ーことばによって、世界を認識するのが、
人間であるー
この一つの定義に、日本人は疑問を投げかけること
できるのだと、辻邦夫は言っている。
自然、事物の『在りのまま』とは、
それらを語ることなしに、価値あるものとして
意識の中に、共有すること。
日本語の「そこまで言わなくても…」
「言わなくともわかる」の精神とは、ことばを介在させずに
人と人の"間"を、取り次ぐものだということらしい。
物心ついたころから、日本的なものの考え方、
意識、視線、言葉遣い、発声、ふるまい、
そうしたものを、どうにかして、身に付けようとして来た。
"奇異"に思われることが、怖かったのである。
それでも、その不安がかえって、生き方に
積極的な姿勢を生んだことは確かで、
なんにでも、強い言い方をして(虚勢を張って)は、
よく「目をじっと見て、話をするな」と言われた。
私にとっては、自分の言葉が通じているのか、
相手の目を見ることで、感じ取る必要があったからなのだが、
言われたときは、さながら、ショックだったものだ。
だが、この年齢まで日本人として生きてみれば、
よくいう"場の空気"なども、読めるようになる。
もちろん、そうした"在りのまま"を前提にした、ことばを
工夫して紡ぐ必要があるのだが、人に相対するとき、ことばは
実質、欠くことは実質出来ない。
それでも偶に、人に疲れたとき、
言葉以前の世界や自然に、とけていたいと思う時は、
少しひねくれているとは思うが、
日本語が歴史的に内包してきた「言わなくとも…」の温度が
心地よく感じることもあるのだ。