• 詩・童話・その他

アフター『光の中で』

 サークルで仲良くなった友人たちと実作強化合宿のようなことをした。温泉は宿からめちゃくちゃ遠くて往復するだけで筋肉痛になって、いくら風呂に入っても疲労は溜まっていく一方だった。髪質だけは少し良くなった。そんな中、宿の部屋でさっさと書いた小説。一年ぶりに書いた小説でもある。合宿、酒と悪酔い、葬式といったキーワードは道中の会話から拾ったもの。

 私の小説が読みにくいかどうかだが、実は読者によって全く読めなかったり、驚くほどすらすら入ったりするらしい。それを聞いてから私は読みにくいかどうかで自分の小説を診断することをやめた。届く人には届く、それだけで充分だと思えるようになったから。インターネットに小説を載せることにしたのも同じような理由で、はじめから万人受けを狙わないならば正規のルート(群像とか文學界とか)から世に出す必要がないからだ。

 ちなみに、ジャンルを「詩・童話・その他」にしたのはその他だと思ったから。言葉自体にも関係があるから詩にも近いかも知れない。現代ドラマにしていないのは、現代ドラマを読みたい人の需要は満たしてないだろうと予想できたので。つーか純文学ってジャンルを作りなよカクヨム。そういうレッテルには元から慣れてるんだよ我々は。

 そうは言っても自分の中で一定のラインは決めている。『光の中で』はある程度そのルールを厳密に守れたように思える。この小説を書かれている通りに文字を追って読めば、青臭い小説家がうっかり自分の小説世界で作り上げた憧れのヒロインを殺してしまい、反省するという「物語」になっている。そういう、文字通りに読めばひとつの物語になること、それがある程度現代的でポップであること……つまりは大衆を意識して分かりやすい落とし所を作っておくことが、第一のルールだ。合宿にて読者の一人が「読みにくいところを読み飛ばしても読めたから大丈夫」といった感想をくれたのは、私にとっても幸運だった。

 第二のルールというか、その上で自分が試みているのは、そうした表面的な物語を「文学的トリック」で否定するということ。ラストで「サユリ」の亡霊は不思議にも寺島を許すわけだが、これは許されたい寺島の汚い願望の現れにすぎないのかもしれない。そもそも「サユリ」は本当に『寺島の女性性の象徴』なのか、後半ふたつの小説が混ざりあうことで、前半の語りの信頼も失われていくような試みもある。ある意味では、これは文学を学んだ友人たちや、いつかこれを読むかも知れない偉い先生たちへの「ご褒美」のようなものでもある。

 というか、この「2ルール構造」自体が私のさいきんの思想に基づいていて、野性的な、感情的な行動と、それを批判し抑えようとする精神との対峙を表している、そういうつもり。だから物語のほうには暴力や性がよく出てくる一方で、語り口は教科書や新聞、近代文学を参考に理性を象徴する言葉をコピーしている。一年前に書いた『青ざめた舌』とこの作品はその点でよく似通っていて、個人的にはこれ少し発展可能性に乏しいかなとあやぶんでいるフシもある。

 合宿で面白かったのは、読者のなかでも文学に秀でた二人の意見が「主題をもっと推し進めるべきだ」と「メッセージを薄めてメタ小説として発展させるべきだ」に、真っ向から対立してしまったこと。このことは本当に嬉しかった。まさに二人の対決こそ野生と理性の対決……そう、彼らは野生と理性の擬人と化していた。それがなんやかんやで結ばれて幸せになれば勿論ハッピーエンドなのだが、そうはならないということこそ私が痛切に感じていて、それを現代の記録として、ほかの言葉でなく小説として、残しておきたいと思っていることだ。

 次の作品に期待すること。やれるものなら、この2つをどちらも先鋭化させていきたい。より過激でポップなストーリーを作りたいし、より複雑で優雅な構造で語りたいと思っている。ひょっとするとまた1年かかってしまうかもしれない。誰かが先にやってしまうかもしれない。そうしたら是非私に教えてほしい。誰かが書いてくれたら、それを読めたら私は充分に幸せだから。

 ちなみに、野性君(仮)は「人物の描写をもっと細かくすべきだ」と言ったが、理性君(仮)は「本編の人物が細かく描かれていないことこそ、創作の機械性や登場人物の記号性をうまく表している」と評した。この点で両方の需要を満たす方法が今の私にはなかなか思いつかない。

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