もし日本の医学が旧帝国陸軍の皇室直属の人命救助としての輔弼性を行政的な権限と分有していたとするならば、彼らが旧ソ連と対日参戦の降伏の無条件さから「ロシアがウクライナを侵略している」というプロパガンダを真に受けながら、「科学的な」行政の「人道的な」救命援助を主張することに筋が通るのではないか。それはつまり科学的な行政が「共産主義的」でないように皇室としての体面に配慮しつつ、それが「科学的」であり続けるための金銭的援助性を政府から受け取ることの正統性としても機能するための人命救助の誠実さとして政治的な愚鈍さを演じて見せる(たとえそれが意識的でなくても)ということではないだろうか。これは医者の金融政策に対する無知が生命保険や介護保険としてのみ個人的な判断に委ねられることの給料的な限界の拡張性として技術的なデータベースの論文性が選択的に検索されるということである。もちろん政治的プロパガンダや医療的無知に関する煽動に彼らを巻き込む必要はなく、それらはあくまで買収した疑似宗教勢力の陰謀ということにして自分たちの行政がその政治的選択の自主性をあくまで科学的に体現して見せるその無関心な在り方の負担が国民あるいは人民に移転されている、という負債の内面化を選挙政治の無責任さとして代理=表象している。問題は医学が特定のイデオロギーに奉仕すべきだ、という内面化ではなく、医学が科学的な行政を体現する存在として政治的な判断の主体を負う必要はない、という占領の責任を患者の医学的な無知に置き換えて、その説明内容の政治的な荒唐無稽さに薬学的な処理を持って対処する管轄補佐の人道性そのものにあるのではないだろうか。もちろん感染症の対策は「科学的行政」の問題であり、その政治的主体化がワクチンやマスクなどの予防の個人的な処置だけではなく社会的な感染処置の隔離、搬送、消毒などの責任の内面性としても試されるような自由の収益性に対する保全である。だが政治的思想の「感染」に科学的人道性をもって置き換えるような検閲措置の在り方は、その態度を国体護持の収益性に「結果として」加担することで、プロパガンダの「無知」を批判するという愚かさの民衆性というものを体現的に投影してしまう。それが罪深さの解消にならないのは、戦争犯罪に巻き込まれてもいないのに人道救助でその平和の責任を果たした気になるのとまったくの等価である。