非武装の民主主義者と武装した独裁者の対立における勇敢な犠牲者としてのベルリン市民は、アメリカ人の共感と支援に十分に値するように思えた。ベルリン市民は、合衆国の父権的温情主義を投影されることで女性化・子ども化されたと、歴史家ペトラ・ゲドが指摘している。防御的な事業として位置付けなおされた占領からは、〔ドイツに対する〕懲罰の要素が消え去った。
さらに朝鮮戦争の勃発によって、ドイツと日本がアメリカの敵国からの事実上の同盟国になり、さらに条約による公式パートナーになる流れが強まった。朝鮮におけるワシントンとモスクワの代理戦争___そして、合衆国率いる人民志願軍との間におきた戦争___が戦後の地政学的大転換を確固たるものにしたのだ。[スーザン・L・カラザース『良い占領?』]
合衆国によるドイツ及び日本の占領が、「成功」したと一般に言われたとき、その意味は、つい今しがた終わったばかりの戦争の被害を回復できたということではなかった。それは将来の世界大戦を見据えた目標が達成できたという意味だった。自身も軍政官だった歴史家エドワード・ピーターソンは、こうした評価基準の修正をドイツにおける「勝利のための退却」と呼んでいる。ここで彼が言わんとしているのは、ドイツを非工業化、非ナチ化して変革するというラディカルな目標を諦めたアメリカ人が、西ドイツの政体と経済を再建する大幅な自由をドイツ人に認めたとき、初めて大きな成果が得られたということである。
しかし、この格言は軍政官の多くから役立たずと見なされたものではなかったか。少なくとも占領初期の現場において、軍政官たちは完全な崩壊状況に直面し、「最大限の統治」を行わざるを得なかったのだから。つまり「成功」の基準は常に変化するということである。成功を、「誰のために?」とか「何のために?」といった問いから切り離して考えても意味がない。
かつての〔占領の〕悲惨な現実はユーモアに道を譲った。憎しみは、ロマンスと笑いにかき消された。一九六〇年に『GIブルース』を出したエルヴィン・プレスリーが。「あいつらを芝生に入れないで Keepen Sie Off Die Grass」とご機嫌な調子で歌うとき、GIがお安い「ドイツ娘」と「親交」していたあの戦後ドイツは、もっとも無垢なるティーンにとってさえ、安全な場所になっていた。合衆国一有名な占領軍兵士プレスリー二等兵が未来の花嫁と出会ったのは、ドイツでの任務中だった。彼女プリシラ・ボーリューはそのときわずか十四歳だったが、「良い占領」のほうは、明らかに成熟していた。
ロマンティックな和解の幻想は、たいていの場合、嫌々はたらく占領軍歩兵の日常を満たした退屈と困惑と野卑を覆い隠してしまう。〔アメリカによる〕征服は、必ずしも思いやりを育まなかった。むしろその特権に太鼓判を押された兵士が安易に実践する支配は、強欲と腐敗を育てる結果になりがちだった。
してみれば、人類にとってもっとも破滅的な戦争〔第二次世界大戦〕の勝者が、陸軍の『野戦マニュアル27-5』に収録されたフランシス・リーバーの戒めを守れなかったことにも不思議はなかろう。彼らが忘れていたのは、南北戦争についてリーバーが残した以下のような言葉である。「軍政が力により実施されるとき、それをつかさどる者は、正義と名誉と人間性の原則に厳格に従わなければならぬ。これらが、他でもなく兵士にとっての美徳であるのは、彼らがまさに武器を持たぬ者に向ける武力を有しているからだ。」
戦後のヨーロッパとアジアにおける悲惨な運命の前で立ちすくみ、苛立ちを募らせた占領軍兵士は、武力によって担保される自らの優位を利用する誘惑に繰り返し駆られた。占領が構造的に生み出す〔権力の〕非対称性は、美徳よりも悪徳に対して強い動機付けを与えた。また、欲求の充足が簡単に叶う状況の下では、〔兵士〕の良心の痛みも自然と弱まった。