夏目漱石を読んでいる。冷静に考えて、『こころ』を読まずに死ぬなんてあるか、ないだろう。友人の若干ゴリ押し気味な推薦もあり最初は義務感で読んだ。
こころは名作だった。巻末解説も優秀だったので批判的な読み方も3割ほど含みながら読めた。近代小説の精神と大和魂。理性と感情。移りゆく時代の渦中にいる人間は、それを書いてれば名作になるんだから羨ましいね。と、頭の中でわるいやつが囁いたりした。『坊っちゃん』も読んだ。坊っちゃんが先に書かれたのである意味当然だが、坊っちゃんのほうが小説としては青臭かった。なんせ上の精神がキャラクター化していたので。坊っちゃんもこころも連載だが、こころは新聞連載だからひとまとまりが小さくて、坊っちゃんはまだ短編くらいの長さがあった。
連載すると読みが切断される。そうすると次読む頃には多かれ少なかれ細かいところが切り捨てられて、感じだけが残っている。漱石はそのへんにもちゃんと対応していた。むしろ毎回きれいに終わるので、いちど含んで味わいなおすためにわざわざ読書を切り上げたくなるほどだった。坊っちゃんよりこころのほうが、より切断される感じがした、切断の数が多いんだから当然、というわけでもなく、読みと読みの間の時間はこころのほうが少ないのでむしろ考えれば不思議なのだが、一週間前の夕食を覚えていないように、あるいは漱石の作家としての成長、熟練の妙技によって、構造力はそのままに、感覚に訴える力がより大きくなっているとか、そういう話かもしれない。名作を読むと「飲まれる」のは批判的な読み方の訓練が足りていないからだと思っている。しかしひょっとするとただの悪い癖なのかもしれない。病か、それとも性格か。
小説がいくら上手くなっても金が稼げない世の中だ。坊っちゃんを巻末解説のレベルまで理解できた人間はきっとすごく少ない、もしかすると今思っているよりもっと少ないかもしれない。売れた名作には必ず、一部のみ知る悲哀が漂っている。何もわかってないやつらがこぞって読み、わかってないのにしたり顔をしたという皮肉が。
未来の自分の夢を見ることがある。小説を書く人は得てして「実力で黙らせたい」という願望を持っている。創作の世界なら、知能の高い評価者がいて、彼らなら分かってくれるはずだと。その考えでむやみに芥川賞を目指すのはやめたほうがいい、芥川賞は小説のうち、あくまで一側面において優れたものを評価するのであって、それが評価しなくても実は大に優れている小説というのがこの世界にはたくさんあるのだということ、つまり小説の良さの相対性、みたいなつまらん話だが、それすらわからずに創作をやめてしまった自分がいた。
実のところ、そうはならないだろう。いくら名作を読んだところで、わたし自身の人生は、ずっと昔に軌道を外してしまったし、創作のヌマに足を突っ込んでからもはや十年にもなる。片足だろうがくるぶしだろうが毒素はもう体に回っている。