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創作メモ 衒いのない主人公の造形 中庸の重要性

 全て個人的な見解だと最初に前置きしておく。異論は認める。

 なろう系で、得てして正義を振りかざす主人公が嫌われる風潮が一部にある。

 マギーは、敢えて衒いのない性格とした。彼女は善良で素朴なところがあり、正義感を有している人格だが、嫌味なところはない。

 善や正義を行う際、メリットデメリットを考え、尻込みし、時に善良な人々を見捨てたり、悪から逃げ出す事もある。忸怩たる思いは抱くが自分や身内の命の方が重要である。また必ずしも敵が悪とは限らずに、利害の衝突や譲れないことで争う事もある。悪や敵と戦う時も、恐れや警戒、そして喪失の覚悟を伴っている。


 これはすべてチート系の無制限の力の行使がないからこそ、逆に映える。

 等身大の人間がする覚悟、成長、力の行使、叡智の蓄積、出会いと伝手。
 権力の誘惑、堕落と救済、絶望、恐怖、逃避、憤怒。

 時に残酷な世界に翻弄されるからこそ、美しくて醜い人間の弱さと強さが光り輝くのではないかと思う。

 チート系を嫌いではない。よく読むし、自分でも書いたりする。読む麻薬とはよく言ったもので一時的な爽快感や勧善懲悪には魅力があるし、すっきりさせてくれる。

 ただ、長期的な物語と見た時、喪失や失敗への恐れを克服しての悪や困難への挑戦に人間的な魅力が輝くかというとやや否だと思う。少なくともそこには創意工夫が求められる。


 惑星を壊せたり、物品を幾らでも召喚できる主人公が、上から目線で正義を語るのは、それなりの爽快感があって、しかし、匙加減を誤ると蟻の世界に介入してお説教する巨人みたいなものとなる。

 蟻たちにはそれなりの動機があり、因縁があり、思いや繋がりがある。
 ある日、突然にやってきた巨人が数匹の蟻に肩入れして敵対する蟻たちを踏みつぶしてしまう。巨人なにやってんの?

 その点、等身大系主人公であれば、共感性羞恥に苛まれることはない。
 『幼稚園の砂場で遊ぶ高校生』になってないので、敗北したり、苦い思いを抱いて生きても生きざまを味わえるし、勝利や成功を読者は一緒に素直に喜ぶことが出来る。

 等身大系主人公と、チート系主人公には、双方に別種の魅力がある。

 そして、等身大系主人公は、成長した場合、(チート系のように)かつては敵わなかった敵を粉砕する描写により爽快感を伴うが、チート系が等身大の日常系のように振舞っても、小さな箱庭の手入れを延々と続けている為に面白く見せるには工夫が求められる。

 もっとも一部の知識がチートの主人公など、幾らでも危機と爽快感の演出をするなど工夫の余地はあるので、上で述べたのはあくまで一般論に過ぎない。

 初期から爽快感を伴うテンプレート展開を行えるのもチート系主人公を描く時の魅力だろう。テンプレートを外したチート系主人公も面白い作品が多い。

 

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