらに一段階、離れた視点から客観的に見つめ直す必要があると思います。
でなければ、行き着く未来は【異世界に転生したレベル9999の自分】以外にありえません。
実際、わたしが登校拒否になり、ひきこもっている時、実兄から諭されたのがそういう事でした。
こちらの女子には、今後も頑張って生きていただきたい。
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4番目の短編『プリーツ・カースト』
スカートが短い女子は良く喋り、良い香りがして明るい。スカートが長い女子は、地味で暗く、汗くさい。という設定を記号として固定化した短編です。
反射的に「それは違うよ?」と声にでました。男性からの視点だと、スカートの短い女子は明るい。そういう第一印象を持つのかもしれません。
話の大筋としては、スカートの短いギャル娘が、スカートの長い地味娘の顔を「能面」に似ていると言ったら、それが流行して「おたふくさん」と呼ばれ、イジメの対象になってしまったという話。
以前の話と同じく、レッテルを張り付けたら一瞬で広まり、特定の個人を一斉に攻撃しはじめる。という内容です。異なるのは、レッテルを張り付けた〝イジメ側〟の視点で書かれているということです。
正当な感想からは少し離れてしまいますが、アイディアを突きつければ、新しい組み合わせの話が産まれそうだと思った作品です。
結果としてイジメっ子になってしまった、スカートの短い『ギャル娘』のキャラクターも、単純におもしろいです。
スカートの長さという、表面的に記号にこだわりすぎていて、他の支えが一切ありません。自分に対する絶対的な信頼も『スカートの短さ』だけに依存しています。
だから「おたふくさん」である、スカートの長い娘の意外な才能が露見されるだけで、プライドが根底から崩壊します。弱キャラです。
中身が豆腐メンタル過ぎて、チョロ過ぎて萌えます。(邪悪な笑顔)
『嫌な娘』『イジメを実行する女の子』を主人公にするのは、基本的に誰もやりたがらないと思います。
しかし、やりたがらない分、開拓する余地のあるジャンルだと思ったわけです。
オタク的発想からすると、ギャル娘が本当は地味娘のことが好きだったり、家に帰ると中身が入れ替わったり、地味娘がギャル娘の好きな男子と付き合い始めてそれを寝取るとか、地味娘がイジメを苦に自殺してしまって、ギャル娘の生涯を一生呪い続けるとか。
エグいけれど、ハマれば癖になるような、奇妙な科学反応を起こしそう。イジメ側女子を主観にすることで、人々の欲求を満たす物語がいろいろ発掘されそうな予感は覚えます。
豆腐メンタルギャル×イジメ女子×見栄っ張りツンデレ。
ニーズとしてはアリではなかろうか。
企画としてだせば、通るかもしれない。
澤村・スペンサー・リリリンゴという名前はどうでしょうか。
すいません。感想を一行でまとめると
「キャラ可愛い」です。
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5番目の話『放課後のピント合わせ』
一番、ラノベっぽい話です。ラノベ、アニメは好きだけど、一般文芸はちょっと……という方は、この話から読み進めてみるのは如何でしょうか。
話の内容は、ニコ動タイプの生放送で、女子中学生が自分の下着姿を配信しているところから始まります。
視聴者から「女神降臨!」「エロい!」と言われて、地味な女の子が承認欲求を満たしています。それがどんどん高まり、最終的には学校の教室の机で股を開いて、胸をさらして自撮り行為に耽ってしまいます。
誰かに見られたら死ぬ。という場面を、まさに担任(男)に見つかってしまうという話です。
余談ですが、この後の展開に関して「先生のセリフが意図的なのか気になる」と、あとがきの解説者がおっしゃっていましたが、わたしもまったく同じことを思いました。
結末は、主人公が新しい目標を見つけた。という事になります。都合が良すぎる感もありますが、間違いなくハッピーエンドの類ではあるので、そういう意味でも、最初に読む話としてはいいかもです。
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6番目の話『雨の降る日は学校に行かない』
具体性のある、イジメの話。1番目の話『ねぇ、卵の殻がついている』と対になる話です。1話の補完的な内容になっています。
どうしてイジメが起きたか。理解者のいない現実。
義務教育という、学校に行かなければいけない、ルール。
いけなくなった理由。割れる卵の殻。雛。大人になること。占い。
環境の変化。認識。
そういうものが、ギッシリ詰まっています。
イジメの内容もストレートです。
牛乳の匂いが染みついた雑巾を投げられる。臭い臭いと言われる。担任の教師からは「協調性がないのが悪い」と言われる。
ウチの子が〝普通に過ごすには〟どうしたらいいでしょうか。教師に同感する母親。現場には特に介入してこない父親。
ただ一人の理解者になりえそうな保健室の先生も、具体性のある方針は見つけられていない。イジメられた子が、いつか社会復帰をすることを願い、とにかく〝学校〟に来ることは薦める。保健室に通うことだけを推奨します。
1話の内容の補完であるから、イジメられている女の子が、保健室登校をすることになった現状は理解でき、共感もできます
保健室の先生の露出も増えるので、1話ではまったく理解できなかった言動や行動も、この話によっていくらか納得することもできた。
――ただ、モヤモヤした感覚が強まったのも事実です。
総評にまとめます。
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【総評】
ここからは、本書の感想とは異なって、わたし個人の強い感想になることを記しておきます。
まずわたしは、現代の人間は学校に行かなくても良いと思います。
学校に行くことで、夢や目標が叶うビジョンを持っているならば、行った方が良い。学校に行かない時間を利用することで、将来の自分を確立できるなら、そちらに依存すれば良い話です。
悩ましいのは、そのビジョンが【人間特有の呪い】にかかっている場合です。今見つめている自分の夢や目標が、本当に自分自身が求めているものかは、正直わからない事はあります。
その他、挨拶ができない子に「学校に行くのをやめて、他の方法で将来を安定させる方法を探そう」と提案したところで、やっぱりそれは難しいのです。
何を隠そう、わたしは、ひきこもりをこじらせた、ヒッキー自宅プロダクション所属の下、プロのひきこもりとして二次元に幸せに浸っていたのでよくわかります。
現コミュ障の環境クラッシャーから言えることは、大人というのは、どうにかして「最低限、笑顔で挨拶ができる人」に矯正させようとしてきます。笑顔と挨拶の大切さを、身をもって教えようとするのです。
本作に出てくる少女たちの担任と、保健室の先生は、視点や態度は異なるものの、その点がまったく同じです
おはよう、こんにちは、よろしくお願いします。と
呪文のように再三繰り返したら、次のステップは環境への復帰です。
身をもって経験済みです。失敗したら、余計にこじらせます。
さらに自信を喪失して、自殺する可能性も、そこそこあったような気もします。リスカとは自傷行為はまったくなかったけれど。五感が機能してる感覚がなかった。
ただ、わたしの場合は、社会への復帰ではなく【理想的な社会】を、長い時間をかけて、根気よくやり方を考えてくれる人がいました。
「おはよう」「こんにちは」「よろしくお願いします」
そのありふれた一言が言えなくても、許される世界がほしい。
偏執的な思考の断片を理解してくれて、逆に提案を持ちかけ、共有してくれる人たちがいました。そんな世界はありえないよ。ではなくて、そんな世界があってもいいかもね。どうすればできる? と考えてくれる人たちと過ごしている間に、いつのまにか、知らない人にも「こんにちは」と挨拶ができるようになったわけです。
本書には、そうした人たちは登場しません。誰もが「どうしたら良いかわからないけど、何とか毎日を生きてるんだよ。だから君も出来るはずだよ」と、当たり障りのない事を言う人たちばっかりです。
それから余裕を取り戻すと、本来は人助けをする立場のある教師たちが、どうしてそういう事を言ったのかも、わかってきます。
教師が、人助けをしない理由は単純です。
人助けは『コスパが悪い』のです。
学校という場所に通う『人材』は、何をせずとも、どうせ3年で入れ替わります。であれば、たった一人の社会に適していない人間を救おうとするよりも、卒業する前に自ら立ち去ってくれる方が都合が良いのです。
ある程度〝できないとわかっていて〟イジメられた側が環境を逃げだしてくれるように、半ば意図して仕向けるわけです。
「挨拶をして、教室に戻れるようにしよう」と。
イジメられる側も、なんとなくわかっています。だからガマンしてしまう。逃げたら負け。耐えたら自分の勝ちだと錯覚してしまう。耐えることが目標になってしまい、状況はさらに悪化します。
耐えて、耐えて、耐えて、やがてパンクする。パンクして、フラフラになった後、まともな治療をせず、周りの声に急かされて環境に復帰すると、また、耐えて、耐えて、耐えて……の繰り返しです。
人によっては自殺するでしょう。
自殺してしまった人は、周囲から見れば、その環境に『悪影響』しか及ぼしていないわけですから「死んだ側にも責任がある」とかいう意見が普通にでます。
だからわたし達は、死にたくなければ、本当にたっぷりと、それに相応しい時間をかけなくてはいけない。ひとつずつ、段階を乗り越える必要があります。そして本当にできる人間というのは『コスパが悪い』という言い訳をしません。『可能性があるから時間をかける』と言う。
どんな分野の天才でも、一日であらゆる事をやれ。と言われたら、できるわけがない。これと同じで、不器用な人間に、当たり前のことを明日からやれ。と言われても、一日で出来るようにはならんのです。
コスパが悪い人間を、ガンガン斬り捨てていくか。それとも丁寧に、時間をかけて、べつの側面から救われる可能性を見据えていくのか。
本書の少女たちは、他の誰かから手助けされることはあっても、誰かと共に『膨大な時間をかける。コストを割いてくれる人』がいません。
今後も自らの二本足だけで支え、立ち上がらなくてはいけません。一人ぼっちで、世間の衆目に晒されながら、しんどい想いをしながら大人になって、その後も自分だけの力で幸せにならなくてはいけません。
それはもはや、完璧に自立した【強い人間】の話です。ありふれた14歳の少女の話ではないと思います。そういった意味合いで、物語の過程に納得できる事はあったけど、六本の短編のうち、結末に強い共感を覚えるものはありませんでした。わたしには難しかった。
一般文芸であれど、ライトノベルであれど、未来の可能性を示唆する物語は、とても素敵なものであるはずです。
わたしは、そういう物語を求め、毎日を生きています。
今、読んでみたいのは、そういう物語です。
2017/10/07
秋雨あきら
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