小学校1年生の話です。
運動会がありました。まっすぐ歩くのすらヘタクソなわたしですが、身体を動かすのは好きな方で、運動場を半周し、最後にゴールしたことを覚えてます。
そして翌週、先生が言いました。
「運動会の絵を、思いだして書きましょう」
みんなは書きました。わたしも書きました。
けれど一点だけ。
『わたしの絵だけが』他のみんなと、決定的に違うところがありました。
それは、絵の中に『わたし』がいないのです。
仮にわたしの名前を『田中』だとします。
その日は運動会なので、みんな白い体操服を着ていて、胸元にはゼッケンのような形で『名前』が貼り付けられていたのです。
わたしも当然『田中』というゼッケンがありました。
他のみんなが書いた『運動会の絵』には、絵のどこかに必ず『自分』がいました。運動場を走っていたり、リレーのバトンを受け取っていたり、綱引きをやっている中に混じっていたりします。
でも、わたしが自由に描いた絵には『田中』の姿がどこにもありませんでした。家に帰ってからお母さんにも言われました。『田中』がどこにもいないのねと。
その時、わたしは思いました。
わたしは、ちょっとみんなと違うのかもしれないと。
ものすごく不安になったのを覚えています。
それから、だんだん、他のみんなが言っていることが分からなくなりました。逆にわたしの言っていることは、みんなに伝わらなくなりました。
わたしは、学校にいけなくなりました。
家でずっとインターネットをやって、ひたすら大人の人が書いたブログやニュースサイトを追いかけて、横書きの文字を咀嚼しました。当時、動画サイトなんかも出始めていましたが、わたしはひたすら『テキスト』を追いかけて、そのうち英語が読めないのに、海外サイトの個人テキストを追いかけたり、博士号を持つ学者さんの学術論文やエッセイもひたすら『目で追いかけました』。
お母さんとお父さんも心配して、カウンセリングとかに連れていってくれましたが、やっぱり上手く会話できませんでした。ただ、わたしの中にずっと淀んで固まっているのが、あの『田中が存在しない運動会の絵』でした。
わたしは、それをどうにかして口に出して説明しようとしましたが、みんな一様に『なにを言いたいのか、よく分からない』と言いました。わたし自身、そこになんらかのヒントがあるのだと思い、伝えようとしているのだと思いましたが、自分でも理由が分からなさ過ぎて、そのうち伝えるのを挫折しました。
でも一人、さっくり答えをくれる人がいました。
「それはおまえ、ただの現実主義だからだよ」
「げんじつしゅぎ?」
「そう。物の視方としたら、おまえの視点はある意味で正しい。〝先週の運動会の絵を描きなさい〟と言われた時に、その文脈を〝そのまま解釈したならば〟、その絵に〝自分が映ることはないはず〟なんだよ。
だってそうだろう? 自分の姿は、鏡でもないと視えないんだから。運動場が全面鏡ばりでもしてない限り〝先週の運動会の絵〟を描けと言われたら、自分の姿はどこにもないはずなんだ。だからおまえは正しい」
「……うん……」
「でも、他のみんなは、自分が描いた絵の中に必ず『自分』がいただろう? どうしてだか分かるか?」
「わかんない」
「理由は3つある。1つめは、仮想の世界では、自分がヒーロー、ヒロインになりたい。つまり目立ちたいという願望があるからだ。2つめは、みんなは無意識でイメージの世界の中に〝自分〟を存在させることができるからだ。世間で言われている〝空気を読め〟というのは、現実的な影響をフィードバックさせるのもそうだが、普段から無意識下でイメージしているからできるんだよ。人の輪の中にいる『自分』をな」
「……もうひとつは?」
「自分で考えろ。あと答えが思い付いても俺に聞くな。自分の中だけの答にしろ。その代わり、俺がいった2つの理由をよく理解した上で、それを否定せずに、3つ目の答えを持て」
「むずかしい」
「それが世の中で、折り合いをつけるって事だ。みんなが毎日考えて、実践してることだ。おまえだけが特別じゃないんだよ」
そう言われて、わたしはすごく、ほっとしたのでした。