4月に起きたことはいくつかある。ひとつはニートをやめてフリーターになったこと。大学は休学のまま再開する気にならない。この職場というものが一種のカフェのように作用して、読書の時間が増えたのがふたつめ。みっつめには最新作のクレーンを「びんた小説感想集」に応募してプロの書評をもらったこと。
ところで、いちいち感情を荒立てるのにも飽きてしまったほど、「天才」という言葉につきまとわれてきた。たとえるなら二桁×二桁の掛け算くらいなら順繰りに数字を足していけば1秒で終わるよね? と、口には出せないがいつも思っている少年に似ている。しかし彼は掛け算の考え方がわからない。だから4桁以上になると何もできない。一方で二桁どうしなら早い。これで何をたとえたかはぼく自身にも定かでないが、おそらくは「思考力」と呼ばれるものだと思う。ひらめきの先に続くもの。神経細胞の頑丈さ。プロとして小説を書こうとする限り必ず通過しなければならない壁、いまぼくの目の前にあるもの、横にいる友達はみんな幼きよりその力を鍛え続けてきたものだ。
ぼくは決して何ひとつ考えてはいないのだと思うことが増えた。魔法の泡から間断なく生まれる類推のイメージによって、その場なりの答えがいつもすぐに浮かんでくる。しかし決してその先に発展するものではない。文章にもそれが表れる。なんとなく面白いように読めるが、いつだって論理構成は稚拙そのものだ。
二桁少年がありのままでうまく生きていく方法もある。三桁以上の計算をしなくてよくて、二桁の掛け算が早ければ良い成績を収められるような仕事を見つけること。ぼくが今いるところはそれに近い。アマチュアリズムの柔らかな膜の中で、ひらめきの力で短編小説を書いて、明確な弱点と明確な面白さをともに抱いたまま、人間らしく日々を生きる。そんな考えも浮かぶ。
ご不満な理由があるとすればぼくの完璧主義。弱点があるならば潰すに越したことはない。それに傲慢。自分の若さと可能性をまだ信じている。これ以上は思いつかない。小説は書けないがこんな文章ならいくらでも書けそうだ、と、ぼくはいま思っている。
かつて文学フリマのブースが隣り合ったことから大滝瓶太氏のツイッターをフォローし、そこからぼくを現代日本文学の中心地まで連れていく糸が伸びていき、蛙が大海を知り、鏡を拾って、まだ井戸への道を覚えている。というか、いつまでたっても、井戸への道は忘れないだろう。簡単にものを忘れられない頭をしているので。よりによってぼくは成功すればテレビに出演するような世界、ひょっとするとささいなスキャンダルまで後世に残るような狂った世界に飛び込もうと考えているらしく、なんと馬鹿げたことだろう、と思う。これ以上うまくなりたくない。いや、なりたい。いや、そもそもお前には無理だ。いや、無理じゃない。ぼくにはできる。いや、できたくない……と思っていつまでも鏡を見ている。これ以上書いても無駄らしい。