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軍政学校イデオロギーと同国の「現地住民」の「差別的」模倣による抵抗

しかし日本人の礼儀正しさにもかかわらず、あるいはそれゆえにこそ、占領の最初の数週間に多くの兵士が欲求不満をためることになった。敗者に対して従属的な立場を思い知らせることを勝者の責任___あるいは役得___と見なした兵士がいる。彼らは〔日本の〕人々が新しい秩序に完全に適応しているか、少なくともそう【見える】ために、その性根を叩き直す機会がまったく与えられないと腹を立てていた。日本人ときたら、よくもまぁ、アメリカ人が一緒に新しいビジネスに踏み出すパートナーであるかのように、あるいは際限なくお茶を出し接待すべき客ででもあるように、振舞えるものだと。
一部の怒れるアメリカ人は、日本人の礼儀正しさゆえにかえって彼らをもっと乱暴に扱ってやりたいと思った。「彼らの奴隷根性と卑屈さは侮辱的だ」と、著名なジャーナリストであるテディ・ホワイトが『ライフ』誌の中で述べている。「彼らのそうした態度が暗に仄めかしているのは二つの国民の出会いが友情と対等さと敬意と真心に基づいているということだ。日本人がそういう態度に出るのは、我々の力の方が強く彼らを打ち負かしたからであって、日本人やその国が間違いを犯したと彼らが感じているからではない」。
ホワイトのこの興味深い理論をあてはめれば、日本人の「奴隷根性」と見える態度には実はへつらう者とへつらわれる者は対等だと思っているところがあるわけだし、そうなると日本人を貶めるというアメリカ側の精神の安全弁も使えなくなってしまうわけだ。仮に日本人が自分たちの劣後と罪を自覚せず、ただ強い力に頭を下げているだけなのだとすれば、さらなるアメリカの力の誇示はますます彼らの卑屈な態度を引き出すだけだろう。腹の底では頭を垂れていない者が、より深くお辞儀をするだけのことだ。アメリカ人はまだ「ジャップどもの鼻を敗北の死の灰にこすりつけて」思い知らせることまではしていないという恐るべき表現が出てくる。(スーザンL・カラザース『良い占領?』)

軍政官の仕事の多くが「政府による監督というよりは災害救援」だったと、公式記録は結論付けている。これは紛れもない事実であろう。しかし同じくらい明らかな事実は、沖縄の人が耐え忍んだ悲惨な境遇が、戦闘のみならず「基地整備」のせいでもあったということである。クリストの報告書はこの点について遠回しにしか述べていない。
戦闘が生活のあらゆる側面を消し去る過程でやり残された仕事を、海軍建設舞台の重機がただちに完了させた。「島の表面(フェイス)のしわが伸ばされていった」と、ある将校が後に慨嘆している。「古来の文化全体が消えていった。町が次々と破壊されていった……道路、飛行場、ゴミ捨て場、キャンプなどを造成する中で、ブルドーザーが郷土まで壊していった」と。

ドイツで親交禁止令が出された政治的、道徳的、イデオロギー的な理由と、沖縄で同様の方針が打ち出された理由は異なっていた。ドイツの場合、ナチズムの恐怖に対する「集団的な罪」をドイツ人に自覚させることが、親交禁止の推進動機となっていた。その際の論拠となったのは、市民は熱狂的にナチ党を受け入れ、一〇年以上も彼らを権力の座に据え続け、国外における侵略戦争の遂行を支持し、さらには国内外で行われた残虐行為にも見て見ぬふりをしたという確信だった。
沖縄の場合、これとは対照的だった。ここでは、日本帝国の犯罪に加担した島民たちを礼儀正しく扱うべきではないなどという理屈は、親交禁止の発令にほとんど(もしくはまったく)影響を与えていない。地元民とのあらゆる交流の禁止は、むしろ〔占領軍の〕安全を確保することと〔沖縄の〕人々を心服させることを大義名分として繰り返し発令され、正当化されたのである。〔沖縄の親交禁止令に込められた、右の二つの目的のうち〕どちらも人種と人種の差異に関する有害な思想に立脚していた。

ところがあまりに露骨な軍隊の位階システムについて言うと、占領軍の兵卒の我慢の限界が近づいていた。そこで将校たちは、勝者〔アメリカ兵〕が日本人の慎み深さを真似するのを大いに結構なこととして、〔下士官兵に〕推奨した。「同情的で無邪気なお人好し」になり易い、自分たち〔アメリカ人〕の国民性に注意しながらという条件付きだが。「我々は、この惨めで不潔な人種〔日本人〕を嫌悪の念をもって眺め、冷徹な正しさをもって扱うべきだ」とスパローは語った。
しかし、一九四五年秋に日本を占領したほとんどのアメリカ人にとって、自分たち自身に対するものも含む諸々の規則が強化される事態ほど、避けたいものはなかった。

もちろん、東洋のずる賢さと西洋の他愛なさというファンタジーに魅了されたのは、くだんのコメディを真に受けた者だけである。すなわち、生々しいトラウマにいろどられた沖縄の過去とともに『茶屋』がごまかした権力関係を忘れがちなアメリカ人だけが、この演劇に夢中になれたのである。実際の沖縄では、征服するものと征服されるものとの境目が曖昧になることなどあり得なかったし、戦争による徹底的な殺戮を経験した人々の大量死を思い起こさせる軽口が、冗談になるはずもなかった。合衆国が半永久的に「租借」する沖縄は、知事を任命し、議会の立法を拒否し、命令を発して支配する絶対的な権限を持ったアメリカ人将官が統治していた。

この反応から明らかなように、〔劇が描く〕無力さのファンタジーに魅了されたのは権力を持つ者〔すなわち、アメリカ人〕だけだった。また、支配関係〔の現実〕を支配される側のしたたかさの称賛にすり替え得る立場の者〔アメリカ人〕だけが、「原住民」も自分と同じように魅了されるだろうなどと思えたのである。件の沖縄の教授と同じく、他のアジア人も、『茶屋』を不愉快な仮装パーティーと思うかもしれないということが、徐々にではあるが脚本審議会の面々にも分かってきた。(…)いくらアメリカ人が、【自分たち】こそこの作品の「上品できさくな」からかいの標的だと思ったところで、外国の観客もそう考えるとは限らないと、外交官は警告した。

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