• 詩・童話・その他

10月のまとめ

 月初、たぶん4日ごろにはすでに遺書を書いており、それに費やしたエネルギーが存外、創作のそれと似通っていたがゆえに、10月は結局それ以降まともな文章を全く書かなかった。10月。色々なことがあった。書けばそれなりにセンセーショナルな事実が、それなりに多く起こった。
 それらのことを予期するかのように、というか、実際10月ごろにはそうなるだろうという見立ては容易についたので当然なのだが、10月初めに遺書を書いた。というか、自分の周りのことを何となく書き始めてみたら、世界中のあらゆる場所にいる人間への絶望が溢れ出し、母親の胎内にいた頃からのろくでもない記憶が蘇り、あれよあれよという間に、遺書、もう遺書ですねこれは、と誰が見てもそう言わざるを得ない。そういう文章が出来上がった。
 大学で勉強しはじめて数年も経つと、ドキュメンタリー番組なんぞを見ても思ってたよりしっかり批判的に見ることができて、結局、事実も描き方次第、というのを身にしみて感じたりする。映像という証拠性のつよいメディアを使っていてさえそれだ、まして遺書というのは言葉なので、事実である証明とか全く不可能、すべてが妄想、そういう圧力と戦うために、自虐的な事実を書き連ねたりして、ここまで書いたから事実なんです、信じて、といって、ポストロックの歌詞なんぞに多いが、最近そういうのにも目が肥えて、簡単には騙されなくなってきた。
 書かれた言葉があり、書いた人間がいる。事実はそれだけ。
 ほんの数年前に書いた自分の小説を読んでみた。
 彼女の自意識はまだそれほどはっきりしていなかった。会話していても相手の感情をおしはかることができなかった。与えられた事実をどんなふうにも解釈できなかった。彼女はともかく、その状態で、じぶんが理解できていることをすべて書こうとしていた。いわば青春小説。自分のイマを切り取る。
 比べると現在の自分はとてつもない老人にみえる。無限に広がっていた解釈不可能性の海があらかた干上がっている。世界を説明する、今の自分を説明する、自分の小説を説明する言葉で黒ずんだ大地がある。貪るように海を飲み込んできた私の両手が、宙を漂い、空をつかもうとするみたいな感じがする。二次元から三次元。理論的で幼児的な発想の直線移動。身を任せるには少し確かさが足りない。
 が、今いるこの巣は少しずつ腐り落ちているのだから、飛ばないわけにもいかないのだ。遺書を書いて、飛んだ、私が、そのまま死ぬか、あるいは空をつかむのか。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する